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トップ > スコティッシュ フォールド 長毛 > スコティッシュ フォールド 長毛 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月5日 12時)

ナゴヤでもナゴノでもどっちでもいいけど那古野と名古屋に歴史あり

那古野神社-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 今日はまず初めに、名古屋の地名の話から始めたいと思う。
 名古屋はもともと、那古野と表記していた。これでナゴヤと読んでいた。
 現在、西区の一部に那古野という地名が残っている。以前紹介した四間道(しけみち)があるあたりで、ここは「ナゴノ」となっている。
 いつから那古野という地名になったのかは、はっきりしていない。平安末期の文献にはすでに登場してるというから、かなり古くからそう呼ばれていたことは間違いなさそうだ。名護屋や浪越などの当て字が使われていたこともあるらしく、語源についても定説はないようだ。「ナゴ」が何かを表しているのではないかという説が多い。
 室町から戦国にかけて、この地は駿河の今川氏がおさめる土地だった。今川氏は尾張の守護を兼ねていて、今川の流れを汲む那古野氏が現地支配という形を取っていた。その後守護代として斯波氏がおさめるようになってからも那古野氏はそのままだったらしい。
 まだこの時期那古野城はなく、今川義元の父・氏親が尾張や美濃攻略のために柳之丸という小さな城を築いたのが始まりだった(1521年)。その当時、このあたりは葦の生い茂る荒れた湿原だったという。場所は現在の名古屋城の二の丸だったと伝えられている。
 1532年、尾張で勢力を伸ばしつつあった信長の父・信秀に城をだまし取られてしまう。このときに信秀が名前を那古野城とあらためた。
 2年後の1534年に嫡男の信長誕生。
 信長3歳のときに父の信秀は古渡城(今の東別院)に移り、信長は3歳にして城主となる。以降、信長は少年時代から新婚時代までを那古野城で過ごすことになる。
 尾張の本拠が清洲に移るのは1555年で、信長が22歳のときだった。
 その後、信秀の弟・信光が那古野城に城主となるも、1年で急死してしまう。那古野城は廃城となり、半世紀の時が流れる。
 荒れ果てていた那古野城跡に目をつけたのが江戸幕府を開いた家康だった。尾張の拠点をここに移すことに決め、九男の義直を城主とする名古屋城を築城させたのが1610年のことだ。そのあたりの経緯についてはこれまでに何度か書いた。
 城ができて以降もしばらくは那古野と名古屋が共存していたらしい。それでは紛らわしいということで、名古屋という表記に統一するように決めたのも家康だった。那古野といえば織田家、名古屋といえば徳川家という言い方もできるかもしれない。
 現在どうして那古野という地名とナゴノという読み方が残ったのかもよく分からない。江戸時代にいったん統一されたものが、どういうわけか明治になって復活してきたらしい。明治はじめ頃はナゴヤと呼んでいたものが、明治後期になるとナゴノに変化していったのだという。地元の住人がナゴノ、ナゴノと呼び習わしていたものがそのまま地名として定着したのかもしれない。
 今日紹介する那古野神社も、ナゴヤジンジャでも、ナゴノジンジャでも、どちらでもいいそうだ。どっちか決めてくれないとややこしいと思うけど、神社側がどちらも正しいというのだから仕方がない。
 また前置きが長くなった。そろそろ本編を始めよう。

那古野神社-2

 名古屋城南の高速道路が走るすぐ下にありながら、境内に一歩足を踏み入れると不思議なほど静かな空間となっている。
 創建は平安時代の中期、911年というから、今から千年以上も前にさかのぼる。津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)を総本社とする天王社のひとつで、最初は亀尾天王社という名前だった。
 場所は現在の名古屋城の三の丸にあって、若宮八幡社と隣接していた。
 1532年に合戦で社殿を一度焼失している。その後信秀が1540年に再建した。
 名古屋城を築城する際に、家康は両方を城の外に出そうとしたところ、若宮八幡は了承を得られたものの、亀尾天王社には許可されずそのまま残ることとなった。
 それによって三の丸の取り込まれる格好となり、三之丸天王社とも呼ばれるようになる。
 このあと、あらたに三之丸東照宮が建てられることとなり(今の名古屋東照宮)、二つの神社が並ぶ格好になった。
 明治維新のときに須佐之男神社と改称し、明治9年(1876年)に名古屋鎮台が城内に置かれることになって、東照宮と一緒に現在地に引っ越した。ここは旧藩校の明倫堂があった場所だ。
 明治32年(1899年)に那古野神社と名前を変えて現在に至る。

那古野神社-3

 こういうのを熊手というのだろうか。浅草の酉の市で売られているようなものと似ている。
 神社にはよく行ってる私だけど、こういうグッズ系には弱い。祭り関係のことも知らないことだらけだ。
 祭りといえば、かつて名古屋には3つの大きな祭りがあった。亀尾天王社の天王祭と隣接する若宮八幡の若宮祭は同じ日に行われ、もうひとつは東照宮祭で名古屋三大祭りと呼ばれてた。これらが現在のなごや祭りのルーツになっている。
 天王祭と若宮祭を総称して祇園祭とも呼ばれていたそうだ。京都の八坂神社も天王信仰やスサノオを祀っているところだから、流れとしては同じものだ。
 車楽(だんじり)や見舞車10数輌が曳き出されて大変な賑わいだったという。
 それらは空襲でことごとく焼けてしまい、残ったのはわずかに車楽1輌となっている。
 現在も7月15、16日に祭りが行われている。
 桜の名所としても有名で、桜シーズンになると境内に屋台が並び、大勢の人が訪れる。

那古野神社-4

 祭神は、須佐之男神(スサノオノカミ)と奥さんの奇稲田姫神(クシナダヒメノカミ)、そして八人の王子の八柱神というところまでは、津島信仰の神様としておなじみさんだ。兵主神(ヒョウズノカミ)というのはよく知らない。滋賀県の兵主大社の他、全国に50ほど兵主神を祀っているところがあるというから、それなりに知られた神様なのだろうけど。
 スサノオなどに関しても以前津島神社などで書いたと思うから、ここでは繰り返さない。

那古野神社-5

 過剰なところはないけど、由緒正しいというか、育ちがいいといったような神社だ。威張ってはいないけど、それなりに威厳はあって、雰囲気がいい。好感が持てるという表現がぴったりくる。

那古野神社-6

 これも神社関係の建物だろうか。どういう建物なのかはよく分からなかった。

那古野神社-7

 御神木の大イチョウは立派だった。だいぶ葉は落としていたものの、太い幹や枝振りなど、風格がある。
 厄除けのイチョウということで、私も軽く触れてみた。

那古野神社-8

 お稲荷さんもある。
 たぶん、これはまだ那古野神社の境内なのだろうと思うけど、この左隣に東照宮があって、その境界線は曖昧だった。

那古野神社-9

 この金山神社は、岐阜県垂井の南宮大社から分霊してもらって、ここに建てたものだそうだ。
 金属や金物なんかの神様として、その関係の業界の人たちが参拝に訪れるらしい。

那古野神社-10

 イチョウの落ち葉に彩られていい感じ。モミジは落ち葉になるとすぐに枯れてきたなくなってしまうけど、イチョウはしばらくきれいなのが続く。

那古野神社-11

 祭りに使う山車か何かをしまってあるところだろうか。ただの物置かもしれない。

那古野神社-12

 右手には境内社が並ぶ。
 奥は社務所だろう。
 ここは結婚式も執り行っている神社だから、その関係もありそうだ。
 那古野神社の結婚式といえば、花嫁行列が名物で、ここで式を挙げたあと、近くの料亭河文まで親族揃って歩いて移動するというのが定番となっている。

那古野神社-13

 明倫堂跡の碑が建っている。
 尾張九代藩主宗睦が藩士の子弟教育のために建てた学問所で、尾張の教育に大きな影響を与えたといわれている。
 明治4年の廃藩置県で廃校になった。

 那古野神社は、名古屋城からはちょっと離れているから、名古屋城のついでに寄っていこうという人はあまり多くなさそうだ。名古屋人にとってもやや盲点となっている。私も前から一度行かなくてはと思いながらなかなか行けずにいた。
 思った以上にいい神社だったので、おすすめしたい。次は桜祭りの賑わいも見てみたい。
 明日はこの続きともいえる隣の名古屋東照宮を紹介する予定でいる。名古屋にも東照宮はあったのだ。

作者:オオタ(マサユキ)

更新日:2008年12月5日 3時31分

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間々観音に願い事をしに行ったわけではないけれど

間々観音-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 小牧山の北西に間々観音(ままかんのん)という寺がある。日本でただ一つのお乳の寺としてけっこう有名なので、知っているという人も多いかもしれない。
 正式名を飛車山龍音寺(ひしゃさんりゅうおんじ)というのだけど、この呼び名ではほとんど通用しない。最寄りのバス停も、間々乳観音前(ままちちかんのんまえ)となっているくらい間々観音で通っている。おっぱい観音ともいう。でも、そのへんの道を歩いている人に、おっぱい観音はどこですかと訊ねるのは恥ずかしいから、やはり間々観音と覚えておいた方がいいだろう。
 どうしてお乳の寺になったのかは、はっきりしないようだ。創建は室町時代の1492年で、開基は林心斉上人とされている。
 もとは小牧山にあった観音堂が始まりとされ、こんな逸話が伝わっている。
 近くに腕のいい猟師がいて、小牧山で狩りをするために入っていくと目の前に七頭の鹿が出てきた。それを撃とうとしたところ、鹿は七つの岩に変化し、その上に観音様が現れた。猟師は大変驚くとともにこれまでの殺生を悟り、それ以降は狩りをやめて、観音堂を建てて一生を堂守として過ごしたという。
 小牧山の中腹には観音堂跡が残っていて碑が建っている。現在の場所に移して堂を建てさせたのは織田信長だったと言われている。信長は桶狭間の戦いで勝利したあと、美濃攻略のために小牧山に城を築いて4年間住んでいる。1563年のことだ。
 それがどういう経緯でおっぱいの寺になっていったのかは調べがつかずによく分からなかったのだけど、赤子を抱えて貧しい生活を送っていた母が、村人にもらった米を自分で食べずに観音様に供えたところ、よくお乳が出るようになって子供が立派に育ったという話があり、その評判が広まっていったということがあったのかもしれない。
 江戸時代初期(1630年前後)に書かれた書物にも、昔から乳の霊験あらたかで参拝の人が絶えないとあるから、室町時代にはすでにお乳の寺として知られていたようだ。粉ミルクなどない時代だから、母乳が出る出ないは今よりずっと切実な問題だった。
 現在は変に有名になってしまって、テレビなどでもよく紹介されるので、半ば珍スポットのようにもなっている。話題性としては申し分ない。

間々観音-2

 想像していたよりも小さなお寺だった。垣の木には紅白の実がなっていて秋の彩りを見せている。
 住職は男性なのだろうけど、女性向けのお寺ということで境内全体の雰囲気は女性的なものを感じた。こうなれば思い切って尼寺にしてまえばもっと華やいだお寺になるんじゃないかと勝手なことを思ったりもした。実際は浄土宗のお寺だ(総本山は京都の知恩院)。

間々観音-3

 境内に入って振り返って門を見たところ。この門について書くのを忘れていた。
 こぢんまりした小さな三門だけど、尾張徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたものだそうだ。だから、葵の門が彫られている。
 江戸時代のものだろう。なかなか雰囲気のあるいい門だ。
 左に写っているものが気になった人もいるだろうか。その正体は下の写真だ。

間々観音-4

 お乳の形をした手水舎で、先から水が飛び出してくる。センサー式で近づくと出てくるから、初めてだとちょっと驚く。
 これより先、これでもかとお乳攻勢で畳みかけてくる。決してふざけているわけではないと思う。

間々観音-5

 境内にいる慈乳観世音。これが間々観音様ということだろうか。違うかもしれない。
 こちらは片乳から水がぴゅーっと出てくる。同じくセンサー式で、二度びっくりしてしまった。
 本尊は千手観世音菩薩で、弘法大師空海の作という。どこで空海とつながるのかはよく分からない。

間々観音-6

 右が観音堂で、左手前が巽堂となっている。間々観音は、観音堂に安置されている観音像だろうか。

間々観音-7

 左正面が本堂で、右手前に写っているのは十三重之塔だ。石造りだけど、けっこう高い。
 願い事をしながらこの塔の周りをぐるぐる回ると願いが叶うんだとか。強く願うならそれだけ何周も回らないといけないらしい。
 注意書きとして、「ひしゃくで叩かないでください」とあって、ちょっと笑いそうになった。誰がどこをひしゃくで叩くというのか。そんな行為をする人はめったにいないと思うんだけど、注意書きがあるくらいだからわりと頻繁に起こっていることなのだろうか。

間々観音-8

 本堂の中深く入っていくと、乳型石像やおっぱいを描いた額、おっぱいみやげなど、様々なお乳が溢れている。そのあたりは写真に撮るのを遠慮しておいた。あまりにも興味本位になりそうだったから。
 一番いいところは残しておいたので、お近くの方は続きを自分の目で確かめてください。

間々観音-9

 お寺で絵馬というのもあまりないのだけど、おっぱい形の立体絵馬というのはここだけだろう。これが絵馬掛けの裏表二列びっしり掛かっていて壮観だった。
 人の願い事をのぞき見するのはよくない気がしてあまり見ないようにしたのだけど、やはり「お乳がよく出ますように」や、「子供が元気に育ちますように」という願いが多いようだ。
 何年か前に訪れた光浦靖子は、「触られますように」という願い事を書いていた。そういう願い事もある。
「乳首がピンクになりますように」という願い事は、神様でも観音様でも難易度が高そうだ。
 絵馬は1,500円で、おっぱいキーホルダーが500円で売られている。絵馬は手作りを持参して奉納してもいいらしいので、作って持っていって掛けておくのもよさそうだ。

間々観音-10

 これはちょっと悪のりしすぎたか。
 珍スポット化しているのは、参拝客だけの責任ではなさそうだ。

 切実な方も、そうじゃない人も、一度行ってみると話のネタにはなる。お寺としての空気感は悪くないし、個人的には居心地がよかった。変に照れることはない。
 小牧市から犬山市にかけては、これを上回る珍神社がある。男性のモノを祀った大縣神社と、その対になっている女性のモノを祀った姫の宮がある大縣神社が、直線上に並んでいる。お乳観音と3点セットで巡る人もいる。私も近いうちに二つの神社は行こうと思っている。
 小牧山城にも登ってきたので、それについてもそのうち書くことになる。

作者:オオタ(マサユキ)

更新日:2008年12月4日 2時28分

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日没間際の短時間散策ながら名城公園の魅力を再発見した

名城公園-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 名古屋城周辺散策の写真が途中になっていたので、今日はその続きを紹介したい。
 一般的に名城公園というと、名古屋城の北にある公園のことを指す。ただ、正式には名古屋城内の二の丸、三の丸すべてをあわせて名城公園ということになっている。広さは76ヘクタール。1ヘクタールがどれくらいの広さなのかがよく分かってないのだけど、全部あわせると相当広いことは間違いない。
 城跡公園として整備されて一般開放されたのが1931年(昭和6年)というから古い。北園になっているところは、戦前、戦中は陸軍の練兵場になっていた。
 北園は現在、広場や野球場、フラワープラザなどがある総合公園となっている。桜が有名で、春には大変な人出となる。紅葉は期待したほどではなく、紅葉見物の人というのはあまりいない感じだった。
 春以外にも、藤棚や花菖蒲、季節の花が咲く花の山などがあり、一年中楽しませてくれる。
 なんだかんだと、いつ行ってもいろんな人種が集まっている公園で、個人的にはあまり落ち着かないところという印象がある。道を隔てた南側の市民の森の方が居心地がいい。

名城公園-2

 橋の上でぼぉーっとしている猫を発見。近づいていっても、振り返りもしない。あんなに人が多いところなのに人をまったく恐れていない。猫の方が人を見慣れているといったところだろう。
 最初は、あ、猫だ、と見つけるたびに喜んで写真を撮っていたのだけど、次から次に出てくるもんだから、途中でもう撮らなくてもいいやと思うようになったくらい猫が多い。名古屋近郊の人は、猫を撮りたくなったら、まずは名城公園に行くといい。猫カフェなんか行かなくても、タダで猫が撮り放題だ。ただし、いかにもノラってやつがほとんどだけど。

名城公園-3

 そこに座るか。こいつらも、写真を撮られていてもまったく動じる気配がない。ここの猫たちは人なつっこいというよりも、物怖じしないという表現が当てはまる。人と猫が当たり前のように同居している。
 後ろのベンチにも猫が座っている。

名城公園-4

 広場の真ん中あたりでもどんと居座って動かない。
 これまたえらく丸まるとした白猫だ。メシをもらっているというのもあるだろうけど、ノラはこういう体型のやつが多い。どういう仕組みなのか、体に肉をため込んで寒さに耐えられるようになっている。家猫の方が体型はスリムだ。
 しかしこいつは顔が大きかった。首周りもでっぷりしてしまって、これじゃあ市販の首輪は回らない。首輪をつけるなら子犬用じゃないと間に合わない。

名城公園-5

 芝生広場は、ドッグショーでもしてるのかってくらい犬が多い。犬だらけだ。街中の室内で犬を飼っている人たちにとっては、名城公園の広い芝生は貴重な運動場所なのだろう。
 犬の飼い主たちの輪があっちにもこっちにもできていた。その周辺をチビたちが駆け回り、ここは特に賑やかな場所となっている。

名城公園-6

 市民ランナーがまたすごいことになっていた。みなさん、周回コースを走りまくっている。運動部の学生からおじさん、おじいさん、女性ランナーなど、みんなぐるぐる走っている。小さな集団が自然発生的に出来て、レースでもしてるのかってくらいの勢いを見せていた。
 学生の頃はマラソン大会や授業のランニングをほとんどが嫌がっていたというのに、なんで大人になってから好きこのんで走るようになるのか。誰もちんたらなんて走ってない。ハァハァ息を切らしながら真剣に走っている。
 東京マラソン以来、東京ではランナーの数が飛躍的に増えたというけど、その現象は名古屋にも飛び火してるのだろうか。
 名城公園のランニングといえば、巨人の監督時代のチョーさんを思い出す。巨人が名古屋に遠征するときは必ず名古屋城西のウェスティンナゴヤキャッスルに泊まるから、チョーさんは翌日の朝いつも名城公園でランニングや散歩をしていた。今の原監督はきっとしてないだろう。

名城公園-7

 花の山にはまだ少しコスモスが咲いていた。紅葉とコスモスというのも、本来はあまり出会わない組み合わせだ。咲いている場所が違うということもある。

名城公園-8

 名城公園のシンボルとなっているオランダ風車。何故風車なのか、どうしてオランダなのかはよく分からない。名古屋とオランダが姉妹都市なんて話も聞かない。たまたま風車で、たまたまオランダ風車だけだったのかもしれない。
 5月になると花の山は一面チューリップ畑になるから、そのとき風車と絡めて撮ると絵になる。

名城公園-9

 5時になって、すっかり暗くなってきたので、もうあきらめて帰ることにする。最後にお堀の夕景を撮っておく。ここも定番の風景だ。残念ながらこの日の焼け具合はよくなかった。

名城公園-10

 ライトアップされた名古屋城。
 11月13日に世界糖尿病デーでブルーにライトアップされたことをさっき初めて知った。その日はニュースでも見なかった。名古屋城の変わったライトアップは珍しいから、見てみたかった。
 調べたら当日は全国あちこちの城でも同様のブルーライトアップが行われたようだ。
 名古屋城ライトアップの歴史も古く、戦後再建された昭和34年からすでに始まっていたらしい。どこの城が最初にライトアップを始めたのだろう。今では主だった城のほとんどはライトアップをしている。

名城公園-11

 空の色が黒くなったところでもう一枚。街灯りも増えて、夜景となった。
 左には西北隅櫓(別名清須櫓)もライトアップされて白く浮かび上がっている。
 ここまで暗くなってしまうと、もう撮れるものはほとんどない。城の西側の石垣風景も撮るつもりだったのだけど。

 今回あらためて名城公園の魅力や可能性を感じることができたから、また行こうと思う。猫を撮るならマクロを持っていくべきだし、人のいる風景なら中望遠も揃えたい。お堀の鳥は遠いから、少なくとも600mm換算の望遠レンズが必要だ。
 名古屋城周辺ということでは、一大駄菓子問屋街となってる明道町を一度歩いてみたいし、市制資料館も行きたい。今回取りこぼした護國神社も行かないといけない。
 次は猫のカリカリも忘れずに持っていこう。

作者:オオタ(マサユキ)

更新日:2008年12月3日 1時57分

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2008年の紅葉は岩屋堂の年だったと記憶されることになる

岩屋堂再び-1

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 今年はここまで紅葉とのシンクロ率が低くて、もどかしい日々が続いている。そうこうしてるうちに12月に入ってしまった。各地からは色あせや落葉の便りが届き始めた。もう駄目だ、今年はいけない。8割方もうあきらめた。
 あきらめてどうしたかというと、また岩屋堂へ行ってきた。上の写真はこの前撮ったものの使い回しではない。今日あらたに撮ってきたものだ。車で1時間近くかかる距離で、その時間があれば香嵐渓へも行けるのに、あえてもう一度岩屋堂へ行ったのは、この場所をもう一回撮りたかったからだ。
 けど、早まった。到着してここに立った瞬間、しまったと思った。去年、おととしが12月5日で少し遅かったから、12月1日ならジャストタイミングだろうという思惑は外れた。右奥の方の落葉が全然足りず、地面がむき出しになっている。これではまだ化粧が半分終わっていないような状態だ。
 去年の写真を見たら、去年の方がよかった。あのときはちょうどお寺の人がホウキで落ち葉を掃いていていいモデルになってくれたというのもあった。同じ場所で去年の自分に負けている場合じゃない。カメラもレンズもランクアップしてるのに。
 残念だったり悔しかったりしつつ、微妙に角度を変えながら何枚も撮ってはみたものの、やっぱりこの位置が一番しっくりくる。3年続けてほぼ同じ構図になった。そういう部分ではあまり進歩がないかもしれない。
 車で15分のくらいの距離ならもう一回とも思うけど、今年はこれでもうあきらめた。また来年にする。

岩屋堂再び-2

 見上げる紅葉。黄色から赤へのグラデーションが空を覆う。
 木の幹と枝のシルエットがうごめく命といったようなものを感じさせた。成長はゆっくりでも着実で、くねりながら伸びゆく枝は生きてきた記録だ。


岩屋堂再び-3

 足元に目を移せば、落ちたイチョウの葉が絨毯のように敷き詰められている。掃いても掃いても次から次へと落ちてくるイチョウの葉は、掃除人泣かせだ。よくぞこんなにも葉っぱを持っていたものだと驚く。
 それでも寒さが深まる頃には葉は落ちきって、枝は裸になる。そうやって冬の寒さに耐える。それがまた春から夏にかけて再生してくるのだから不思議なものだ。
 イチョウは長生きだから、ここの木も私たちがいなくなったあともずっと生き続けることだろう。

岩屋堂再び-4

 しゃがんで三蔵門の中を撮っていて、ふと振り返ったら誰かが写真を撮っていた。しまった。いつもは私が人入りの写真を撮っているのに、立場が逆転して私が風景の中の人になってしまった。あまり必死な感じになっていたら照れくさい。しゃがんでの縦撮りだから、ちょっと頑張ってる感じになってしまっていたんじゃないだろうか。

岩屋堂再び-5

 今日の目的は三蔵門前の写真を撮ることだったので、門の中には入らず、外から頭を下げるだけで勘弁してもらった。お墓の方の紅葉も撮りにいってない。
 浄源寺はまた来年の2月に訪れることになるだろう。近所でセリバオウレンを撮れるのはここくらいだから。

岩屋堂再び-6

 去り際にもう一枚。残念という思いが最後まで残った。

岩屋堂再び-7

 もみじ祭りとライトアップは昨日までで、終わったとたんにひとけが消えた。すっかりいつもの静かな岩屋堂に戻っていた。紅葉自体がもう終わっていたということもある。
 島原川には鳥たちの姿も戻ってきて、さかんに鳴き交わしていた。鳥にとってもやれやれといったところだろう。

岩屋堂再び-8

 この日は珍しく一脚を使っていたのだけど、日没後の薄暗がりの中では止めきれなかった。一脚では縦ブレは止まっても横ブレが止まらない。手ぶれ補正機能との組み合わせでも、1秒を超えると駄目だ。1/2秒くらいまでなら根性で止めるのだけど。

岩屋堂再び-9

 屋台も閉まっていた。やる気はあっても、もうお客がいない。昼間は多少人も来ていたんだろうか。

岩屋堂再び-10

 いつもの場所。個人的に昭和枯れすすきポイントと名づけている。岩屋堂で一番好きなところで、訪れると必ずここから写真を撮っている。ほとんど定点観測といってもいいくらいだ。
 ずっと変わらないようでいても、何年かあとに撮った写真と比べると微妙な変化があるかもしれない。新しくなる要素はほとんどないから、ますます枯れていくことだろう。
 でも、ベンチは新しくなっているような気がする。前はこんなきれいじゃなかったんじゃないか。前に撮った写真と見比べてみよう。

岩屋堂再び-11

 岩屋堂は山に囲まれているから、日没時間が街中よりも早い。5時前にはすっかり暗くなって、奥へ進んでも写真を撮れそうになかったので、引き返した。
 今の名古屋の日没は16時40分で、今日から10日間くらいが一年で一番早い日没時間となる。東京は16時28分に日没となる。大阪は16時47分だ。当然ながら、西へいくほど日没時間は遅くなり、北ほど早い。根室などは15時42分には日が沈んでしまう。北と南では、日没に対する感覚がずいぶん違うはずだ。

岩屋堂再び-12

 瀬戸へ行ったら撮るところといえば、このパルティせとだ。今日は信号待ちの位置とタイミング悪くて走り撮りになってしまった。
 走り撮りには多くの可能性があると感じている。運転中に、あ、今のところ撮りたいっと思うことがよくあるけど、ほとんどは撮れずに逃して悔しい思いをする。
 こうなったら、ダッシュボードにデジを固定して、リモコンで撮るという仕掛けを作るか。助手席に三脚を立てられればそれでもいいかもしれない。信号待ちのときに、それを隣の車のドライバーに見られると恥ずかしいけど。

 今年の紅葉はおそらくこれで終わりということになるだろう。どこかで紅葉に当たることはあっても、紅葉自体を撮りに行くことはもうなさそうだ。どこも時機を逸した。
 2008年の紅葉は、岩屋堂の年だったということで記憶されることになる。
 明日からは紅葉へのこだわりを捨てて、ネタ集め優先で行き先を決めていく。10日からは青春18きっぷを使えるようになる。ヒザも治ったことだし、また歴史巡りの電車旅に出たい。鳥撮りも再開しなくては。
 冬には冬の被写体があって、写真に休みはない。

作者:オオタ(マサユキ)

更新日:2008年12月2日 3時11分

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