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トップ > ジャパニーズ ボブテイル > ジャパニーズ ボブテイル - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年9月7日 8時)
eulerian cycle

与条件のスタディ。
一筆書きで環をなす一枚の壁・スラブで空間を作る試み。
どこまでもつながっていく壁がイメージを引き伸ばす。
実は藤本壮介のK Houseを横に倒してみようとしただけなのですが。
昨日垂水へ行くフェリーの中でなんとなくスケッチを書いていたらなんかまとまりそうだったのでざっとつくってみました。
K Houseのような突き抜け感がないのはスラブの扱いが常識的過ぎたからかも。
■オノケンノート ‐ HOUSE STUDY-10 [eulerian cycle]
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作者:オノケン
更新日:2008年9月6日 11時55分
雑誌をみて
帰りにちょっと本屋によって雑誌を見てたら「新建築」に藤本壮介のHouse Nが載ってました。
どんな空間になるんだろうかと思っていましたが、実物の写真を見ると初めてみるような空間でした。
写真だけなんで、実際に長時間過ごす住まいとしてどう感じるのかは判断できませんが、新鮮な心地よさを感じられそうです。
また、「住宅特集」で青木淳による長谷川豪のインタビューが載ってましたが、狛江の家のテラスに目隠しをまわさない意志に興味を持ちました。
地域性にもよりますが、実際あそこで過ごすには少し勇気がいるだろうし、お客さんのことを考えれば目隠しをつけた方がいい、となりがち。
それでも、あえて目隠しをつけないことで、建物がかわいらしい奴に見えてくるから不思議です。
町並みにおいての効果は、2Dデザインのホワイトスペースに似ているかもしれません。
たまには雑誌を見るのもいいかな。
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作者:オノケン
更新日:2008年9月5日 15時8分
複雑な心境です。
こないだ提出したプロポーザルですが、15社の中、ウチの事務所に決まったみたいです。
所長は喜んでいましたが、正直、複雑な心境。
審査講評を読む限り、当たり障りのないことしか書いておらず、うまくまとまっている、つまりパズルが上手に解けた、っていう評価しか読み取れませんでした。
単なるパズル以上の思想が担当者にあればいいですが、誰も問題を共有できる人がいなければ相当のストレスを溜め込みそうです。
例え僕が投げ出したとしても代わりの誰かが設計を行うでしょうし、制度そのものをすぐに変えることも無理でしょうから、与えられた条件の中で出来る限りのことをするしかありません。
ですが、どういうものをつくったとしてもこの仕事によって「制度そのものを強化してしまう」事からは逃れられそうにない気がします。
こういう問題で苦しんでいる方々に顔を向けられなくならないような仕事が僕に出来るでしょうか・・・・無理かもなぁ・・・・
憂鬱だ。
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作者:オノケン
更新日:2008年9月4日 12時42分
『教育について考えさせられた。 』に考えさせられた
久しぶりにたこ阪さんにTB。
■さつませんだい徒然草:教育について考えさせられた。 - livedoor Blog(ブログ)
たこ阪さんの真意を掴みかねてたので「後で再読」状態にしてたんですが、せっかくなので(何が?)条件反射的に書いてみます。
条件反射的に書くので後で気が変わるかもしれませんが、ブログのTBはそういうもんだということで進めてみます。今はまだ、結論は何も考えていません。
まず、はしょってみる
まず、文章をはしょってみる。(ここから先は僕の勝手な解釈で元記事の意図とは多分ずれてきます)
>遊びから何かを生む経験が必要。遊ぶ時間が少なくなるのがヤ
>二極分化が進んだ。
>子どもにもっとシビアな現実をちゃんとしたカタチで伝えるべき。
>子どもの頃の勉強なんて、乱暴に言うと時間費やしたかどうかだけ。
>試験の成績と頭のよさは違う。頭のよさは知りたいかどうかで決まる。
>このサイクルが回転すればするほど頭はよくなって、多様な価値観を受け入れることができるようになっていく。
>知るための道具そのものが欠如してしまっているとこの話は前提から崩れてしまう。
>知ることに興味が生まれない。知ることは大変なことだけでしかない。そんな価値観を持った子どもに対し、一体どんな言葉をかけることができるのか。>これからの時代はますます知識が価値を生む時代。
>知識はあとからつけることができますが、知識のつけ方を知らない人にとってこれからは非常に厳しい環境にあるということを、きちんとアナウンスしておく必要。
>これからは自分だけでなくその環境すらも自己責任という言葉で片付けられてしまうような時代。
>勉強でもなんでも、今や量が質を凌駕する時代。
>「やれば出来る子」はやればいい。あとはやる環境を作るだけ。そしてやらせる。
>なんだか息子に習い事をさせていない僕は間違っているのかなぁ。
もっとはしょる。
>遊びから何かを生む経験が必要。遊ぶ時間が少なくなるのがヤ
>勉強でもなんでも、今や量が質を凌駕する時代。
>なんだか息子に習い事をさせていない僕は間違っているのかなぁ。
勝手にまとめる。
>遊びも大事だと思うけど勉強の機会を与えるのも親の役割なのか。
まず、『勉強でもなんでも、今や量が質を凌駕する時代』というのを前提にした上で、遊びで得られるものと勉強で得られるものを天秤にかけることになります。
問題を追ってみる
まず、ここで(無理やり)思いついた疑問は3つ、
・前提はあってるか。
・天秤にかけることはあってるか。
・親がどこまで決めるのか。
難しい問題だとは思いますが、心情的には「やっぱり遊びが大切」という結論になって欲しいので、そっちびいきで考えてみます。
中学生のディベートの練習みたいですが、つらつらといきます。
前提はあってるか。
量が質を凌駕する時代。確かにそうだと思います。
しかし、それが価値に転換するのは量が質を生み出した時ではないでしょうか?
また、「お勉強」のとりあえずの目標を「大学に入学し、可能性を担保しておく」ことだとすると事情が変ってきます。
個人の中における「量」の重要性はある閾値を超えるとあまり上昇しなくなるような気がします。それが誰も真似できないような「量」になれば、その重要性は何にも替えがたい価値になるのでしょうが、「お勉強」のみに限ればそれを求めるのは非効率ですし、「量」そのもので言えば高校時代に限定しても十分に「必要量」を満たせるものだと思います。
「必要量」を満たすのが高校時代で足りるとすれば、それまでの「お勉強」に費やす時間は冗長ではないでしょうか。
それに、「必要量」を満たすことはいつでも出来ますが、遊びの経験はおそらくその時限りしか機会がありません。
「量」が閾値を越えた中で、将来、個人が価値を生み出せる存在となるには、「質」または「量」を「質」に転化できるかが重要になってくるでしょうし、これには「冗長な勉強」よりも「遊び」のなかでの経験の方が向いてるように思います。
ですので、必要な時にスパートが掛けられる基本的な学力を満たしていれば、「冗長な勉強」よりも「遊び」に時間を掛けた方が将来役に立つ、というか豊かに生きられるんじゃないかと今は考えています。
また、「お勉強」の結果を出すんだったら「冗長な勉強」よりも「明確な動機付け」の方が多分キキマス。
まぁ、「お勉強」に「とりあえずの可能性の担保」以上の事を期待するのは危険だと思いますね。
天秤にかけることはあってるか。
では、そもそも、それらを天秤にかけることは正しいのでしょうか。
僕は、黒か白かという問いなら、あまり意味がないと思います。
実際には遊びの機会にも勉強の機会にも意味はあるでしょうし、バランスよく機会を提供してあげるという方が良い気がします。
「お勉強」の機会というよりは、何かを経験するための機会として捉えれば、あんまり偏らなければどっちでもいいんじゃない、っていう感じです。
親がどこまで決めるのか
でも、結局のところ、親が思った通りに子が育つとは思えませんし、自主性のない子は結局伸びません。
生活リズムが整っているか。宿題と時間割をしてからでないと遊びにいけない環境を作っているかどうか。忘れ物をすると先生は叱ってくれるか。
実際、こういうところが大切で、基本的な部分をはずさないように見守っていれば、「なんで勉強するのか」だとか「シビアな現実」だとかを話し合いながら最後は本人に任せてもいいんじゃないかと思っています。
大人は往々にして「子供のため」と言いながら「『私は最善を尽くした』という自分への言い訳の準備」を目的化してしまいがちです。気をつけないと。
まとめ
つらつら書きましたが、「冗長な勉強」っていう言葉は少し使えそう。
「冗長な勉強」なんて書くと「出来る子だから」と誤解や反発があるかもしれませんが、「冗長な勉強」を避けるのも、一定期間で必要な結果を出すのも、自分のモチベーションをコントロールするのも、社会に出れば必須のスキルじゃないでしょうか。(受験に限らず)
子供の能力以上を期待するよりは経験の機会を大切にしてあげたいです。
・・・と、どちらかというと「遊び」びいきで書きましたが、「そんな甘いこと言ってられるか!」という「お勉強」よりの意見(出来れば極論)はないでしょうか?
※たこ阪さん、いつもネタにしてすんません。
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作者:オノケン
更新日:2008年9月2日 15時54分
B143 『藤本壮介|原初的な未来の建築』
藤本 壮介 (著)
INAX出版 (2008/4/15)
影響されるのが怖くて我慢してたのですが、結局買ってしまいました。
藤本氏は1971年生まれで、ほぼ同年代。違和感なく、すっと入ってきました。
当たり前でいて新しい
書いてることややってることは、一見、当たり前のようでいて、実はすごく新鮮で説得力があります。
こういう、『原初的』な説得力を持ちながら『未来の建築』を発見しているところが才能なんだろうなぁ、と思います。
ところで、僕も学生の頃『棲み家』の魅力というものを考え始めて、
■オノケンノート » 棲み家
僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。
今でも、それを追っているようなところがあるのですが、こういう欲求は藤本氏はじめ、僕らの年代にある程度は共通しているような気がします。
それではそういう欲求はどこから生まれているのでしょうか?
集団的無意識への欲求
藤本氏はいろいろな関係性をその『成り立ち』のところまで遡って、その関係が生まれる前の未分化な状態に思いを馳せることで発想を得ているようです。
最後の藤森照信との対談では(若干、噛みあっていない気もしましたが)藤森氏が述べた『集団的無意識』というのがキーワードにだったと思うのですが、それで藤本氏の目指すイメージが少し浮かび上がったような気がします。
民家の魅力は、集団の無意識を満たしていることにあります。ああいう形が練り上げられ、成立するために、ものすごい時間をかけているからなんです。その長い時間の中で、自然化が行われるんですね。(中略)その秘密は時間なんです。時間は個人を越えた、集団的無意識のような感覚に働きかける力がある。それを人為的に出来るのかということですよ。(藤森照信)
近代化には時間や集団性といったものの断絶を前提とする側面があったと思うのですが、そんな中で育った僕たちには時間の生み出す集団的無意識に包まれたいという欲求がたまっているのかもしれません。
そういう欲求が建築を、自然の生み出すような自分たちの手の内を越えたような存在であって欲しいという願いになっているのかもしれません。
藤森氏はその可能性を「材料」の持つ時間に見出していますが、藤本氏はあえてそれに頼らず、建築の「成り立ち」だけで実現しようと考えているようです。
工業製品である建築材料のみを使ってその「成り立ち」だけを実現する、庭のような建築を生み出せないかと考えています。(藤本壮介)
藤森氏が「藤本さんは時間を偽造したいと言ってるのではないでしょうか?」と言っていますが、藤本氏は原初的な関係性にまで遡ってそれを未来に接続することで時間(自然)を建築に取り込もうとしているように思います。
ルイス・カーンはじめ、建築の原初に遡ろうとする考えはこれまでもあったと思います。
それと、集団的無意識に包まれたいというような強い欲求がつながったところが新鮮さの秘密なのかもしれません。
(藤森氏・藤本氏、ちょっと読みにくいですね)
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作者:オノケン
更新日:2008年8月31日 9時20分
犯罪が私たちを不安にしているのか
少年犯罪、最近では犯罪被害者について書いている藤井氏が対談集を出すようです。
■対話集の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』(双風舎)。|藤井誠二のブログ
いま編集中の本の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』
鋭く対立している議論もあれば、ぼくがインタビューアーに徹しているパートもある。いずれにせよ、「重罰化社会」をどう考えればいいのかという切り口が満載で、いまゲラを読んでいてもかなりの読みごたえがある。この問題に関心がある方は必読だと思う。
最近こういう問題に首を突っ込みかけたのでこれも読んでみよう。
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作者:オノケン
更新日:2008年8月31日 8時27分
HAPPY PAPER ZOO ジャイアントパンダ

1日早いですが8月のカレンダー分。
ところで、昨日近所で生協病院の祭りがあったので言ってきました。さすが生協、どこの屋台も激安!カキ氷100円とかジュース90円とか普通の店より安かったりして。
そこでドラえもんのショーをやってたのですが、それのオチが「ジャイアントパンダ」がやってくるというのが、実はジャイアンの新しい歌のタイトルが「ジャイアン と パンダ」だったというものでした。どうでもいいことですが、なんか偶然だったので。

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作者:オノケン
更新日:2008年8月31日 1時27分
評価シート
事務所でなんとなく読んだ日経アーキテクチュア (2008-3-10)に竹中工務店の作成した環境配慮設計(環境人間学)評価シートというのが掲載されていました。
CASBEE(建築物総合環境性能評価システム)等の省エネ等環境に配慮しているかどうかを評価するシステムはこれまでもありましたが、これと併用するもうひとつの軸として、「自然を媒介とした情感の部分」を軸に評価するシステムを独自に作成したものです。エコとエモだそう。
転載は自粛しますが、このシートがまるまる掲載されていてなかなか良さそうです。
「知覚の素地」「触覚」「嗅覚」「聴覚」「味覚」「視覚」のそれぞれの項目に対して、「配置」「中間領域」「平断面」「素材」「ディテール」の各設計段階でどのような配慮を行ったかを具体例をもとにチェックしていくというものです。
例えば「触覚」の「中間領域」の具体例は「温湿感変化のある経路空間/湿とりしたピロティ・半地下空間/風を冷やす中庭の池・水盤/風を通す出窓の風穴/光風を取り込む屋上庭園/風邪の抜けるピロティ/その類」とあります。
僕もエクセル化して活用しようと思っていますが、学生の人なんかは参考になるのではないでしょうか。
ただ、このシートを使えば自動的にいいものが出来るというわけではなく一つのツールでしかありませんし、注意しないと大手らしい優等生的建物になりがちだと思われます。(雑誌なんかを見ていても、大手事務所はきれいにまとまりすぎてるのでだいたいすぐに分かります)
経済性のみで建築が決まることが往々にしてありますし、こういう「エモ」な側面は軽視されがちなので、こういうシートで具体的に評価をする習慣ができればある程度の成果は上がるかもしれません。弊害ももちろんあるでしょうが、役所なんかにこういうのが広まるのは価値観のカウンターとしていいんじゃないでしょうか。
ただ、もっと違う視点のものも欲しいということで、これまでブログなどで考えてきたことのまとめも兼ねて、第3の軸、自分なりのオリジナルシートをつくってみようかと思っています。
とりあえず、最初のバージョンが出来たらアップします。
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作者:オノケン
更新日:2008年8月27日 15時20分
B142 『犯罪不安社会 ~誰もが「不審者」?』
著 浜井 浩一 (著), 芹沢 一也 (著)
光文社 (2006/12/13)
引き続き芹沢氏関連の本を読みました。
凶悪犯罪は増えていないし、低年齢化もしていない。っていうのはよく聞きますが、こういうことを他の人に話した時に「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応が何度か返ってきたことがあります。
それで、一冊は関連の本を読んでみようと思っていたところにこの本にぶつかったので読んでみました。
凶悪犯罪は増えていない
第1章で浜井氏がやさしく解説してくれているので、詳細は本書にあたっていただきたいですが、犯罪統計を読むと凶悪犯罪は増えていませんし低年齢化もしていません。
■反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
■少年犯罪データベース 少年による殺人統計
等のサイトを見ても分かりますし、少年犯罪データベースのほかのページには昔の凶悪犯罪が列挙されていて、現在が犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないことが分かります。(あまり気持ちのいいものではないのですが)
それでは何が変ったのかというと犯罪の語られ方が変ったということです。
それまでもあった個々の犯罪が「時代の象徴」として語られるようになり、その次には「恐怖の対象」として語られるようになった。
それによって、「犯罪」が増えたのではなくて「犯罪不安」が増えた。
では、それの何が問題なのでしょうか。
ヒステリックな社会はごめんだ
子供たちを人が信じられない子に育てたくはないが、事件が起こる度、やはり私も子供たちに「知らない人がお菓子をあげるといっても、ついていっても、ついていっちゃダメよ」と話をしてしまう。
先日、散歩に出かけた時に、手をポケットに入れたまま、子供たちを乗せた乳母車に近づいてくるおじさんとであった。
おじさんは手を出し「かわいいねぇ」となでようとしただけだったが、その頃、刃物をポケットに隠し持ち、いきなり子供を切りつけるという事件を聞いた直後だったので、血の気が引いた。(『朝日新聞』名古屋版2006.3.18)
上の文は芹沢氏が引用した文ですが、実は僕も「血の気が引いた」ことが何度かあります。
普通のコミュニケーションの機会が恐怖の瞬間になる。
冷静に考えて、目の前のおじさんが通り魔である確立はどれぐらいでしょうか。その確立は車に乗って、あるいは道を歩いていて交通事故にあう確立に比べたらどうなんでしょうか。
もし根拠のない単なるイメージによって、ヒステリックな息苦しい社会で不審者に怯えながら生活をしなければいけないとすれば、それはちょっとごめんだと僕は思います。
また、そのヒステリックな社会から締め出され追い詰められるのは例のごとく、高齢者や障害者等の弱者です。(刑務所に入所しているのはこういった人たちばかりで、それは治安悪化の結果でなく、治安悪化「神話」の帰結だそうです)
そういう、他人へのイマジネーションを欠いた社会も、単なるイメージに世論と政治が振り回される社会もやっぱりごめんだと思います。
考える一つの基盤として一読してても良いかもです。
メモ
・犯罪の語られ方についての芹沢氏の「醒めない夢」から「醒めない悪夢」へという例えは秀逸。
「醒めない夢」:1988年に起きた宮崎勤の事件をきっかけに、「醒めない夢」という解釈ゲームに引きずり込まれた。不可解な事件の時代性が語られる。いくら解釈を試みても決して実態のつかめない「醒めない夢」
「醒めない悪夢」:2001年の池田小の事件をきっかけに、犯罪は解釈ゲームの対象から恐怖の対象へと変る。犯人は解釈不能な怪物となり、その怪物の影に怯える社会。「不安」という実体のないものによる恐怖は決して消えることのない「醒めない悪夢」
芹沢氏の分析には流れというかストーリーがあって分かりやすいのですが、このインタビューの第2回、第3回で語られているようにそのベースには「フーコー的なものの見方」があるようです。
・「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応から読みはじめた本ですが、こういう問題で一番大切なのは、人間は偏見を持ちイメージに流されるもので、自分も例外ではない、というところからスタートすることかもしれません。
どこまで疑ってもきりがないかもしれませんが、その自覚は絶えずなくさないようにしたい。自戒を込めて。
・「ヒステリックな社会」も「他人への配慮」も方向はまったく逆ですが同じイマジネーションがベースになっています。
その違いはどこから生まれるのでしょうか。
・自分は偏見を持つという自覚の有無
・それによる「知る」責任の自覚の有無
・イマジネーションの射程距離。自分の直近だけしか想像しないか、自分を離れたもっと多様なものへイマジネーションを広げられるか。
・とかそんな感じか?ほかには?
Tags: 浜井浩一, 社会不安, 芹沢一也関連記事(ランダムに抽出)
作者:オノケン
更新日:2008年8月25日 15時31分
B141 『狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』
芹沢 一也 (著)
講談社 (2005/01)
ちょっと長くなりそうです。
仕事で略称「医療観察法」について調べる機会がありました。
最初に医療観察法.NETにたどり着いたのですが、どうもいろいろと議論のある法律のよう。
このサイトの「入門編 ~初めての方へ~」のところにあるリーフレット(PDF・最後だけでも是非読んでみてください)の八尋氏の書いた結びの文章が心に残ったので、

を最初に読み、その他いろいろと調べているうちに司法と医療の関係に問題がありそうだと分かり、そしてたどり着いたのが本書です。
他にも


等が参考になりました。マンガの好きな方は『ブラックジャックによろしく』が分かりやすいかと思います。
こういうデリケートな問題をマンガにするには相当な勇気がいったのではないでしょうか。
この非常にデリケートな問題に対し、数冊読んだだけでは断定できないとは思いますが、この法律に肯定的で説得力のある文章には今のところ出会えていません。どうやら根本的なところに問題が潜んでいそうな気がするのですが、本書はそれに対してひとつの見方を示してくれています。
また、僕の親しい人の中にも精神科ユーザーが何人もいますが、信頼できる魅力的な人たちばかりです。
デリケートな問題なので触れるべきではないとも考えましたが、この問題の根本には誤解やイメージの捏造が最大の問題としてある事を考えるとやはり何かしら書くことにします。
医療観察法の問題点
この法律を調べていて気付いた大きな問題点は大まかに次の二つです。
・精神障害者=危険 という偏見・誤解を強化してしまうということ。
・医療という名のもとで精神障害者が司法の世界からはじき出され不当に扱われてしまうこと。
精神障害者=危険 という偏見
問題はこの法律が単なるイメージの刷り込みによる世論をうけて出来たということです。
詳しくはいろいろなところでも書かれているので省きますが、『精神障害者=危険』というのはイメージだけで、実際には犯罪率や再犯率はむしろ低いのです。
『ブラックジャックによろしく』でも描かれていますが、きっかけになった池田小の事件の犯人は精神病を詐病してたのですが、メディアは煽るだけ煽って肝心なその後のフォローをほとんどしていません。
結果、『精神障害者=危険』というイメージのみが一人歩きをしてしまいました。そして、ここが一番の問題なのですが、この法律はその誤ったイメージに『国のお墨付き』を与えてしまいます。つまり国が『精神障害者=危険』ということを認めた、というメッセージを流してしまうのです。
それが、多くの精神科ユーザーやその家族の方をどれだけ追い込んだか想像してみて下さい。
あなたやあなたの大切な誰かがふとしたことで追い込まれる様子を想像してみて下さい。
それが正当な理由なく、単なるイメージの暴走で国を挙げて行われている悔しさを想像してみて下さい。
人間は自分は偏見を持たないと思っていても、誤ったイメージで偏見を抱いてしまうものだと思います。
■オノケンノート » BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』
僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。
この番組をみて、同じ人に対する僕の見方がこんなにも見た目で左右されるのかと本当にショックを受けました。
人間は偏見を抱いてしまうもの。そこからスタートしなければならないと思いました。
そして、偏見に気付くには「知る」しかありません。
精神障害者=危険 なのではなく、一般の人々と同じく、危険な人もいればそうでない人もいる。それだけです。
保安処分?
医療観察法では「再犯のおそれあり」と判断されると無期限で施設に収容される可能性があります。
司法による懲役刑よりもはるかに長く収容される可能性もあり、いわゆる「保安処分」以外なにものでもありません。
「保安処分」の是非そのものについてはここでは置いておきますが、問題は保安処分が必要だとすれば実際には再犯率の高い性犯罪者などもっとしかるべき対象がいるのに、なぜイメージだけで精神障害者だけが特別扱いされるのか。ということです。
ここにもうひとつの問題、医療と司法の関係についての問題があるように思います。
狂気と犯罪との偽装結婚
本書でその医療と司法の関係の歴史が紐解かれるのですが、そこで描かれているのは精神医学が主導権を握るために司法に介入し狂気と犯罪との関係を捏造していく歴史です。
だが、ここに大いなる詐術が持ち込まれる。犯罪と「狂気」との関係が、犯罪を行った人間をこえて一般化されるのだ。犯罪と「狂気」の関係はもはや偶然でないとされ、そこに普遍的な因果関係が捏造されてしまうのである。そうなると、たまたまある精神障害者が犯罪に及んだものとは、もはや考えられなくなる。ここが「狂気」の歴史に生じた最大の転換点だ。
まさに、精神医学が狂気と犯罪とを偽装結婚させたのです。
そうなると問題は、刑法第39条「心神喪失者の行為は罰せず、心身耗弱者の行為はその刑を軽減する」にあるのではないかという気がしてきます。
実際、刑法第39条によって裁判を受けることも出来ずに不利益をこうむることも多いようですが、これによって精神障害者が特別扱いされることが、『精神障害者=危険』というイメージを強化する源泉となっているようです。また、重大な事件をおかした者を司法から医療へ丸投げしてしまうことによる弊害も計り知れません。
「狂気の脱犯罪化」という思想
何よりも必要なことは、精神の病を過剰な意味づけから開放して、「普通の病気」にすることではないか。「狂気」の脱犯罪化こそが、現在、最も求められていることではないか。
そのためには、犯罪を行った精神障害者も裁判を受けることができる仕組みをつくるべきではないだろうか。
僕が今まで考えた中では、この思想の先にしか最終的な解決策はないのではないかという気がしています。
精神障害者も同じ司法の上で平等に扱われるために、刑法第39条を見直すことも必要かもしれません。(刑を軽減することはあっても良いと思いますが)
どうですか?保岡法相。
p.s
・難しい問題ですので、間違い等ありましたらご指摘ください。
・調べている途中こういうページを見つけて最初びっくりしてしまいました。これなんていう誘導尋問?っていう感じでとても調査とは言える代物ではないですが、これを内閣府がしてたのだから今は少しはましになってるのかもしれません。昭和36年は保安処分が刑法に採用されかけた年みたいです。
・先のプロポーザルはまだもやもやしてますが、『精神障害者=危険 という偏見・誤解を強化してしまうということをできるだけ避けること』を主題にしました。あまり過激にはしてませんが、おそらく発注者サイドには受け入れられないと思います。
関連記事(ランダムに抽出)
作者:オノケン
更新日:2008年8月22日 15時14分