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トップ > アメリカン カール > アメリカン カール - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年11月20日 10時)

[フランス文学][RPG][エッセー]RPGと批評の幸福な関係


 僕は駆け出しながら、RPGについての翻訳やライティングをしています。だから当然、なぜRPGを遊ぶのか、どうしたら面白く意義あるものとして遊ぶことができるのかということを常に意識せざるをえません。面白さとは何かを考えていくと、それは「面白い」ことは何かという問題、つまり価値判断という問題について吟味せざるをえなくなります。

 その延長線上において、RPGについての批評があるのか、あるとしたらいかに成立しうるのか、という大きな話にも直面せざるをえないことがままあります。


 ただ同時に、僕はRPGを広義の文芸の一種だと思っています。RPGとSFの関わりについては、ジャック・ヴァンスやE・C・タブやアーシュラ・K・ル=グィンの作品にも通ずるところのあるSF-RPG、『トラベラー』を題材にし、季刊「R・P・G」誌の3号に書きました。

R・P・G vol.3―季刊 (3)

R・P・G vol.3―季刊 (3)

  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本

トラベラー基本ルールセット日本語版

トラベラー基本ルールセット日本語版

  • 出版社/メーカー: Raimei
  • メディア: おもちゃ&ホビー

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

 そして、RPGと文芸そのもの関わりについては「R・P・G」誌の4号に詳しく考察しています(むろん、これらはとっかかりでしかなく、まだまだ突っ込み足りないのですが……。「R・P・G」誌の休刊が、残念でなりません)。


 しかし、僕がよく話題にする、RPGというジャンルが持つ、神話(北欧神話なりクトゥルフ神話なり)の解体・再構築のほかにも、当然ながら掘り下げられるべき課題はたくさん残っています。

 一例を出しましょう。

 先に書いた「私の場所、他者の居場所」という小文においては、『ゴドーを待ちながら』という戯曲と、「わたしの場所の複数」という小説の関係性について考えました。

 一方で、RPGと『ゴドーを待ちながら』の間柄を考えると、「わたしの場所の複数」への考察とはまた切り口が異なり、かつ非常に独創的な視点を提示することが可能になります。


 「Role&Roll」誌のVol.44には、小林正親さんによる「『ナイトメアハンター・ディープ』で創る実践・脚本術<追跡編>」という記事があります、

 この記事は、RPGというジャンルのオリジナリティを「タイミング」と「舞台」というこれまであまり語られなかった着眼点から示した労作で、『ナイトメアハンター・ディープ』という特定のタイトルのみに留まらない、RPGというジャンルの普遍的な構造に繋がる問題をやさしい言葉で語った記事なのですが、その「タイミング」と「舞台」を考えるための導きの糸として、『ゴドーを待ちながら』が用いられています。

 興味深いのは、この記事がRPGと『ゴドーを待ちながら』を接続させることで、『ゴドーを待ちながら』そのものの優れた批評にもなっているということです。

 『ゴドーを待ちながら』をベタに読んでいるだけでは、当然、こんなものの観方は生まれません。批評というと、つまらない罵倒だと思われがちですが、この記事にはそうした「上から目線」もありません。むしろちょっと角度を変えて『ゴドーを待ちながら』の特性を語ることによって、今まで見過ごされてきた独自の面白さをRPGから引き出そうとしています。演劇にも、文学にも、RPGにも通じている小林さんだからこそ持ちうる、批評的な観点の勝利です。というか僕はこんな見方できていませんでした。

 シナリオ・メイキングガイドとして使いやすく、RPGの構造についての独創的な分析になり、かつ戯曲そのものにも新しい視点を提示している。一粒で、三度美味しい。短い記事ではありますが、批評性というものがなければ、ここまで内容的に豊かなものにはならなかったでしょう。

 出版業界が冷え込んでいるなか、批評というものはともすれば無用の長物と思われがちです。しかし、批評的な観点の用い方によっては、いくらでも作品を面白くすることは可能ですし、マーケットへ通用させることもできるでしょう。

 ここでは、その可能性のひとつを提示したにすぎませんが、そうした効能そのものはもっと着目されるべきではないかと考えています。例えば翻訳も、ある種の批評性を孕みます。訳そうとする作品が何を意図しているのか、考え抜く必要があるからです。それゆえ、批評的な問題意識というものは、実はとても身近で、役に立つ話ではないかと考えています。

 そして私も微力ながら、面白い作品を書き、訳し、かつ優れた批評的見地の提示ができるべく、努力していきたいと思います。

Role&Roll Vol.44

Role&Roll Vol.44

  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2008/05/09
  • メディア: 大型本


 ※「批評」と「感想」との違いは、この本がかなり詳しく突っ込んで考えています。当たり前ですが、批評>感想、あるいは感想<批評などとはなっていません。

批評と文芸批評と―小林秀雄「感想」の周辺

批評と文芸批評と―小林秀雄「感想」の周辺

作者:Thorn

更新日:2008年11月20日 0時0分

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[大江健三郎][笙野頼子][日本文学][思想史]私の場所と、他者の居場所


 「笙野頼子ばかりどっと読む」のPanza(id:Panza)さんが、笙野頼子の一神教問題について語ってらっしゃいました。

 時間がなくざっくりとしか説明できないのですが、つまり、「浸透と拡散」が進む現状、対抗策として〈個〉を大事にしすぎると、それは一神教的な考え方に近づいていく、ということです。〈個〉が受苦者=救世主、となってしまう。そうなると、(それこそ「イスラム」と冠詞がついてしまうような類の)原理主義化が少しずつ進行するわけですね。それはどうか、という話です。

 一神教の源流であるユダヤ教を調べると、理論的な補強はいっぱいされている。でもすごく込み入った話なので、ここでは割愛させて下さい。ただ、現代日本に当て嵌めるためには、サバタイ・ツェヴィの棄教をモティーフにした大江健三郎の『宙返り』が役に立ちそうだと思う、とだけ言ってお茶を濁しておきます。このあたりは、いずれじっくり。

宙返り〈上〉

宙返り〈上〉

宙返り〈下〉

宙返り〈下〉

 この「一神教問題」への回答として「私の中に他者の場所が複数ある」とPanzaさんはおっしゃっています。しかしその「場所」とは何でしょう。

 岡田利規にその名も「わたしの場所の複数」という中編があります(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収)。

わたしたちに許された特別な時間の終わり

わたしたちに許された特別な時間の終わり

 これはワーキングプア状態のフリーター夫婦の日常を描いた作品。芸大出にも関わらず、職に恵まれなかった彼らはオーバーワークが板についてしまい、お互いがお互いの場所を見い出せなくなっています。行き着いたネットカフェにも居場所はない。もう若くはない彼らの閉塞感は壮絶で、まさに生存に関わるレベルで出口がないわけです。

 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』には、「三月の五日間」というイラク侵攻の夜に、ホテルでセックスに興じるカップルを描いた短編がカップリングされています。

 カップルが性行為に興じるのは、「戦争」という大きな物語の相対化(「戦争」でさえ、自分たちとは関係のない、あるいはベタな物語として消費されてしまう)のためだという読みが多いのですが、僕はこれはテスト前に慌てて片づけをするのと同じ理屈で、ある意味、追い詰められているがゆえの逃避に近いものがあると思っています。


 ボスニア紛争のとき、サラエボでは、スーザン・ソンタグがサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を上演して、空襲のさなか大入りの客を集めたと言いますが、「三月の五日間」はこのエピソードを参考にしているのではないか、と思った次第でした。

 つまり、ホテルにこもってセックス三昧のカップルは、いわばゴドーを待っているのです。

 問題は、ゴドーが来るのか、来るとしたらどこに入るのか、ということでしょうね。

 ベケットは意地悪なので、待っていることこそが岡田の言う「特別な時間」で、いざゴドーが「到来」したら、もっと酷いことになるかもしれません。ジャック・デリダは、『法の力』で、そうした「到来」を恐怖しました。なぜ恐ろしいのでしょうか? それは、「救済」と「破滅」は紙一重だからです。このあたり、佐藤哲也の『妻の帝国』が非常に詳しく突っ込んでいるように思っています。

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 そもそもゴドーが入る場所なんかないことを示すことで、裏口の隙間からそうっとゴドーを招き入れるのが岡田の方法だと僕は読んでいます。だから、閉塞的なのにもかかわらず、「わたしの場所の複数」は、タイトルに嘘偽りがない話になっているわけです。小説技術的にも、「一人」に見えた語りを複数的なものとすることで(分裂しているのではない。複数。ここ重要)、かような主題を補完しようとしています。

 こうした苦しい立ち位置に対し、いったいどのようなリアクションが(文学的には)可能なのでしょうか。いや、これはPanzaさんへの問いというよりも、ほとんど独り言みたいなものですが……。

作者:Thorn

更新日:2008年11月19日 0時0分

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[幻視社][SF][フランス文学]ラングドン・ジョーンズと、アンリ・ミショー


 文学フリマで発売された〈幻視社〉第3号に掲載の「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」の最後に、ラングドン・ジョーンズの『レンズの眼』が出てきます。

 この小説から得たイメージにいちばん近いのが、僕のなかではアンリ・ミショーなのですね。つまりジョーンズに、SFと詩を接続させる原点を感じているわけです。

 この詩というのはあまり狭い意味ではありません。

 かつてイタリアの未来派の詩人たちが詠ったような、テクノロジーを思弁から見る視点としての詩のことを言っています。案外ここに、思わぬお宝が隠されている気がします。

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

アンリ・ミショー詩集

アンリ・ミショー詩集

  • 出版社/メーカー: 彌生書房
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: ?

作者:Thorn

更新日:2008年11月16日 0時0分

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[ゲームブック][ノート]『顔の無い村』復刊

 『大江戸RPG アヤカシ』は、JGC2008に参加した際に速攻で購入し、情報を集めてきました。

そのサポートブログで知ったのですが、思緒雄二さんの傑作ゲームブック『顔の無い村』が、復刊するようです。  

 しかも、小林正親さんによる書き下ろしアナザー・エピソードも加わっています!


 ゲームブックとは、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、ページや段落がばらばらになっている本。ユーザーは、提示される選択肢を自由に渡り歩きながら、本の提供する「ゲーム」を遊ぶという仕組みになっています。独自の文脈があり、とても面白いものです。

 しかしながら、同時にその文脈が、いささか過小評価されているきらいがあるのも事実でしょう。


 文学フリマで色々同人誌を買いましたが、ゲームについて語られた言説は、少数の例外を除けば、どうもいささかうわついた印象が拭えないものがありました。

 例えば、あるゲームで〈日本〉が題材になっていたとします。ところが、ゲーム文化における〈日本〉はあくまでもフェイクとしての〈日本〉でしかなく、深みが感じられないもの/意図的に深みを削ぎ落としているものが、ほとんどです。そして批評の言葉は、その深みがないところに、新しさを見ようとしています。90年代、そして2000年代前半に青春を過した身にはわかる話ではあるのですが、一方で少し物足りなく思えるのも事実です。


 「物語」と「ゲーム」との関係性を語る際に、いわゆるコンピュータゲームが普及する前に「物語」と「ゲーム」とを結びつける基礎となったゲームブックについての考察が、もっとなされてもよいと思うのです。


 もともと、20世紀文学にはある種のゲーム性があります。とりわけ、アラン・ロブ=グリエ『幻影都市のトポロジー』、トマス・ディッシュ『334』、大江健三郎『同時代ゲーム』などに顕著ですね。

 その流れをもっとも早い時期に引き継いだのが『トンネルズ&トロールズ』のソロ・アドベンチャー。続いて、『ファイティング・ファンタジー』で、ゲームブックのブレイクがくるというわけです。


 ゲームブックについては、いずれどこかで長く書きたいものですが、簡単にまとめましょう。

 ゲームブックの多くは粗製乱造でした。が、なかには、「ゲーム」にしか不可能な、「神話」の解体と再構築を目指した達成もありました。『アルテウスの復讐』『ミノス王の迷宮』『冒険者の帰還』の〈ギリシア神話ゲームブック三部作〉、アーサー王伝説をモティーフとしたJ・H・ブレナンの『グレイルクエスト』(『ドラゴン・ファンタジー』シリーズなどがあります)。イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』がヒントになっている奥谷晴彦『魔城の迷宮』……。このあたり、語り始めると止まりません。


 そのなかでも白眉なのが、思緒雄二さんの作品でした。

 思緒さんは、もとは折口信夫を本格的に学ばれていた方。そして、それをゲームに活かすことに成功している稀少な方。

 うわっつらではない〈日本〉とゲームの幸福な結婚を、かつて『顔の無い村』の先に復刊した、『送り雛は瑠璃色の』を読んだときに感じたものでした。


 『顔の無い村』の復刊はまだ先のようですが、『送り雛は瑠璃色の』は、掛け値なしの傑作。ゲーム的な前提知識は必要なく、素直に楽しめるゲームブックです。数値管理が苦手な方も、お気軽にどうぞ。

 こういう優れた作品が、もっとメジャーになれば、と思わずにいられません。

 とりわけ、比較的簡単にコンピュータでコマンド選択式アドベンチャーゲーム(ノベルゲーム)を創ることが可能な昨今、あえて「本」という媒体にこだわり、無駄なくゲーム性を凝集させるゲームブックは、もっと見直されてもよいのではないかと思います。可能性のあるメディアでしょう。

送り雛は瑠璃色の

送り雛は瑠璃色の

 そういえば、「Role&Roll」誌に連載されている「魔法イメージ探訪記」、単行本にならないかなあ。

 え、思緒さんと関係があるかって? 雰囲気に、相通ずるものがあるじゃないですか(笑) 『クトゥルフ』の『黄昏の天使』も、もういちど、この時代に読みたいなあ。

作者:Thorn

更新日:2008年11月16日 0時0分

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[ボードゲーム]空中庭園など

 僕はボードゲームは大好きなのだけれども、あまり感想を書いてませんでした。近頃2つ遊べたのでメモ。


・空中庭園

http://sgrk.blog53.fc2.com/?no=901


 立体テトリス。先輩には「お前が好きそうなゲーム」と言われたが、まさにその通り。

 すっげえ楽しい! こういうの大好き。

 何気にテクスチャーが古代バビロニア(ネブカドネザル帝)なのもポイント高し。


・魔法にかかったみたい

http://www.mobius-games.co.jp/alea/Wie_verhext.html


 ゲーム性は解説サイトに詳しい。

 ただ、実際のプレイ感覚としては、勝つための手順がさっぱりわからない。

 どこかに隠された法則があるようにも見え、その一方で、勝つよりは場を読む力が重視されるゲームな気もする。つまりはギャンブル性強し。『カイジ』で戦いのネタにしてほしい。

作者:Thorn

更新日:2008年11月16日 0時0分

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[映画]『アポカリプト』を観る

 感想、書いていませんでした。

 僕は『ブレイブハート』を3桁は観ている男なので期待していたが、裏切られなかった。

 ひどくシンプルなストーリー。極めて再現性の高いセット。野蛮さ極まりない衣装。痛そうな殴り合い。瞬間的に散りゆく命。素晴らしい。戦術面でも勉強になる。

 しかし何より魅せられたのは、こうしたシンプルな運動性、原初的な物語の持つ力強さというべきものだ。スペイン船に「背を向ける」ラストも秀逸であるが、それはおまけに過ぎない。

 あえて言えば、こうした原初的な運動性こそが〈文学〉だろう。

 少なくとも批評のある種の出発点である、18世紀ドイツ、ホメロスの叙事詩を語るレッシングの文には、そのような問題意識が観られたものだった。〈作品〉そのものからあえて目をそむけがちな(現代日本における)批評的な言説の軟弱さがまかり通る現状において、ひどく痛快な映画ではあった。自戒を込め、噛み締めて観る。

アポカリプト

アポカリプト

作者:Thorn

更新日:2008年11月16日 0時0分

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[雑感][SF]BH85

 ものすごく情報が遅いが。森青花の『BH85』、徳間デュアル文庫から復刊してます。


 『BH85』は、

 も の す っ ご く 気 持 ち 悪 い 作 品 で す。


 世界破滅型のフィクションが、その軸として「自意識」ばかりを取り上げるのが流行っていた当時、それとは正反対に行ったのがすごい。

 世界の圧倒的な無慈悲さ、近代的な「自然」ではなく、あくまでも手付かずの自然、のキモチワルサを、こんなほのぼの書いてよかったの? と、驚きました。

BH85―青い惑星、緑の生命 (徳間デュアル文庫 も 2-1)

BH85―青い惑星、緑の生命 (徳間デュアル文庫 も 2-1)

 日本的なアニミズム、あるいはIPS細胞との関係性とか、色々興味深いフックがありますね。

iPS細胞 世紀の発見が医療を変える (平凡社新書 431)

iPS細胞 世紀の発見が医療を変える (平凡社新書 431)

 この復刊がよい流れに繋がればなあ。個人的には、ファンタジーノベル大賞系だと井村恭一の『ベイスボイル・ブック』が絶版なのはおかしいと思うのですが。「不在の姉」などの近作とカップリングしてどこかで出ないものでしょうか。

ベイスボイル・ブック

ベイスボイル・ブック

  • 作者: 井村恭一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

作者:Thorn

更新日:2008年11月16日 0時0分

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[SF][英米文学][時事][雑感]第4回日本SF評論賞の最終候補となりました。


 少し迷いましたが、既に発表がなされているようなので、黙っているとかえって不自然かと思い、書きます。

 出先から帰ってきて朱鷺田祐介さんのブログ「黒い森の祠」を見ると……。

 見出しに「SF評論賞最終選考に岡和田晃氏」とあってのけぞったのでした。


 日本SF作家クラブのホームページを確認したら、本当に出ているぜよ。ホームページには結果出てから載ると、勝手に思い込んでいたよ……。

 はい、僕は「ジーン・ウルフまたは「読み」の批判――ニューウェーヴSFを再考する」という論文を書いています。

                      ***


 僕はオリジナルなジーン・ウルフへの接し方、従来の読みの地平を越えた読解、何よりいまウルフを読むことはどういうことか、SFとしての必然性とは何かを示した自信はあります。

 自分の言葉で書き、獲る気で書きました。

 記号の整理と操作にかまけた「政治」ではなく、先人の資産を真摯にふまえ「批評」をしました。立体的なものとして歴史を背負いました。そう、胸を張って宣言できます。


 厄介な作家・作品でした。資料代は考えたくもないですし、苦労話もできますが、しません。

 むろん拙稿は完璧ではないでしょう。拙いところがあると思います。

 でも、書いていてこの仕事への意義を感じましたし、書き終えたとき、新しい地平が見えたのは確かでした。


 どっしり構えて、判定を待ちます。

 一喜一憂はしません。夢中で祈りもしません。

 望むところは真剣勝負。

 自分の意志でこの賞を選び、ジーン・ウルフというある意味「SF」と「幻想文学」ひいては20世紀(以降の)芸術そのものとも言える巨大な存在に本気で向き合い、この賞のために書いたからです。


 必ず意地悪なことを言ってくる人がいるので、あらかじめ釘を打っておきますが、僕が「Speculative Japan」のメンバーだからといって(あるいはその他の理由で)贔屓(あるいは差別)するようなくだらない人は、選考委員には絶対にいないでしょう。

 僕は、公正な裁定が下されると信じています。そうでなければ、応募した意味はありませんから。


 待つ間も粛々と自分の畑を耕し、結果が出たら黙ってそれを受け入れ、今後の執筆活動に活かすつもりです。


※[はじめに]に断り書きがあります通り、意図を正確に伝えるため、表現を少々修正しました。また、悪戯と思われるコメントを削除させていただきました。

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 0時0分

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[D&D][イベント][プレイリポート]シャドウハントの霊廟

 そういえば、「WORLDWIDE D&D GAME DAY 2008」の「シャドウハントの霊廟」のダンジョンマスターをしてきたのでした。世界中のゲーマーたちと、同じシナリオを遊べると言う趣旨のイベントでしたが、12月5日に『プレイヤーズハンドブック』が発売される『D&D』第4版を、一足先に遊ぶことができるのも魅力です。僕も、第4版のマスターをするのに、大いに参考になりました。

 「ぶっちゃけ、シナリオのバランスはメリケン仕様です。世界のゲーマーと同じ苦しみを味わいましょう!」というキャッチコピーで参加者を集めました(笑)せっかくの機会なので、いっさい手を入れず遊ぼうという魂胆。でも定員はすぐに埋まりました。


 プレロールドキャラは、さほど使い勝手の悪い者はいない印象。ただ、せっかくなので舞台はフォーゴトン・レルムに変更しておきました。


※「WORLDWIDE D&D GAME DAY 2008」で使用したシナリオのネタバレがあります。ご注意下さい。

 最初のリドルは、実時間30分くらい悩んでようやく解けた感じ。

 ただ、いきなりいちばん奥にまで突っ込み、挟み撃ちに遭う。

 ローグのストライカーがかなり頑張ってスケルトンを倒していったが、背後からアニメイテッド・スタチューが迫る。

 ディフェンダーのファイター2人が頑張って粘ったけれども、押し負ける。

 最後は、hp11のスタチューと、hp3のウィザードが追いかけっこ。

 で、ウィザードが押し負けました。


 あ、シャドウは最後、重傷になったエルフの攻撃に向かうという展開に。


 結果、全滅となったのですが、参加者全員、「死力を尽くし、やり遂げた」というすがすがしい顔つきになりました。フシギと誰からも文句は出ず、かえって「D&Dって面白い」というノリに。『D&D』ならではの、裁定の公平感がよかったのかもしれません。

 いやあ、スリリングでした。これだからRPGはやめられませんね。

作者:Thorn

更新日:2008年11月13日 0時0分

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[幻視社][エラッタ]〈幻視社〉3号、誤植の報告です。


 先に第7回の文学フリマで発売された〈幻視社〉3号ですが、私の担当していた部分に、エラッタが出てしまっているところがあります。

 お買い上げ頂いた方には、たいへん申し訳ありませんでした。

 現在判明している誤植の箇所を、かなり細かな部分まで報告させていただきます。主に、体裁的に気になる箇所についての指摘であり、内容に関する致命的なものはありませんので、そこはご心配なさらずとも大丈夫です。

 ご迷惑をおかけいたしました。



「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」


●P.44、上段、6行目

「〈SFマガジン〉〇八年一〇号」→「〈SFマガジン〉〇八年一〇月号」


●P.44、上段、9行目

「すっかり蹂躙ているという絶望」→「すっかり蹂躙されているという絶望」


●P.47、上段、『ノヴァーリスの引用』からの引用

※引用文中、一行空きがある箇所がありますが、そのまま詰めて下さい。抜けはありません。


●P.47、下段、最終行

「それに消費としての意義を見出さない批評的言辞」→「それに消費としての意義しか見出さない批評的言辞」

※08.11.14追記


●P.50、上段、後ろから4行目

※クォーテーションマークが不均衡になっている箇所があります。位置は変わりません。


●P.51、下段、後ろから6行目

「意匠でぇはなく」→「意匠ではなく」


●P.54、上段、6行目

※一行空きがある箇所がありますが、そのまま詰めて下さい。抜けはありません。


●P.56、上段、『断章と研究』からの引用

※引用文のため、地の文より、それぞれ一行下げてお読み下さい。


●P.56、下段、後ろから4行目

「アフリカのハンセン氏病の副院長」→「アフリカのハンセン氏病院の副院長」


●その他

※行頭一字空きが抜けている箇所がありますが、抜けはありません。そのまま一字、空けてお読み下さい。



「消失事件」


●P.63、上段、4行目

「箸を置く」→「棒を置く」

※この国のこの時代に、火箸はありません。


●その他

※行頭一字空きが抜けている箇所がありますが、抜けはありません。そのまま一行、空けてお読み下さい。

※クォーテーションマークが他の箇所と統一されていない部分があります。位置は変わりません。

作者:Thorn

更新日:2008年11月13日 0時0分

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[フランス文学][RPG][エッセー]RPGと批評の幸福な関係


 僕は駆け出しながら、RPGについての翻訳やライティングをしています。だから当然、なぜRPGを遊ぶのか、どうしたら面白く意義あるものとして遊ぶことができるのかということを常に意識せざるをえません。面白さとは何かを考えていくと、それは「面白い」ことは何かという問題、つまり価値判断という問題について吟味せざるをえなくなります。

 その延長線上において、RPGについての批評があるのか、あるとしたらいかに成立しうるのか、という大きな話にも直面せざるをえないことがままあります。


 ただ同時に、僕はRPGを広義の文芸の一種だと思っています。RPGとSFの関わりについては、ジャック・ヴァンスやE・C・タブやアーシュラ・K・ル=グィンの作品にも通ずるところのあるSF-RPG、『トラベラー』を題材にし、季刊「R・P・G」誌の3号に書きました。

R・P・G vol.3―季刊 (3)

R・P・G vol.3―季刊 (3)

  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本

トラベラー基本ルールセット日本語版

トラベラー基本ルールセット日本語版

  • 出版社/メーカー: Raimei
  • メディア: おもちゃ&ホビー

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

 そして、RPGと文芸そのもの関わりについては「R・P・G」誌の4号に詳しく考察しています(むろん、これらはとっかかりでしかなく、まだまだ突っ込み足りないのですが……。「R・P・G」誌の休刊が、残念でなりません)。


 しかし、僕がよく話題にする、RPGというジャンルが持つ、神話(北欧神話なりクトゥルフ神話なり)の解体・再構築のほかにも、当然ながら掘り下げられるべき課題はたくさん残っています。

 一例を出しましょう。

 先に書いた「私の場所、他者の居場所」という小文においては、『ゴドーを待ちながら』という戯曲と、「わたしの場所の複数」という小説の関係性について考えました。

 一方で、RPGと『ゴドーを待ちながら』の間柄を考えると、「わたしの場所の複数」への考察とはまた切り口が異なり、かつ非常に独創的な視点を提示することが可能になります。


 「Role&Roll」誌のVol.44には、小林正親さんによる「『ナイトメアハンター・ディープ』で創る実践・脚本術<追跡編>」という記事があります、

 この記事は、RPGというジャンルのオリジナリティを「タイミング」と「舞台」というこれまであまり語られなかった着眼点から示した労作で、『ナイトメアハンター・ディープ』という特定のタイトルのみに留まらない、RPGというジャンルの普遍的な構造に繋がる問題をやさしい言葉で語った記事なのですが、その「タイミング」と「舞台」を考えるための導きの糸として、『ゴドーを待ちながら』が用いられています。

 興味深いのは、この記事がRPGと『ゴドーを待ちながら』を接続させることで、『ゴドーを待ちながら』そのものの優れた批評にもなっているということです。

 『ゴドーを待ちながら』をベタに読んでいるだけでは、当然、こんなものの観方は生まれません。批評というと、つまらない罵倒だと思われがちですが、この記事にはそうした「上から目線」もありません。むしろちょっと角度を変えて『ゴドーを待ちながら』の特性を語ることによって、今まで見過ごされてきた独自の面白さをRPGから引き出そうとしています。演劇にも、文学にも、RPGにも通じている小林さんだからこそ持ちうる、批評的な観点の勝利です。というか僕はこんな見方できていませんでした。

 シナリオ・メイキングガイドとして使いやすく、RPGの構造についての独創的な分析になり、かつ戯曲そのものにも新しい視点を提示している。一粒で、三度美味しい。短い記事ではありますが、批評性というものがなければ、ここまで内容的に豊かなものにはならなかったでしょう。

 出版業界が冷え込んでいるなか、批評というものはともすれば無用の長物と思われがちです。しかし、批評的な観点の用い方によっては、いくらでも作品を面白くすることは可能ですし、マーケットへ通用させることもできるでしょう。

 ここでは、その可能性のひとつを提示したにすぎませんが、そうした効能そのものはもっと着目されるべきではないかと考えています。例えば翻訳も、ある種の批評性を孕みます。訳そうとする作品が何を意図しているのか、考え抜く必要があるからです。それゆえ、批評的な問題意識というものは、実はとても身近で、役に立つ話ではないかと考えています。

 そして私も微力ながら、面白い作品を書き、訳し、かつ優れた批評的見地の提示ができるべく、努力していきたいと思います。

Role&Roll Vol.44

Role&Roll Vol.44

  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2008/05/09
  • メディア: 大型本


 ※「批評」と「感想」との違いは、この本がかなり詳しく突っ込んで考えています。当たり前ですが、批評>感想、あるいは感想<批評などとはなっていません。

批評と文芸批評と―小林秀雄「感想」の周辺

批評と文芸批評と―小林秀雄「感想」の周辺

作者:Thorn

更新日:2008年11月19日 15時0分

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[大江健三郎][笙野頼子][日本文学][思想史]私の場所と、他者の居場所


 「笙野頼子ばかりどっと読む」のPanza(id:Panza)さんが、笙野頼子の一神教問題について語ってらっしゃいました。

 時間がなくざっくりとしか説明できないのですが、つまり、「浸透と拡散」が進む現状、対抗策として〈個〉を大事にしすぎると、それは一神教的な考え方に近づいていく、ということです。〈個〉が受苦者=救世主、となってしまう。そうなると、(それこそ「イスラム」と冠詞がついてしまうような類の)原理主義化が少しずつ進行するわけですね。それはどうか、という話です。

 一神教の源流であるユダヤ教を調べると、理論的な補強はいっぱいされている。でもすごく込み入った話なので、ここでは割愛させて下さい。ただ、現代日本に当て嵌めるためには、サバタイ・ツェヴィの棄教をモティーフにした大江健三郎の『宙返り』が役に立ちそうだと思う、とだけ言ってお茶を濁しておきます。このあたりは、いずれじっくり。

宙返り〈上〉

宙返り〈上〉

宙返り〈下〉

宙返り〈下〉

 この「一神教問題」への回答として「私の中に他者の場所が複数ある」とPanzaさんはおっしゃっています。しかしその「場所」とは何でしょう。

 岡田利規にその名も「わたしの場所の複数」という中編があります(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収)。

わたしたちに許された特別な時間の終わり

わたしたちに許された特別な時間の終わり

 これはワーキングプア状態のフリーター夫婦の日常を描いた作品。芸大出にも関わらず、職に恵まれなかった彼らはオーバーワークが板についてしまい、お互いがお互いの場所を見い出せなくなっています。行き着いたネットカフェにも居場所はない。もう若くはない彼らの閉塞感は壮絶で、まさに生存に関わるレベルで出口がないわけです。

 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』には、「三月の五日間」というイラク侵攻の夜に、ホテルでセックスに興じるカップルを描いた短編がカップリングされています。

 カップルが性行為に興じるのは、「戦争」という大きな物語の相対化(「戦争」でさえ、自分たちとは関係のない、あるいはベタな物語として消費されてしまう)のためだという読みが多いのですが、僕はこれはテスト前に慌てて片づけをするのと同じ理屈で、ある意味、追い詰められているがゆえの逃避に近いものがあると思っています。


 ボスニア紛争のとき、サラエボでは、スーザン・ソンタグがサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を上演して、空襲のさなか大入りの客を集めたと言いますが、「三月の五日間」はこのエピソードを参考にしているのではないか、と思った次第でした。

 つまり、ホテルにこもってセックス三昧のカップルは、いわばゴドーを待っているのです。

 問題は、ゴドーが来るのか、来るとしたらどこに入るのか、ということでしょうね。

 ベケットは意地悪なので、待っていることこそが岡田の言う「特別な時間」で、いざゴドーが「到来」したら、もっと酷いことになるかもしれません。ジャック・デリダは、『法の力』で、そうした「到来」を恐怖しました。なぜ恐ろしいのでしょうか? それは、「救済」と「破滅」は紙一重だからです。このあたり、佐藤哲也の『妻の帝国』が非常に詳しく突っ込んでいるように思っています。

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 そもそもゴドーが入る場所なんかないことを示すことで、裏口の隙間からそうっとゴドーを招き入れるのが岡田の方法だと僕は読んでいます。だから、閉塞的なのにもかかわらず、「わたしの場所の複数」は、タイトルに嘘偽りがない話になっているわけです。小説技術的にも、「一人」に見えた語りを複数的なものとすることで(分裂しているのではない。複数。ここ重要)、かような主題を補完しようとしています。

 こうした苦しい立ち位置に対し、いったいどのようなリアクションが(文学的には)可能なのでしょうか。いや、これはPanzaさんへの問いというよりも、ほとんど独り言みたいなものですが……。

作者:Thorn

更新日:2008年11月18日 15時0分

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[幻視社][SF][フランス文学]ラングドン・ジョーンズと、アンリ・ミショー


 文学フリマで発売された〈幻視社〉第3号に掲載の「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」の最後に、ラングドン・ジョーンズの『レンズの眼』が出てきます。

 この小説から得たイメージにいちばん近いのが、僕のなかではアンリ・ミショーなのですね。つまりジョーンズに、SFと詩を接続させる原点を感じているわけです。

 この詩というのはあまり狭い意味ではありません。

 かつてイタリアの未来派の詩人たちが詠ったような、テクノロジーを思弁から見る視点としての詩のことを言っています。案外ここに、思わぬお宝が隠されている気がします。

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

アンリ・ミショー詩集

アンリ・ミショー詩集

  • 出版社/メーカー: 彌生書房
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: ?

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 15時0分

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[ゲームブック][ノート]『顔の無い村』復刊

 『大江戸RPG アヤカシ』は、JGC2008に参加した際に速攻で購入し、情報を集めてきました。

そのサポートブログで知ったのですが、思緒雄二さんの傑作ゲームブック『顔の無い村』が、復刊するようです。  

 しかも、小林正親さんによる書き下ろしアナザー・エピソードも加わっています!


 ゲームブックとは、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、ページや段落がばらばらになっている本。ユーザーは、提示される選択肢を自由に渡り歩きながら、本の提供する「ゲーム」を遊ぶという仕組みになっています。独自の文脈があり、とても面白いものです。

 しかしながら、同時にその文脈が、いささか過小評価されているきらいがあるのも事実でしょう。


 文学フリマで色々同人誌を買いましたが、ゲームについて語られた言説は、少数の例外を除けば、どうもいささかうわついた印象が拭えないものがありました。

 例えば、あるゲームで〈日本〉が題材になっていたとします。ところが、ゲーム文化における〈日本〉はあくまでもフェイクとしての〈日本〉でしかなく、深みが感じられないもの/意図的に深みを削ぎ落としているものが、ほとんどです。そして批評の言葉は、その深みがないところに、新しさを見ようとしています。90年代、そして2000年代前半に青春を過した身にはわかる話ではあるのですが、一方で少し物足りなく思えるのも事実です。


 「物語」と「ゲーム」との関係性を語る際に、いわゆるコンピュータゲームが普及する前に「物語」と「ゲーム」とを結びつける基礎となったゲームブックについての考察が、もっとなされてもよいと思うのです。


 もともと、20世紀文学にはある種のゲーム性があります。とりわけ、アラン・ロブ=グリエ『幻影都市のトポロジー』、トマス・ディッシュ『334』、大江健三郎『同時代ゲーム』などに顕著ですね。

 その流れをもっとも早い時期に引き継いだのが『トンネルズ&トロールズ』のソロ・アドベンチャー。続いて、『ファイティング・ファンタジー』で、ゲームブックのブレイクがくるというわけです。


 ゲームブックについては、いずれどこかで長く書きたいものですが、簡単にまとめましょう。

 ゲームブックの多くは粗製乱造でした。が、なかには、「ゲーム」にしか不可能な、「神話」の解体と再構築を目指した達成もありました。『アルテウスの復讐』『ミノス王の迷宮』『冒険者の帰還』の〈ギリシア神話ゲームブック三部作〉、アーサー王伝説をモティーフとしたJ・H・ブレナンの『グレイルクエスト』(『ドラゴン・ファンタジー』シリーズなどがあります)。イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』がヒントになっている奥谷晴彦『魔城の迷宮』……。このあたり、語り始めると止まりません。


 そのなかでも白眉なのが、思緒雄二さんの作品でした。

 思緒さんは、もとは折口信夫を本格的に学ばれていた方。そして、それをゲームに活かすことに成功している稀少な方。

 うわっつらではない〈日本〉とゲームの幸福な結婚を、かつて『顔の無い村』の先に復刊した、『送り雛は瑠璃色の』を読んだときに感じたものでした。


 『顔の無い村』の復刊はまだ先のようですが、『送り雛は瑠璃色の』は、掛け値なしの傑作。ゲーム的な前提知識は必要なく、素直に楽しめるゲームブックです。数値管理が苦手な方も、お気軽にどうぞ。

 こういう優れた作品が、もっとメジャーになれば、と思わずにいられません。

 とりわけ、比較的簡単にコンピュータでコマンド選択式アドベンチャーゲーム(ノベルゲーム)を創ることが可能な昨今、あえて「本」という媒体にこだわり、無駄なくゲーム性を凝集させるゲームブックは、もっと見直されてもよいのではないかと思います。可能性のあるメディアでしょう。

送り雛は瑠璃色の

送り雛は瑠璃色の

 そういえば、「Role&Roll」誌に連載されている「魔法イメージ探訪記」、単行本にならないかなあ。

 え、思緒さんと関係があるかって? 雰囲気に、相通ずるものがあるじゃないですか(笑) 『クトゥルフ』の『黄昏の天使』も、もういちど、この時代に読みたいなあ。

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 15時0分

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[ボードゲーム]空中庭園など

 僕はボードゲームは大好きなのだけれども、あまり感想を書いてませんでした。近頃2つ遊べたのでメモ。


・空中庭園

http://sgrk.blog53.fc2.com/?no=901


 立体テトリス。先輩には「お前が好きそうなゲーム」と言われたが、まさにその通り。

 すっげえ楽しい! こういうの大好き。

 何気にテクスチャーが古代バビロニア(ネブカドネザル帝)なのもポイント高し。


・魔法にかかったみたい

http://www.mobius-games.co.jp/alea/Wie_verhext.html


 ゲーム性は解説サイトに詳しい。

 ただ、実際のプレイ感覚としては、勝つための手順がさっぱりわからない。

 どこかに隠された法則があるようにも見え、その一方で、勝つよりは場を読む力が重視されるゲームな気もする。つまりはギャンブル性強し。『カイジ』で戦いのネタにしてほしい。

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 15時0分

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[映画]『アポカリプト』を観る

 感想、書いていませんでした。

 僕は『ブレイブハート』を3桁は観ている男なので期待していたが、裏切られなかった。

 ひどくシンプルなストーリー。極めて再現性の高いセット。野蛮さ極まりない衣装。痛そうな殴り合い。瞬間的に散りゆく命。素晴らしい。戦術面でも勉強になる。

 しかし何より魅せられたのは、こうしたシンプルな運動性、原初的な物語の持つ力強さというべきものだ。スペイン船に「背を向ける」ラストも秀逸であるが、それはおまけに過ぎない。

 あえて言えば、こうした原初的な運動性こそが〈文学〉だろう。

 少なくとも批評のある種の出発点である、18世紀ドイツ、ホメロスの叙事詩を語るレッシングの文には、そのような問題意識が観られたものだった。〈作品〉そのものからあえて目をそむけがちな(現代日本における)批評的な言説の軟弱さがまかり通る現状において、ひどく痛快な映画ではあった。自戒を込め、噛み締めて観る。

アポカリプト

アポカリプト

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 15時0分

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[雑感][SF]BH85

 ものすごく情報が遅いが。森青花の『BH85』、徳間デュアル文庫から復刊してます。


 『BH85』は、

 も の す っ ご く 気 持 ち 悪 い 作 品 で す。


 世界破滅型のフィクションが、その軸として「自意識」ばかりを取り上げるのが流行っていた当時、それとは正反対に行ったのがすごい。

 世界の圧倒的な無慈悲さ、近代的な「自然」ではなく、あくまでも手付かずの自然、のキモチワルサを、こんなほのぼの書いてよかったの? と、驚きました。

BH85―青い惑星、緑の生命 (徳間デュアル文庫 も 2-1)

BH85―青い惑星、緑の生命 (徳間デュアル文庫 も 2-1)

 日本的なアニミズム、あるいはIPS細胞との関係性とか、色々興味深いフックがありますね。

iPS細胞 世紀の発見が医療を変える (平凡社新書 431)

iPS細胞 世紀の発見が医療を変える (平凡社新書 431)

 この復刊がよい流れに繋がればなあ。個人的には、ファンタジーノベル大賞系だと井村恭一の『ベイスボイル・ブック』が絶版なのはおかしいと思うのですが。「不在の姉」などの近作とカップリングしてどこかで出ないものでしょうか。

ベイスボイル・ブック

ベイスボイル・ブック

  • 作者: 井村恭一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

作者:Thorn

更新日:2008年11月15日 15時0分

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[SF][英米文学][時事][雑感]第4回日本SF評論賞の最終候補となりました。


 少し迷いましたが、既に発表がなされているようなので、黙っているとかえって不自然かと思い、書きます。

 出先から帰ってきて朱鷺田祐介さんのブログ「黒い森の祠」を見ると……。

 見出しに「SF評論賞最終選考に岡和田晃氏」とあってのけぞったのでした。


 日本SF作家クラブのホームページを確認したら、本当に出ているぜよ。ホームページには結果出てから載ると、勝手に思い込んでいたよ……。

 はい、僕は「ジーン・ウルフまたは「読み」の批判――ニューウェーヴSFを再考する」という論文を書いています。

                      ***


 僕はオリジナルなジーン・ウルフへの接し方、従来の読みの地平を越えた読解、何よりいまウルフを読むことはどういうことか、SFとしての必然性とは何かを示した自信はあります。

 自分の言葉で書き、獲る気で書きました。

 記号の整理と操作にかまけた「政治」ではなく、先人の資産を真摯にふまえ「批評」をしました。立体的なものとして歴史を背負いました。そう、胸を張って宣言できます。


 厄介な作家・作品でした。資料代は考えたくもないですし、苦労話もできますが、しません。

 むろん拙稿は完璧ではないでしょう。拙いところがあると思います。

 でも、書いていてこの仕事への意義を感じましたし、書き終えたとき、新しい地平が見えたのは確かでした。


 どっしり構えて、判定を待ちます。

 一喜一憂はしません。夢中で祈りもしません。

 望むところは真剣勝負。

 自分の意志でこの賞を選び、ジーン・ウルフというある意味「SF」と「幻想文学」ひいては20世紀(以降の)芸術そのものとも言える巨大な存在に本気で向き合い、この賞のために書いたからです。


 必ず意地悪なことを言ってくる人がいるので、あらかじめ釘を打っておきますが、僕が「Speculative Japan」のメンバーだからといって(あるいはその他の理由で)贔屓(あるいは差別)するようなくだらない人は、選考委員には絶対にいないでしょう。

 僕は、公正な裁定が下されると信じています。そうでなければ、応募した意味はありませんから。


 待つ間も粛々と自分の畑を耕し、結果が出たら黙ってそれを受け入れ、今後の執筆活動に活かすつもりです。


※[はじめに]に断り書きがあります通り、意図を正確に伝えるため、表現を少々修正しました。また、悪戯と思われるコメントを削除させていただきました。

作者:Thorn

更新日:2008年11月14日 15時0分

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[D&D][イベント][プレイリポート]シャドウハントの霊廟

 そういえば、「WORLDWIDE D&D GAME DAY 2008」の「シャドウハントの霊廟」のダンジョンマスターをしてきたのでした。世界中のゲーマーたちと、同じシナリオを遊べると言う趣旨のイベントでしたが、12月5日に『プレイヤーズハンドブック』が発売される『D&D』第4版を、一足先に遊ぶことができるのも魅力です。僕も、第4版のマスターをするのに、大いに参考になりました。

 「ぶっちゃけ、シナリオのバランスはメリケン仕様です。世界のゲーマーと同じ苦しみを味わいましょう!」というキャッチコピーで参加者を集めました(笑)せっかくの機会なので、いっさい手を入れず遊ぼうという魂胆。でも定員はすぐに埋まりました。


 プレロールドキャラは、さほど使い勝手の悪い者はいない印象。ただ、せっかくなので舞台はフォーゴトン・レルムに変更しておきました。


※「WORLDWIDE D&D GAME DAY 2008」で使用したシナリオのネタバレがあります。ご注意下さい。

 最初のリドルは、実時間30分くらい悩んでようやく解けた感じ。

 ただ、いきなりいちばん奥にまで突っ込み、挟み撃ちに遭う。

 ローグのストライカーがかなり頑張ってスケルトンを倒していったが、背後からアニメイテッド・スタチューが迫る。

 ディフェンダーのファイター2人が頑張って粘ったけれども、押し負ける。

 最後は、hp11のスタチューと、hp3のウィザードが追いかけっこ。

 で、ウィザードが押し負けました。


 あ、シャドウは最後、重傷になったエルフの攻撃に向かうという展開に。


 結果、全滅となったのですが、参加者全員、「死力を尽くし、やり遂げた」というすがすがしい顔つきになりました。フシギと誰からも文句は出ず、かえって「D&Dって面白い」というノリに。『D&D』ならではの、裁定の公平感がよかったのかもしれません。

 いやあ、スリリングでした。これだからRPGはやめられませんね。

作者:Thorn

更新日:2008年11月12日 15時0分

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[幻視社][エラッタ]〈幻視社〉3号、誤植の報告です。


 先に第7回の文学フリマで発売された〈幻視社〉3号ですが、私の担当していた部分に、エラッタが出てしまっているところがあります。

 お買い上げ頂いた方には、たいへん申し訳ありませんでした。

 現在判明している誤植の箇所を、かなり細かな部分まで報告させていただきます。主に、体裁的に気になる箇所についての指摘であり、内容に関する致命的なものはありませんので、そこはご心配なさらずとも大丈夫です。

 ご迷惑をおかけいたしました。



「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」


●P.44、上段、6行目

「〈SFマガジン〉〇八年一〇号」→「〈SFマガジン〉〇八年一〇月号」


●P.44、上段、9行目

「すっかり蹂躙ているという絶望」→「すっかり蹂躙されているという絶望」


●P.47、上段、『ノヴァーリスの引用』からの引用

※引用文中、一行空きがある箇所がありますが、そのまま詰めて下さい。抜けはありません。


●P.47、下段、最終行

「それに消費としての意義を見出さない批評的言辞」→「それに消費としての意義しか見出さない批評的言辞」

※08.11.14追記


●P.50、上段、後ろから4行目

※クォーテーションマークが不均衡になっている箇所があります。位置は変わりません。


●P.51、下段、後ろから6行目

「意匠でぇはなく」→「意匠ではなく」


●P.54、上段、6行目

※一行空きがある箇所がありますが、そのまま詰めて下さい。抜けはありません。


●P.56、上段、『断章と研究』からの引用

※引用文のため、地の文より、それぞれ一行下げてお読み下さい。


●P.56、下段、後ろから4行目

「アフリカのハンセン氏病の副院長」→「アフリカのハンセン氏病院の副院長」


●その他

※行頭一字空きが抜けている箇所がありますが、抜けはありません。そのまま一字、空けてお読み下さい。



「消失事件」


●P.63、上段、4行目

「箸を置く」→「棒を置く」

※この国のこの時代に、火箸はありません。


●その他

※行頭一字空きが抜けている箇所がありますが、抜けはありません。そのまま一行、空けてお読み下さい。

※クォーテーションマークが他の箇所と統一されていない部分があります。位置は変わりません。

作者:Thorn

更新日:2008年11月12日 15時0分

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