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トップ > ソマリ > ソマリ - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年10月8日 5時)

歴史修正主義とは何か?

 歴史修正主義とは何か?
冥王星さん曰くよく分らないそうである。
正直、私もよく分らない。実態を提唱している当人さえ理解していない可能性があるだろうが、
ウィキペディア

1.新しく発見された史料や、既存情報の再解釈により、歴史を叙述し直すことを主眼とした試みのこと(歴史学における用法)
2.従来の歴史観と違う歴史観を主張する者に対して「客観的な歴史学の成果を無視し、自らに都合の良い過去は誇張や捏造したり、都合の悪い過去は過小評価や抹消したりして、自らのイデオロギーに従うように過去に関する記述を修正するもの」として批判する場合に用いられる言葉(通俗的な用法)

説明がよく分らないが、よく精査する余地はあるだろう。
現存の歴史学の視点すれば、「1」なんてのは既存の歴史学者でもやっていることである。
「2」も過去普遍的に存在したものである。
つまり、実態は特段目新しいものではない。
学説は学説で研究途上にあり、学者個人が研鑽・捜索活動の過程で歴史学的立証作業によって歴史は改編するものであり、可変的なものである。
 
意味不明なのはそっれを標榜する側にもあるが否定する側にも意味が分からない。
そもそも、歴史修正主義という実態不明瞭なものが介在するとして、様々な事実認識や事実認識の解釈論を根本から否定できるような言動は存在しない。
 南京大虐殺の論点においても、様々な証言が存在し、その証言の真贋については、国内司法としての決着も判断もない。
 様々な歴史事象をどのように判断するか?という歴史的価値観に関しての自由を許さないのが双方のスタンスならば、どちらにも組みするつもりはない。
 
 例えば「強制」という言葉に関しては法的な規定の問題もあるが、歴史学的な定義は介在しない。
道義的・道徳的背景において「強制」をどう定義するか?という問題は、どちらも明確な定義を出せるものではないし、お互いに共通認識がない。
 つまり、お互いに批判するために、持論を補完するための舌戦を繰り返しているに過ぎないだろう。

さて、少し歴史修正主義という用語に関して、現代で言われる右翼的な言動者の言う「修正主義」とは違う、左翼が言う修正主義とは違う実態事例を提示しようと思う。
まず、「修正」「修正主義」(revision, revisionism) なる用語ですが、日本語としては生硬と思われるこれらの語は、19世紀末以来、ヨーロッパの政治舞台に登場してから、さまざまな文脈で用いられてきました。

「修正主義」と言えば、左翼的思想の源泉とも言える「ベルシュタイン」の修正(資本)主義を思い出す経済学史の学徒もいると思う。
しかし、紹介する修正主義は少し違う。
(1) ドレフュス事件
まず、この語は、ドイツへの軍事機密の漏洩の濡れ衣を着せられた、ユダヤ系フランス人のアルフレッド・ドレフュス大尉の冤罪を確信した作家・知識人たちの「再審」請求、つまり有罪判決の「見直し」という意味で用いられました。

(2) マルクス主義
19世紀後半の資本主義の新しい段階に直面して,ドイツ社会民主党指導者の一人ベルンシュタインがマルクスの理論体系を修正し,そこから革命的な内容を抜き去り、今日でも共産主義運動の中で改良主義的な立場をとるものを,一般に修正主義と呼んでいます。

(3)ヴェルサイユ条約
第一次世界大戦後のヨーロッパの政治的枠組みを決定したヴェルサイユ体制の懲罰的性格に対して不満を抱く中央諸国から、同条約の「見直し」の要求という文脈でも用いられました。

(4) 中ソ対立
国際共産主義運動における主導権争いから、ソ連と中国が、互いに「修正主義」「教条主義」と誹謗し合いその緊張関係が国境紛争にまで発展したのは、周知の通りです。

(5) 第二次世界大戦の戦争加害
第二次世界大戦の戦争加害に関する「修正主義」には、前に「歴史」という語が付加されいてますが、この語が日本の言論界に定着したのは、『抵抗への招待』(みすず書房) などの著書で知られる鵜飼哲氏が、石田靖夫氏にピエール・ヴィダル=ナケの『記憶の暗殺者たち』の翻訳を薦められたあたりからでしょう。同書の翻訳は、1995年に人文書院から刊行されました。1995年とは、言うまでもなく「マルコポーロ事件」の発生した年です

つまり、一般的言われる批判されるのは、(5)というのが実態でしょうが”歴史修正主義”と解されるものは数多くあります。
指摘したものは、ムーブメントとして政治的影響力をもった事例であり、最近では既存の歴史館を修正し名誉回復を図る学説の樹立作業などが行われています。
 例えば、田沼意次・徳川綱吉・徳川慶喜など日本人の歴史上の人物だけではなく世界でも再評価される歴史上の人物は多くいます。
アメリカアイゼンハウワー・ニクソン
ドイツシュトレーゼマン
フランスペタン

 これらの歴史上の人物の再評価が行われ、既存の評価から180度変化しようと価値観的問題という部分が当然あるでしょう。
 むしろ、自由主義的視点からいえば、歴史的再評価を常に自由に行えるべきものであり、その過程で変化した歴史的評価を「歴史修正主義」という批判にするならば、
それは、既存の歴史館からの閉塞でしかない、堕落でしょう。
むしろ、その修正主義と批判される人間の方の自由権を奪うものでしかないという批判は可能でしょう。
逆に、修正主義そのものの自由はあれど、その修正評価はあくまでも当人の価値観でしかない、という前提を留意するべきでしょう。
 仮に事実認識の論争であるなら、より客観的な事実を肯定する証拠を提示、否定する証拠を明確に打破できるようにならない限りは、事実認証として公で認めるわけにはいかないでしょう。
 私としては、歴史修正主義という実態さえ把握できない状態ですが、批判している人はどこまで実態を把握し、どのように理論武装しているのでしょうか?
 
 ただ、私が俯瞰するに、双方とも己の歴史感を絶対視し、対論しているようで、実態はお互いの自由な歴史観を否定しているだけに過ぎません。
そこにあるのは教条主義・思想的背景をベースにした価値観の狭量さでしょう。
メルマガに冥王星さんの言葉があるので引用すれば
どうでもいいじゃん。
歴史価値観の自由を尊重しあえない連中の舌戦なんか価値ない。
むしろ、そういう連中はメディアリテラシーのない学徒たりえない煽動被害者だろう。
研究者らしい研究者はどちらにもつかないし、どっちも応援しない。
結局は、両者とも「知ってるつもり」で自分の「認識論」を絶対化しているだけの話。
そもそも、事実の真贋な不明なものは不明として処断するのがもっとも妥当性があるのに、思想的前提から真贋の議論にこだわっているような状態では、どうしようもないよ。
分らないことは分からないから、その事実関係を明確化するための周辺情報を探るという検証作業を行っているわけじゃないからね。
そもそも、人間行動は論理的な視点だけで解決できない部分があって、非合理性の選択肢を残すわけで、歴史もその非合理性の行動の影響をモロに受けるんだしな。
もっとも、説得力を持つ言説というのは、そういう非合理性行動の証明・立証も完遂できるから凄いもんだ。
要は、事実認識に特定のイデオロギーなど介在させないだけの中立性がある研究者が真理に近い部分に到達するのさw
イデオロギーはフィルターの穢れで、その穢れは意識しないと掃除できない。
だいたい、そういう論争しているのは、イデオロギーの保守のために論争してる歴史研究家ではなく思想保守派なんだから、気にするな。
連中が導き出す事実認識にどれだけ影響力があろうとも、それは歴史の一面であり、全てではない。

つまり、冥王星さん曰く、気にするな。むしろ論争してる連中の器を見限れ、ということだろう。

私としては、歴史修正主義なる実態の不明瞭なものを主張する側、その主張を鵜呑みにする側の思考停止ぶりにこそ、本質的な問題があると思えるが・・・

そこにワレサさんの言葉があったので紹介しておくと
歴史修正主義という言葉の字面をそのまま受け入れれば、歴史は常に修正されてきているものであり、それが当然なもの。
未知の文献・考古学的物証が次々に発見され、既存の歴史は塗り替え作業が行われるものであって、それが歴史の本質でしょう。
既存の学説に満足することなく、研究する姿勢のない学者には価値がないだけではなく、悪弊という可能性もあると思います。
 でも、歴史修正主義って改めて言うものではなく、歴史は常に修正されているものだから、
「修正主義」という主張は、どうみてもヘンですよ。
だって、非修正主義の歴史家なんて実態はありませんし、常に新しい可能性を想定しているのが歴史ですからね。
冥王星さんや木村屋さんたちが、コツコツと文献をあさってるのは、修正主義に他ならないわけで、
「修正主義」のない学者もいないでしょう。
新しい歴史感を強制する側からすれば、既存の歴史は”修正されないものである”という誤解があるんでしょうねぇ。
まったく言葉の重みのない造語ですねw 

 
そういえば、私も冥王星さんも歴史修正主義なのかもしれません。
二人とも、
明治維新否定論者ですし、
ローマ教会の「聖人列伝」には異論も呈しますし
ペタンの名誉回復もいいますし
欧州宗教改革の流れでマイノリティだったヤン・フスを尊敬してますし
グラクッス兄弟大好きですし

あ。私は歴史修正主義者だったんですね。(苦笑)

作者:冥王星

更新日:2008年10月8日 12時29分

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コメ輸入義務―農業強化の構想を競え

 事故米の不正転用問題が国会の論戦でも取り上げられている。
 その責任は、事故米と承知で食用に販売した業者にある。そのうえで、業者につけ込む余地を与え、不正を見逃した農政にも、構造的な問題があったと考えざるを得ない。輸入米の現状を調べるとそれが浮かんでくる。
 日本は国産米を保護するため、コメの輸入に800%近い高関税をかけている。
 これを国際的に認めてもらう条件として、毎年一定量を輸入する義務を負った。これが「ミニマムアクセス(最低輸入義務量)」である。
 現在の輸入義務量は、国内のコメ生産量の9%程度にあたる年間77万トン。制度が始まった95年度以来、累計で約900万トンを輸入した。
 政府は、コメの輸入が国内の相場を押し下げ、あるいは生産調整(減反)を増やすことのないようにする、と閣議で決めた。だから、できるだけ主食用には売らず、みそやせんべいの原料用として売ったり、最貧国への食糧援助に使ったりしている。
 とはいえ、原料用、援助用の需要は年間40万~50万トンくらいしかない。売れずに在庫が129万トンもたまった。倉庫での保管費用が毎年100億円以上もかかるため、農林水産省は在庫減らしを進めてきた。それが不正業者への安易な販売と、甘い検査につながったのではないか。
 この夏に大詰めで決裂した世界的な貿易交渉(ドーハ・ラウンド)でも政府は、コメ関税の大幅引き下げを避けるためなら、さらに輸入義務量を増やすのもやむなし、との方針で臨んできた。しかし、原料用の用途拡大に努めたとしても、輸入米をこれ以上利用できるあてはないのだ。
 輸出立国の日本は、国際的な貿易ルールを守らなければ生きていけない。一方で、コメの輸入を増やすのは難しいし、国内の農業も守りたい。
 このジレンマを解くには、やはり農業の競争力を高める以外になかろう。
 農政はずっと米作の保護に重点を置いてきたが、それだけでは農業の足腰を弱めジリ貧に陥ってしまう。
 コメの国際相場が高騰し、幸い内外価格差はずいぶん縮小している。世界的な食糧不足は今後とも続きそうだ。ここは農政を抜本的に組み直すチャンスではないだろうか。
 早ければ来年にも再開される貿易交渉では、コメの関税をできるだけ引き下げて輸入義務量を抑える方針に転換する。同時に、それに見合って生産コストが下がるよう、強い農業へ向けた政策を集中させる。米作を主業とする農家へは所得補償制度を拡充して支援する。そんな戦略である。
 事故米問題をきっかけに、与野党は総選挙へ向けて、そうした農業再生の構想を競ってほしい。

 最近のメルマガから冥王星さんの記事を引用すると、こんな感じ

 不思議なことに、コメが高い高いという消費者がいる一方で彼らは関税上乗せされても、まだ安価な輸入米を食べようとしない。
 むしろ、自由貿易で安価なコメが買えないことを不満に持っている人間が、食の安全に対する意識が低いという現況もあるかもしれない。
 以前、冥王星さんが指摘していたことだが、在庫を多く抱えている強制輸入米(冥王星さん曰くそういうカテゴライズがあるそうだ)をドンドン人道支援という美名で輸出する、という外交手法をどうして理解しようとしないのか?
という問題提起をしていた。輸入米は日本の安全基準ではアウトであろうとも比較的安全規格の緩い途上国では十分食用に耐えるものである。
 それを外交カードとして外交展開するような手法を積極的に行うべきにも関わらず、一部の海外支援を渋る人間は、日本が金を武器にして外交している側面だけで考えている。
 こういう部類の外交見解は未熟であり、このレベルの外交評論しかできない人間の浅慮は傾聴に値することはほとんどないだろう。
 言うまでもないが、コメの自由貿易を提唱していた人は、現代の食糧危機の可能性まで想定していなかった部分があるだろう。今、米の国際価格が高騰しているのは、僥倖とも言えるが、
 農業行政として継続的な補助金助勢は、補助金依存の農業経営への加速化の可能性が高い。
 もちろん、食糧の安全保障のために最低限の農作物の生産量の維持は国策の領分だと思う。
 しかし、これから到来するだろう内外価格差の消滅に対して、農家が自律的に国際社会の市場競争に勝ち得るためには、むしろ国内市場原理を勝ち抜けるような農業経営技能が必須だろう。
 つまり、稲作農家の補助は最低限にして、市場原理で競争して生き残れる農家だけに選抜することによって、日本の農家の生産性拡大を狙うべきだと思う。
 所得補償は食糧安全保障の部分で最低限度で済ませ、国内のコメ市場は市場原理で農家の自然淘汰をしないと、生産性も価格の面でも、消費者・生産者とも不利益を被るだけになるだろう。


冥王星さんは、減反維持・コメの自由化反対派でいわゆる保守派。
 彼の持論では、日本の稲作は、食糧という重要性もさることながら、文化・国防という総合的な安全保障の面での評価を行うべき、という趣旨。
 理論経済学としては「価格」という視点を外せないのだが、冥王星さんは、「価格」以外の稲作の効用を数値化できないにしても、実体ある日本の必要要素として死守しようとしている。
 朝日の社説は、減反政策などには言及がないが将来的に日本の農政のヴィジョンは見えない。
 食糧危機という現実的問題の前で日本の立ち位置を考える時期にあるが、食糧は金で買えるという豊かさな環境に慣れた現代の日本人には、国際食糧競争の時代で生き残れない可能性は高いかもしれない。
 軍事ヲタクが軍事力というパワーに視野狭窄になるようだが、軍事力は国力の射程を超えない。
と同時に、食糧という部分では、もっとも基礎的な生命維持の要因として、外交資源として絶対化される時代が来るだろう。
 その時代の日本国土がどうなっているのか?冥王星さんの将来像は暗い。 

作者:冥王星

更新日:2008年10月7日 10時49分

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刀狩りについて

アシスタントSとの問答について、記事になる話なので、秀吉の「刀狩り」について見解を述べておきたい。
 なお、アシスタントSとの討論の命題は「日本人の政治武装闘争の歴史と非武装の実態」という変わった卒論がベースに記事です。
 先立って、二人の間の主張は

「戦国時代から江戸時代まで農民は武装農民である。刀剣を保持していた。」
「幕末から明治初期の農民武装闘争は、秩序だったものであり、非武装闘争はむしろ暴走しかねない危険性をはらんでいた」
「日本人民はGHQ体制下から今日まで継続的な非武装状態である」


今回は、「刀狩り」の実像について考察をつめたい。
テーマ
<・豊臣秀吉の「刀狩」によってどこまで人民の非武装化が実現したか?>


1.支配力を担保する暴力措置の側面から
・戦国時代の人民の武装環境について
 南北朝末期に発生した足軽という身分は、農兵との相違点があると言えるが、山賊・海賊の類という理解が妥当だろう。もしくは、惣村を捨て、自作地を放棄した任侠の類が山賊・海賊という集団化に至らず、小さく不法行為を働くような様相は想像できなくもない。
 一方、それら無頼の輩から惣村を自衛するために農民の武装化に必然性があったという側面や、惣村同士の領域紛争・訴訟沙汰・鳥獣からの農作物の保護という意味では、世間的なイメージにある非武装農民という肖像はありえない。
 時代を経て足軽という兼業傭兵が一種の家業として確立するようになったのが、いわゆる忍者などと呼ばれる戦国時代の諜報集団になったと考えることも可能だろう。
 紀伊・伊賀の畿内の特殊な惣村では、特異技能を生かした専業傭兵が発展したこともある。
それらが、宗教と利害一致し、一向一揆とシンクロして、戦国時代の一台勢力になったことは、歴史の必然性とも言える。
 元来、大名と農民の関係は明白な支配関係であるとは言えない。
 鎌倉時代の「御恩と奉公」という武士階級の関係は、兼業自衛武官(守護職)と職制認証者・守護職組合の組合長程度の関係ながらも、地方の守護職は、地域の自衛活動を果たしており、惣村の管理統制を行う農民の支配者であった。
 それが守護職の実力が同じ武士階級の台頭で弱体化すると同時に、鎌倉後期から室町前期における飛躍的作業の発展で、農民の自弁武装の環境が構築された。
 つまり、戦国時代では農民が相対的に武士階級よりも強くなり、その原因は、農民の武装が前提になっていると考えられる。
 一般的に多くの時代劇で描かれる農民の実像は非武装農民であるが、これは室町後期から江戸初期までの農民の肖像として、誤解を招くものだと考える。
 では、農民はどのような武装をしていたか?という具体的な肖像があるわけではない。
 ただし、農民が鋤・鍬だけで武装闘争を展開したという記述もなく、刃傷沙汰は農民でも存在していることを考えるといわゆる「帯刀」、カタナを脇差として備えていたことを想像するに無理があるわけでもない。
  戦国大名が実質的に農民を兵役に使役できた背景は、惣村・武装組織に対する利便供与があると考えられる。
 年貢の取立てられる農民にとって、自弁武装できるようになった自分の身を守る手段は戦国大名ではなくなった。
 しかし、戦国大名を農民が必要とする因子があるから大名と農民は相互依存関係で利害の一致で戦えたというのが実情だろう。
 有名な武田晴信の治水活動は、武田家の年貢の逓増という側面もあるが、何より地域農民の生活安定化に繋がるものであり、「農民の負担を減らす戦国大名を農民が選ぶ側だった」、という可能性は高い。
 そもそも、農民が好んで<戦>に出ていたのか?という問題が残る。
 これこそ民兵を考える上で重要な問題だが、惣村単位での兵役の義務があったというのが実情だろう。
同時に惣村単位で領主との利害関係が密接化することで強力な領主の立場が出来上がるものであろう。
 つまり、足軽は好きこんで<戦>に出たわけではなく、半ば惣村という社会単位に強制されていた側面があると考えられる。
 しかし、強制だけで考えることでもない。功績ある兵士を出した惣村には年貢の減免や惣村同士の訴訟沙汰での手加減・優遇策などは領主の権限として保持してだろうし、それだけの実力はあっただろう。
 つまり戦国時代の領主というのは、惣村単位の利害関係の調停・農民への利益供与という手法によって、農民を辛うじて支配していたに過ぎないというのが現状だろう。
  これらを裏付ける文献資料は多々あるが、割愛させてもらう。
理論的にどこまで実態を正しく把握できているのか、という問題はあるが、戦国時代の領主と農民の関係はフランクであり、フレキシブルかつ流動的だったという観測が妥当だろう。

話が逸れたが、領主と農民の関係がフランクであることを考慮に入れて考えると、戦国時代の法令などは、それを体現していると言える。
 戦国時代の領主の法令は「分国法」などと言われるが、高圧的に農民を支配・管理するような文言はない。むしろ、分国法は同じ武士階級への家訓に近いものもある。
 ただ、その領主の成り立ちによって分国法でも家臣を高圧的に支配するようなものではなく、むしろ条文策定者の希望を書き記した程度のものが多い。
 つまり戦国時代の大名が発する法令は、近代社会以後の法治主義社会が提示する法令とは世界観を異にし、むしろ、近代憲法にあるような権力者の権利制限という色合いもあるだろう。
 従って、秀吉の時代で領主の支配力が強大化しても、農民と武士の相対的関係はまだまだ健在であることを考えると、刀狩の実行力も疑われるものだろう。
 
さて、具体的に刀狩りの条文を検証してみよう。
原文では理解判別しにくいので簡単に現代文化すると
一、百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
二、取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
三、百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

法律という内容は、一だけで、二、三は刀狩りの目的・理由づけである。
現代の法律とは違うのは分かるだろう。2,3は農民に説明する趣旨があるのかもしれないが現代的価値観では理解できない。
 ちなみに、分国法の事態について、冥王星と同じ見解のサイトもあるのでそちらを参照されるといいかもしれません。→こちら

さて、次回は「一揆の実像」というテーマで少し論説をつめたい
ちなみに、一揆とは暴動ではなく、政治デモという実像が妥当である。
その政治デモを鎮圧しようとする勢力との抗争から暴力闘争になるような事態もありますが、そこらから現代の日本の政治運動への理解の問題を図れるような気がします。

 ということで、不定期になるが、アシSとの討論について私権を展開しつつ、世間的な誤解の是正を図りたい。
 今回の世間理解の是正ポイントは
農民も帯刀・武装してた
戦国時代の兵卒は農民が圧倒的に多くて、あくまでも自治体の中から仕方なく兵役で出ている
戦国大名・領主は、惣村の支持を得て初めて存在しえる脆弱な支配力しかない
戦国時代の農民は自由度が高かった
戦国末期になると自弁の重武装の職業兵士・専業傭兵が多く存在した

こんな感じでしょうか?大河ドラマの間違った時代考証を是正するためにも、こういうネタは悪くないと思います。
もっとも、こういう話は学校の授業では「テストに出さない」のでやりませんが、本当は重要な知識ですので、蔑ろにしないでくださいね。

作者:冥王星

更新日:2008年10月6日 15時52分

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理想の教師像は?

 冥王星さんも私も教育者に憧れて、教育課程を履修しました。
そこで「あなたの理想とする教師像は?」という課題を突き付けられて、回答に難渋したことを覚えていますが、
 冥王星さんも同じ質問をされても動じることなく
「緒方洪庵」と回答したそうです。
今回は、メルマガから冥王星さんと木村屋さんの対談を引用します。



冥王星
「理想の教師像」ということで以前話したこともあるんですが、緒方洪庵以上の理想の教育者はいないと思います。
福沢諭吉・吉田松陰とか幕末期には多くの私塾が隆盛しますが、適塾・松下村塾は現代の私塾としても二大スターみたいなもんですから

木村屋
二人とも激動の幕末に多くの駿英を生み出した教育者だけど、どうして緒方洪庵なの?

冥王星
まず、塾生の質量の問題が大きい。
適塾は政治イデオロギーの呪縛から解放された近代を作り、近代を維持し、近代を発展させることができる人材が育てられました。
一方、松下村塾は強烈な松陰のイデオロギーの呪縛に塾生の多くが支配され、彼らは長州という枠内でしか活動できない人が多かった。
 松下村塾では長州の人材が政治的にのし上がるけど、彼らの残したものは、「近代を作る」という側面があったにしても、維持できたメンツとは言えないでしょう。
同時に、松下村塾は「政治思想塾」。適塾は「医学を中心とした言語塾」と取り扱う射程がまったく違う。

木村屋
つまり、器が違うと?

冥王星
松陰と洪庵の個人の器というよりも、塾と塾生を見る限りは、器が違うでしょう。
仮に、幕末流転で松下村塾の連中は、一つ間違えば任侠浪人博徒にすぎない。
でも、適塾の塾生はテクノクラートであり、時代の変化に影響されることなくその才能を発揮できたでしょう。
守備範囲があまりにも狭い松下村塾に比較して適塾は広すぎるという部分がある

木村屋
その傾向はありますけど、緒方洪庵個人としては洪積は適塾の偉業しか伝わっていませんよね?
優れた教育者は、実績も伴うと思うんですが?

冥王星
緒方洪庵の実績はあまり喧伝されないだけだと思います、
あまりにも適塾の塾生の栄光が輝かしいですから・・・・
医学者としての洪庵の功績は上方でも大阪の記述が多いので江戸・京都の騒乱の歴史である幕末では脚光を浴びることもなかった部分が多いでしょうね

木村屋
緒方洪庵のどこが評価するべき部分?

冥王星
色々な話があるわけではないのですが、塾生に慕われていたことが全てでしょう。
考えてみれば、松陰は塾生に不幸な末路を与えることが多いとも言える一方、洪庵は塾生に職を紹介したり、自分より優れた研究者を紹介したり、教育者とて、塾生の可能性を発揮する努力を惜しまなかったことは非常に素晴らしいと思います。
なにより、適塾という教育環境は一見して劣悪でありながらも、「学問をする」という環境を塾生が自主的に作れるような雰囲気があったことがやはり洪庵の人となりを思わせるものがあります。
松下村塾の連中は、藩の財政で情報収集という銘打って豪遊している一方で、テクノクラート群である適塾の面々は清貧ながらも民生に貢献する部分が大きかったことは重要な相違点でしょう

木村屋
「華やかな歴史の表舞台を飾っている松下村塾」
「地味ながらも社会の屋台骨を支える人材を輩出した適塾」
そんな感じですか?
 
冥王星
イメージ的にはそうですね。
でも、イデオロギー的な要素を教えている松陰というのは、本当は教育者としては狭隘で人材を社会に提供するという側面でみれば、偏った人間を輩出してしまうような問題があるわけです。
それは適塾には危惧する必要性はない。むしろ、適塾の面々は個人のイデオロギーの相違で対立しながらも和解できる柔軟性があることも分かる。

木村屋
松下村塾の擁護するわけじゃないけど、
当時の社会情勢からして、イデオロギー的になる必要性があったと思うんです。
そこを割って考える必要性はあるんじゃないんですかね?

冥王星
時代背景からその時代の趨勢を従うことが教育者としてあるべき姿とは思いません。
学生が学ぶことの喜びを得て、それが社会の利益に貢献できるようになればその結果が最上のものでしょう。
社会の趨勢に逆らったとしても、有益であれば評価するべきだと思います。

木村屋
なるほど
では、理想の教育者というのは、社会に貢献できる学生を育てることですか?

冥王星
そうとも言い切れないと思うんですが、
勉強を行うのは当人なわけで、洪庵も松陰も進んで塾生に学問を教えたわけでもないんです。
「学生自身が勉強するように仕向ける」というのが二人の共通項であり、それが教育者のあるべき姿だと思ってます。
教育者は「教える」のではなく
「学生が勉強するように仕向け」、「学習する環境を自律的に創造するようにさせる」
ということが重要だと思うんです。
そこから、学生が自分の意思で多くの選択肢から自律的に学問を選択するように「仕向ける」
それが教育者だと思うんです。
だから、「教える」という行為を行う教育をやっている現代の教育システムの「教師」を教育者としてみるつもりはないんです。
それは、予備校講師として「教える」状況になっている自分も「教育者」に値しないという批判もあります。

木村屋
つまり、教育者は”道先案内人”程度ということですか?

冥王星
いや・・もっと主体的にできることは少ないですね。
ただ、一番重要なのは、自分の学生を信じ、責任を持つことでしょうね。それがあって、初めて教育者たりえることも事実です。

冥王星さんは「緒方洪庵」を尊敬する教育者として唯一の人物として挙げています。
幕末の激動の歴史を歩んだ緒方洪庵・吉田松陰・・・・
みなさんはどちらが優秀な教育者だと思いますか?

  

作者:冥王星

更新日:2008年10月5日 18時8分

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自衛隊法61条は憲法違反か?

 自衛隊法第61条 
 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。
 隊員は、公選による公職の候補者となることができない。
 隊員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

 日本国憲法第十五条【公務員の選定罷免権、公務員の性質、普通選挙と秘密投票の保障】
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

公職選挙法第10条 日本国民は、左の各号の区分に従い、それぞれ当該議員又は長の被選挙権を有する。
1.衆議院議員については年齢満25年以上の者
2.参議院議員については、年齢満30年以上の者
3.都道府県の議会の議員については、その選挙権を有する者で年齢満25年以上のもの
4.都道府県知事については年齢満30年以上の者
5.市町村の議会の議員についてはその選挙権を有する者で年齢満25年以上のもの
6.市町村長については年齢満25年以上の者

冷静に考えれば、自衛隊法61条は違憲立法という考えが妥当だろう。
自衛官であろうと、被選挙権は憲法上・公職選挙法上は制限される要件にはないわけで、自衛隊法のみで被選挙権を規制していることになっている。
 「文民統制」という命題で、”軍人が最高意思決定権者であってはならない”という規定が存在しているが、この「文民統制」には厳密な規定がなく各国とも個体差がある。
 これは冥王星さんが好きな部類なので、時間みてコメントしてくれるが、憲法条文を素直に読めば自衛隊法は違憲立法という感想になりえるだろう。
さて、自衛隊法61条では
隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。
とあるが、これに抵触した事例が地味ながら事件になっている。
 田母神空幕長ら自衛隊トップ7人に政治献金疑惑 自衛隊法違反か
 報道が大きく扱われていないのだが、事実とすれば自衛隊法違反は明白である。
幕僚長などの名前が挙がっていることを考えると事態は深刻である。
さて、受け取った側の対応は無反応。それはちょっとマズイと思うが・・・・
 しかしながら、日本国憲法で想定される”文民統制”とはどこまでの話なのだろうか?
文民統制を厳密化すれば、自衛官には選挙権・地方政治の請求権すら危うくなってしまうのだが
 冥王星さんの意見は至極簡単で
軍人としての献金・個人の内心としての献金と不明瞭ながら分岐できるだろうし、軍人だから献金しちゃいけないというのは、厳しすぎる文民統制の解釈。そもそも軍人としてもらった給与をどう使おうと当人の勝手のはずだ。
 「最高政治意思決定権者が軍人であるべきではない」程度の解釈が”文民統制”の世界的な共通基準とも言えるし、被選挙権を奪うべきとは思えない。
 そもそも自衛官は「軍人」ではないという法的建前論もあるのだから、そこらは法的な整合性をつけるべきだろう。

 旦那の見解
興味ない。自衛隊法なんて俺にはどうでもいい。

ということですが、はてさて、どうしたものでしょうか?
 自衛官も国民ですが何か?

こういう記事やると、右翼とか言われるんでしょうね。
でも、冥王星さんも自衛隊法61条の在り方は変だという立場でした。
でも冥王星さんのメルマガを見る限りでは自衛官の選挙権および選挙活動には量的制限項目を設けるだけで十分ということらしいです。
具体的に条文にしたものがあるので、コピーできないので書き出します
改正自衛隊法第61条 
 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為に関しては、管轄上長の許可を受けて行うことができる。
 なお、寄付は一人当たり10万円以下、政治活動については時間にして30時間以内とする
 <削除>隊員は、公選による公職の候補者となることができない。
 隊員は被選挙権を有するが、議員及び公務就任にあたり、自衛官としての職務を辞することを前提とする。
 <削除>隊員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

ということらしいです。穴がありそうですが、この程度で十分だと思います。

作者:冥王星

更新日:2008年10月4日 19時42分

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防衛秘密―侵食される「知る権利」(朝日新聞社説)

防衛秘密―侵食される「知る権利」
 秘密の情報を新聞記者に提供したとして、防衛省はおととい、航空自衛隊の幹部を懲戒免職にした。この幹部は自衛隊法違反容疑で書類送検されていたが、検察庁が起訴するかどうかまだ判断していない段階での処分は極めて異例である。  問題となったのは、3年前に中国海軍の潜水艦が南シナ海で事故のために航行不能になっていることを報じた読売新聞の記事だ。
 防衛省によると、防衛省情報本部の課長だった1等空佐が読売新聞の記者に秘密情報を伝えた。それが、自衛隊員が漏らした場合に厳罰が適用される「防衛秘密」にあたるというわけだ。
 1等空佐は自衛隊の警察組織に事情聴取を受け、自宅も捜索された。だが、昨年、事件が明るみに出た後も、記者の側は取り調べを受けていない。当時の久間防衛相は、自衛隊法について「漏らした方を罰する仕組みで、通常の取材を罰する法律ではないから」と説明した。
 しかし、政府の職員が報道機関に情報を漏らしただけで罰せられるならば、取材を受ける方もする方も萎縮(いしゅく)しかねない。つまりは、報道の自由、国民の知る権利を妨げることになる。
 さらに疑問なのは、何が「防衛秘密」なのか、その基準があいまいなことだ。このまま厳罰化が進めば、政府は都合の悪いことは何でも隠せることになってしまう恐れがある。
 今回の拙速な処分は、こうした国民の知る権利をめぐる懸念に対して、あまりに配慮が足りない。
 そもそも、中国の潜水艦が事故を起こしたことは、周辺海域の航行の安全を考えれば、むしろ国民に明らかにしてもいい情報ではないか。
 ところが、日米間では軍事情報の共有化が急速に進み、米側は機密保全を強く求めている。防衛省は米軍の意に添うことを重視するあまり、日本側にとっての公共の利益を軽んじた面はなかったろうか。
 国防の根本は、自由で開かれた日本の民主主義体制を守ることだ。そのための自衛隊がむやみに「防衛秘密」を肥大化させ、結果的に民主主義の基本である国民の知る権利を制約するようでは、本末転倒である。
 米国でも、軍事に関する情報の漏洩(ろうえい)をめぐって、政府の利益か、国民の知る権利かで激しい論争が繰り広げられてきた。
 たとえ政府が隠そうとしても、国民が知るべき情報を探りだし、明らかにするのは報道機関の責務である。今回の事件を通じて、その責任の重さを改めて痛感する。
 読売新聞が結果として情報源を守れなかったのは極めて残念だ。報道には、それにふさわしい自覚と厳しい自己点検が伴わなければならない。

 自衛隊法で機密漏洩に関する規定を参照すると以下のとおりで
第96条の2 防衛大臣は、自衛隊についての別表第4に掲げる事項であつて、公になつていないもののうち、我が国の防衛上特に秘匿することが必要であるもの(日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法(昭和29年法律第166号)第1条第3項に規定する特別防衛秘密に該当するものを除く。)を防衛秘密として指定するものとする。

別表は以下のとおり
別表第4(第96条の2関係)
1.自衛隊の運用又はこれに関する見積り若しくは計画若しくは研究
2.防衛に関し収集した電波情報、画像情報その他の重要な情報
3.前号に掲げる情報の収集整理又はその能力
4.防衛力の整備に関する見積り若しくは計画又は研究
5.武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物(船舶を含む。第8号及び第9号において同じ。)の種類又は数量
6.防衛の用に供する通信網の構成又は通信の方法
7.防衛の用に供する暗号
8.武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物又はこれらの物の研究開発段階のものの仕様、性能又は使用方法
9.武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物又はこれらの物の研究開発段階のものの製作、検査、修理又は試験の方法
10.防衛の用に供する施設の設計、性能又は内部の用途(第6号に掲げるものを除く。)

 防衛機密として
3年前に中国海軍の潜水艦が南シナ海で事故のために航行不能になっていること
がどれに該当するのか・・・・正直分からない。
 3・5は該当する可能性があるが、自国の武装ではなく他国の武装情報であり、軍事同盟関係である中国ではないのだから、機密に該当するとは思えない。
 他の機密の可能性があるかもしれないので、防衛省にアクセスしてみたが
「中国潜水艦の動向に関する防衛秘密の漏えい事案の懲戒処分について」が別表のどこに該当するのか?判明しない。
ただ、文面に「当該行為は、防衛省・自衛隊の秘密保全の在り方に対する信頼を著しく損ねるものであり、部内外に及ぼした影響等を総合的に勘案し、当該隊員について、平成20年10月2日付で「免職」の懲戒処分を行った。」とあるが、自衛隊法に
第122条 防衛秘密を取り扱うことを業務とする者がその業務により知得した防衛秘密を漏らしたときは、5年以下の懲役に処する。
とあり、どうやら、機密漏洩だけでの罰則とは限らないようである。
自衛隊法においての懲戒処分は
第46条 隊員が次の各号のいずれかに該当する場合には、これに対し懲戒処分として、免職、降任、停職、減給又は戒告の処分をすることができる。
1.職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合
2.隊員たるにふさわしくない行為のあつた場合
3.その他この法律若しくは自衛隊員倫理法(平成11年法律第130号)又はこれらの法律に基づく命令に違反した場合
とあり、本件は、機密漏洩による懲戒処分ではなく、46条に該当するという処分と解するのが妥当かもしれない。
 ちなみに、朝日新聞は
 政府の職員が報道機関に情報を漏らしただけで罰せられるならば、取材を受ける方もする方も萎縮(いしゅく)しかねない。つまりは、報道の自由、国民の知る権利を妨げることになる。

 というが、論理的な結論とは思えない。
 あくまでも、情報漏洩した自衛官が罰せられるだけであり、取材する側は傷つかないのである。
メディアのスクープ合戦・破廉恥な囲み取材・ヒステリックな待ち伏せ取材など不健全なマスコミの行動を見る限りは、
萎縮するとは思えないし、萎縮したような報道姿勢があるとは思えない。
報道の自由・国民の知る権利の妨げになる可能性は、萎縮する必要性のある自衛官などの公僕であり、マスコミに大きな影響があるとは言い切れない。
 ただ、朝日新聞が
さらに疑問なのは、何が「防衛秘密」なのか、その基準があいまいなことだ。このまま厳罰化が進めば、政府は都合の悪いことは何でも隠せることになってしまう恐れがある。  今回の拙速な処分は、こうした国民の知る権利をめぐる懸念に対して、あまりに配慮が足りない。
中国の潜水艦が事故を起こしたことは、周辺海域の航行の安全を考えれば、むしろ国民に明らかにしてもいい情報ではないか
という意見には否定する余地もなく、本件が機密性に該当するという防衛庁の判断は理解しかねる。
国防の根本は、自由で開かれた日本の民主主義体制を守ることだ。そのための自衛隊がむやみに「防衛秘密」を肥大化させ、結果的に民主主義の基本である国民の知る権利を制約するようでは、本末転倒である。

 日本国の国防の根本は、「自由で開かれた日本の民主主義体制を守ること」とは遠大な話。
国防はあくまでも「国民の生命・財産を守るもの」が原則であり、付帯的に「民主主義体制」が入る程度だろう。優先順位としては、朝日の主張は理解の精度を疑う。
 機密の肥大化と「知る権利」はディレンマを抱える問題だが、実際専門家でもない限りは、機密性の程度は測れないのも現実だろう。
 問題は機密と判断するガイドラインをもう少し精密にする必要性があると思える。
 前述した別表ではあまりにも曖昧すぎる。
 冥王星さんなら、一般法としての自衛隊法基準・軍法としての自衛隊「法規」と整合性を保てる環境整備・・・と言うだろう。
 ある程度、信用できる機密性判断と基準を早急に策定する必要性があるだろう。
読売新聞が結果として情報源を守れなかったのは極めて残念だ。報道には、それにふさわしい自覚と厳しい自己点検が伴わなければならない。

 確かに守れなかったのは、読売の甘さだろうが、いくらなんでも処分が早すぎるという気はする。
では、一方で読売の該当社説
 いかなる場合も取材源を秘匿しつつ、国民に伝えなければならない情報は的確に報じる。その原則を改めて確認しておきたい。

 他人事じゃないのに、冷静な読売さん・・・ちょっと反省してください。
ただ、社説として重要な付記があるので引用。
沖縄返還をめぐる外務省機密漏洩事件で、最高裁は1978年、「正当な業務」と認められる取材手法について、「真に報道目的で、法秩序全体の精神に照らして相当だと社会通念上認められるもの」との判断を示した。

そういえば、そういう司法判断があったことを思い出した。冥王星さんのメルマガに判決内容についての見解があったので、引用すると
西山事件の真実は、世論操作で政治側の逆襲という結果になったが、報道の「知る権利」の追求の権利が認められたと言い難い部分がある。
 しかし、法治主義国家としての日本の国内法を考えれば、違法行為を糾弾するために違法行為を行うことを免罪することはできないものであり、配慮の余地はあれども、日本の法体系で考えれば、司法判断の妥当性を認めるしかないだろう。
 この事件は、事件としては、グリーンピースの横領証拠の窃盗事件と同じであるが
西山事件はスキャンダルな報道展開を生んだ意味では、同じマスコミで足を引っ張る傾向があった部分もマスコミは反省したほうがいいだろう。
 本件に関しても旦那に意見を聞くと
ポツリと
「おまえ、判決文読んだか?司法判断が総てだ。弁護士の法解釈の判断はあくまでも弁護士の解釈であって、法解釈・法を判断する最高権力者は司法権の絶対的権限。
その付託前提で社会が構成されている以上は、俺は従うしかない。納得できないというほどの論理武装ではないから、俺は受け入れる」
とのこと
そこで、私が可愛がっている新人君によれば一番世間的に判断の余地がある文言を提示してくれた
 西山事件最高裁判決
沖繩返還協定に関する会談の概要が記載され、その内容は非公知の事実であるというのである。そして、条約や協定の締結を目的とする外交交渉の過程で行われる会談の具体的内容については、当事国が公開しないという国際的外交慣行が存在するのであり、これが漏示されると相手国ばかりでなく第三国の不信を招き、当該外交交渉のみならず、将来における外交交渉の効果的遂行が阻害される危険性があるものというべきであるから、本件第1034号電信文案の内容は、実質的にも秘密として保護するに値するものと認められる。

右電信文案中に含まれている原判示対米請求権問題の財源については、日米双方の交渉担当者において、円滑な交渉妥結をはかるため、それぞれの対内関係の考慮上秘匿することを必要としたもののようであるが、わが国においては早晩国会における政府の政治責任として討議批判されるべきであつたもので、政府が右のいわゆる密約によつて憲法秩序に抵触するとまでいえるような行動をしたものではないのであつて、違法秘密といわれるべきものではなく、この点も外交交渉の一部をなすものとして実質的に秘密として保護するに値するものである。

報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでないことはいうまでもなく、取材の手段・方法が贈賄、脅迫、強要等の一般の刑罰法令に触れる行為を伴う場合は勿論、その手段・方法が一般の刑罰法令に触れないものであつても、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躪する等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合にも、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるものといわなければならない。

以上の文章を否定できるほど、西山記者の取材が正当な行為とは判断しかねる。
異論はあるだろうが、私も西山事件の司法判断の妥当性を感じてしまう。
 そこで冥王星さんの文章を引用
「仮に国家の不当行為という判断を行った個人が、それを究明する正義を持ち出して、違法行為を行えば、各人が免罪されることを想定して、違法行為を行ってしまうからこそ、違法行為の証明のために違法行為を行うことを免罪としないわけであり、西山記者の行為は違法行為と判断する余地がある。
それを国家という巨大な権力のブレーキーのためという大義名分で免罪化すれば、今度は、個人という巨大な権力が暴走した時に社会統制・管理権限をもった国家がブレーキーにならなくなる。
最後には、リヴァイアサンよろしく万人が他人を疑い、その疑いを立証するために暴走する世界になるだろう。
 共産主義社会の秘密警察組織が跋扈し、各自の自由権を各人が統制・管理する現代社会であれば問題はないが、個人の権利権限を正当化・補完するのは、国家もしくは地域などの社会単位の暴力である以上は、その暴力の信託の象徴である法律を重んじるのが近代社会の理性だろう。
 その近代社会の理性は民主主義の民意の暴走によって崩壊しつつある。
 悪法も法であり、悪法ならば法とした改めるという作業を経ない暴力的な民意が跋扈する現代社会には法律の効果は希薄化する。
 最後に民主主義が残すのは、マジョリティバイオレンスであり、サイレントマイノリティの正義は「正義」ではなく「偽善」として消滅を余儀なくされるのかもしれない。


イヤな言説ですが、冥王星さんの妄想予言は案外、外れないことで有名です。
当人は、預言者めたい言動を恥じているみたいですが・・・・

さて、今回は、西山事件単体で取り扱いしてもいい話ですが、機会設けて別に記事をやると思います。
冥王星さんと共著でw

作者:冥王星

更新日:2008年10月4日 12時47分

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国際情勢の小言

 入院している間に、かなりの本を読んだので、暇があれば冥王星さんに喧嘩を売っているアシスタントSです。
 昨晩喧嘩したのが「刀狩りと非武装平和論の幻想」という趣旨です。
そのうち、冥王星さんと喧嘩した過程を記事しますけど、先に簡単に趣旨だけ
・豊臣秀吉の刀狩りは政治的なものでしかなく、実体的には、農民の非武装化はできなかった
・江戸時代は継続的に「刀狩り」状態ではなく、惣村としての自衛権として武器の所持は可能だった
・江戸時代の百姓一揆は町人の打ちこわし運動と違い刀剣・飛び道具を使わない民衆の政治闘争だった
・幕末以後発生する農民の蜂起は武器の使用が見られ、明治の「廃刀令」はあくまでも帯刀の禁止であり、刀剣の所持の禁止ではない
・GHQ体制による民間武器の没収が初めての日本の非武装であり、それも刀剣の美術的価値を尊重し、狩猟の必要性から銃火器は許可制であり、完全なる非武装とは程遠い
つまり、

日本の町民・農民などの被支配者階層は、刀狩りから、暴力蜂起という市民革命の手段を奪われたというのは間違いであり、実体としては市民革命の必要性を有しないまま現代に至っている。もしくは、市民革命を市民が必要としなかったという判断が可能である。
(米騒動などについては、言及は例外として)

という見解で論争しています。少し押し気味なのでこのまま、押し切りますw
話が逸れました。本当は「国際情勢」の話をしたかったので戻ります。


 最近、インド・パキスタンでの自爆テロ、テロと思われるものが、アルカイダの犯行として挙げられています。
 バングラデシュとの国境線近くで起きているそうで、インドは周囲が全面的に危機的状況です。
北は、ネパールの毛派政党
南は、タミル人・セイロン闘争
西はパキスタンとカシミール問題・アルカイダ
東は、バングラデシュ移民・アルカイダ
どうもインドの周辺がきな臭いのですが、大きく報道されません。
「米印原子力協力協定」承認法案の方向性で、NPT体制が激動していますし、どうもインドは不安要素が増えています。
 どうも、最近の世界経済の動向は、政治が足を引っ張る局面が多く見られます。
 今回の米国下院の「公的資金投下」についても、予想外の結果で、この原因に大統領選があるようで、不安要素を政治が加速化させている側面が多いのではないでしょうか?
 それはそれとして、ちょっといい話を
ロシア最後の皇帝、ニコライ2世の名誉回復…露最高裁
【モスクワ=森千春】ロシア革命翌年の1918年、ボリシェビキ(のちのソ連共産党)勢力によって銃殺された最後のロシア皇帝、ニコライ2世とその家族について、ロシア最高裁は1日、「根拠なしに迫害された」と判断し、名誉回復するとの裁定を下した。
 皇帝の家系であるロマノフ家の子孫たちが起こしていた名誉回復の訴えを認めたもの。
 ロマノフ家の事務局代表は、「90年前の犯罪が指弾されることは大切だ」と歓迎の意を表した。ニコライ2世はロシア革命で皇帝の座を追われ、1918年7月にアレクサンドラ皇后と5人の子どもとともに、ウラル地方のエカテリンブルクで、裁判を経ずに罪状もないまま銃殺された。90年代初頭のソ連共産体制崩壊に伴い、ロシアでは遺骨発掘など銃殺の真相究明が進められ、今年7月には最後まで不明だった皇太子と第3皇女の遺骨が確認された。

 歴史の大津波の被害者ニコライ2世の名誉回復とは今更ながらビックリです。
 ロシアには時効制度がないのでしょうか?と少し不思議にも感じますが、日本も横浜事件・百人斬りなど自国内で名誉回復するためのシステムがあってもいいような気がします。
 冥王星さんが横浜事件は発言が多いので、参照されるといいでしょうが、裁判で誰かが傷つくわけではなく、名誉が回復されるならば、時効もなくてもいいように思います。
 ボリシェビキもせめて、「形式的にも裁判やれよ」というのが私の感想です。

ダラダラ書いてますけど、世界金融不安・政局の影で世界は動いています。
特にアジア地域は激動の様相ですので、国際情勢も留意しないといきなり「通貨危機」なんて可能性もなくもないです。
 今、インド通貨のルピーがヤバイかもしれませんよ(こういうことを書くと「預言者か!」と責められんですけどね)
  
 

作者:冥王星

更新日:2008年10月3日 18時57分

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朝日新聞社説より

 私の記事がしばらく続きますが、カテゴリー「アシスタントS寄稿」は私の作成記事なのでよろしくです。

 冥王星さんが橋下弁護士の話題をやっているので、私も追随して朝日新聞社説を
冥王星さんの橋下さん記事

・橋下TV発言―弁護士資格を返上しては 
歯切れのよさで人気のある橋下徹・大阪府知事のタレント弁護士時代の発言に、「弁護士失格」といわんばかりの厳しい判決が言い渡された。
 山口県光市の母子殺害事件をめぐり、橋下氏は昨春、民放のテレビ番組で、少年だった被告の弁護団を批判し、
「弁護団を許せないと思うんだったら懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけた。
 その発言をきっかけに大量の懲戒請求を受けた弁護団が損害賠償を求めた裁判で、広島地裁は橋下氏に総額800万円の支払いを命じた。
 判決で「少数派の基本的人権を保護する弁護士の使命や職責を正しく理解していない」とまで言われたのだから、橋下氏は深く恥じなければならない。
 この事件では、少年は一、二審で起訴事実を認め、無期懲役の判決を受けた。だが、差し戻しの控訴審で殺意や強姦(ごうかん)目的を否認した。
 少年の新たな主張について、橋下氏は大阪の読売テレビ制作の番組で、弁護団が組み立てたとしか考えられないと批判した。弁護団の懲戒を弁護士会に請求するよう呼びかけ、「一斉にかけてくださったら弁護士会も処分出さないわけにはいかない」と続けた。
 こうした橋下氏の発言について、広島地裁は次のように判断した。
 刑事事件で被告が主張を変えることはしばしばある。その主張を弁護団が創作したかどうかは、橋下氏が弁護士であれば速断を避けるべきだった。発言は根拠がなく、名誉棄損にあたる――。きわめて常識的な判断だ。
 そもそも橋下氏は、みずから携わってきた弁護士の責任をわかっていないのではないか。弁護士は被告の利益や権利を守るのが仕事である。弁護団の方針が世間の常識にそぐわず、気に入らないからといって、懲戒請求をしようとあおるのは、弁護士のやることではない。
 光市の事件では、殺意の否認に転じた被告・弁護団を一方的に非難するテレビ報道などが相次いだ。そうした番組作りについて、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は公正性の原則からはずれるとして、厳しく批判した。
 偏った番組作りをした放送局が許されないのは当然だが、法律の専門家として出演した橋下氏の責任はさらに重い。
 問題の発言をきっかけに、ネット上で弁護団への懲戒請求の動きが広がり、懲戒請求は全国で計8千件を超える異常な事態になった。
 橋下氏は判決後、弁護団に謝罪する一方で、控訴する意向を示した。判決を真剣に受け止めるならば、控訴をしないだけでなく、弁護士の資格を返上してはどうか。謝罪が形ばかりのものとみられれば、知事としての資質にも疑問が投げかけられるだろう。

 社説のタイトルと文末に
「弁護士の資格を返上してはどうか。謝罪が形ばかりのものとみられれば、知事としての資質にも疑問が投げかけられるだろう。」とは過激だと感じられる。
 弁護士としての軽挙は咎められる部分はあるが、控訴したということは、納得していないわけであり、三審制を前提として今後の司法見解を待って判断するべきだろう。
 朝日新聞の指摘は、否定の余地がないのだが、さすがに、表題からして過激ではないだろうか?
 同時に、まだ結審していないにも関わらず、謝罪の言葉を口にするだけ、公人としては評価する余地があると思われる。
 世間のヒスを煽った道義的責任は、橋下知事も弁護士仲間から問われていて、
私の旦那(=弁護士)曰く
今更、弁護士活動するにしても、大きな弁護活動の依頼は来ない。
テレビに出ている弁護士なんてのは、事務所でも暇を抱えている部類か、政治活動に魅力を感じているか、の部類でしかない。
 橋下弁護士を「弁護士」として認めるような同僚は、俺も知らないし、彼を弁護士だと思うことはしばらくないだろうね。
 オウムの横山弁護士みたいな売名弁護士が増えている一方で弁護士・法曹界の質が落ちている現状では、彼のような弁護士が増えるだろう。
 このまま、政治家の道へ行った方が彼のためだと思うけどねぇ

とのことである。
つまり、「弁護士・法曹界から締め出されたから政治家になったかもしれない」とのことだ。
 旦那も挙げている西村眞吾弁護士なども弁護士として、悪い噂が絶えなかったこともあり、政治家として表舞台に立ったような感じがあるそうだ。
 私は詳しく知らないが、弁護士である旦那の見方の話である。
 一方、事務所の弁護士によれば、
テレビみたいな華やかな世界で活躍したい、という気持ちはあります。
毎日毎日、地道に書類と睨めっこ・依頼人と睨めっこで、楽しいことはないですからね。
弁護士のイメージでは裁判で華麗に検察官と激論を交わすようなイメージがありますけど、実態は限りなく地味。
 テレビに出て、法解釈を持論として挙げる方が楽しいし、弁護士らしく見えますからね。
僕なんか、コンビニ立ち寄っても、弁護士とは思われないでしょうね

との話。
また一番下っ端で新人の弁護士曰く
僕は、民意やメディアスクラムから被告や原告を法的に救済するために、弁護士になったので、橋下弁護士のやってることは、怒りを感じました。
 でも、弁護士も人の子なので、ああいう言動しちゃうのも仕方ないと思うんです。
 橋下弁護士が刑事事件を担当したことがないとは思えないですけど、刑事訴訟を経験して、少しでも社会正義についての法解釈の難しさに葛藤やディレンマを抱えていれば、あんな発言はしなかったと思います。
 結局、彼は民意を使って同業者の足を引っ張る活動をしたわけで、同じ弁護士という仕事を持つ人間としては、許せません。

 とのことである。
弁護士でもない私には弁護士の倫理感は理解できないが、弁護士に求めるものはそれなりにある。
 被告側の弁護士を庇うことは私はないが、橋下弁護士の行為は配慮がない行為として、反省してもらいたい。
 法的理論で生きるべき弁護士が、情動に流されてしまった。情動を優先してしまったことへの反省と共に、弁護士ではなくとも、情動に流されないようにすることを留意したいものである。

 しかし、冥王星さんは暇を持て余しているのだろうか?
トラックバックするが、わざわざこの問題で二つも記事を書いている。
そこまで重要視するような問題とは思えないが、危機感が薄いと感じるべきか・・・・・・

作者:冥王星

更新日:2008年10月3日 18時21分

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冥王星は「論題はそこなのか?」で活動します(予定)

 アシスタントSが本格復帰ということなので、冥王星当人は、メルマガのブログの更新をがんばろうと思います。
 実は「論題はそこなのか?」ではリンクしてませんが、メルマガ同志が正式にブログを立ち上げたらしくたまに見に行ってます。
 残念な話ですが、英語がほとんど論文調なのでご紹介に耐えません。
 しばらくは、冥王星・アシスタントSの駄文で我慢してください。
 そもそもメルマガ連中の文章に耐えられる閲覧者はこのブログを見ないと思いますのでw
(それだけ、このブログは低俗なのだがw)


 冥王星個人は今年の夏は大きな人生の転機かもしれない選択を乗り越えて、ここにいます。
 実は、あるハト派政治家さんから、米国のジョージタウン大学への留学を薦められました。
 ジョージタウン大学は、アメリカ政治でも政策・実務担当者の登竜門で、アメリカの優秀な官僚はイェール・コロンビア・ハーバードなどの一般的認知度の高い有名大学の卒業生はあんまりいないのが現実ですが・・・
 冥王星は英語が苦手です。喋れません。ドイツ語は日常会話を多少できる程度ですが、
「7年向こうで勉強してこい」
と言われても、正直その気はありませんでした。
勉強会に参加させてもらったり、色々便宜を図ってもらった経緯もあり、断りずらい部分もありましたが
冥王星個人は、政治実務派ではなく、歴史家でありたいのでお断りしました。
「とある方」に相談した時には、「俺が代わりに行きたい」と言われましたが、本当に冥王星よりも、その人が行ったほうがいいと思ってます。
 別に後悔していません。
 さて、アシスタントSが復帰したということは、逆に言えば、冥王星は活動自粛できるという意味もあります。
 現状、またしばらく「冥王星は小惑星なり」の投稿は自制して
「論題はそこなのか?」に心血を注ごうと思っています。
 コメントなどは対応させていただきますが、当面は、アシS(アシスタントS)が管理責任者になりますので、ご了承ください。

2008年10月2日 冥王星

テンプレなど冥王星の責任管轄のものは、引き続き対応します。

作者:冥王星

更新日:2008年10月2日 15時57分

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麻生内閣発足から見る民主党支持者の醜態

 こんにちわ。帯状疱疹から無事退院しまして復帰しました。アシSです。
帯状疱疹の話をする前に、麻生総理に関して私個人として一言。
麻生総理が
「対話側のハト派総理に化ける」可能性を考えるとウキウキしてきます。
 安倍総理もタカ派政治家と目されていましたが、実務につくとトタンにタカ派の限界を痛感してしまう現状に、ハト派の私は笑いが止まりません。


話は変わって、国会論戦ですが、
”民主党が対話を拒否し、国会を侮蔑した”ことを以前も指摘しましたが、それについて麻生総理は明確に所信表明で批判しました。
 これは行政責任者として当然、糾弾するべき問題であり、糾弾しない民意にも問題があると思います。
 時同じくして、麻生総理の所信表明の民主党支持者の受け止め方は面白そうな話題だと思います。
 今回の素材は、そういう意味では民主党支持者の妄言・妄想を列記できたように思います。
今回は、私が入院中にいただいたメールの要請を元に、
・意見として明らかに理論的問題がある
・矛盾を抱えている
そんなブログについて、明確な対論と糾弾。批判を行いましょう。
先立って指摘しますが、この人がこの記事に対決・対論するようなことはおそらくないと思います。
 それが民主党のやり方でありますし、支持者も「黙っている方が優位」という認識で
悪意と偏見に塗れた見解を正当化してしまう。

というのが民主党支持者の体勢だと思います。
今回のオカズは「カナダde日本語」の所。
民主党支持者のブログです。
「政策実現よりも政権交代」という『手段と目的の履き違え』の代表例です。
私は、”思想実現を政治目的化した政治思想家”・”手段と目的をすり替える人種”を、「目的亡失者」と評して、侮蔑の対象にします。
 政治の目的はあくまでも
「より多くの人民の幸福の実現です」

思想・政策は政治目標を実現するための手段にすぎません。
この「カナダde日本語」という盲目的民主党支持者が
稚拙な文章・政治認識・政治知識、そして偏見性

をもっていることをこの記事で立証・証明して、民主党支持者の持つ近視眼・被害妄想を例示します。

麻生太郎の所信表明と国連総会演説(YouTube)という記事で説明します。親記事は引用しつつ、説明します。
それにしても、中身のない、民主党に喧嘩を売るだけの、首相の所信表明らしくない演説だった。普通、所信表明演説っていったら、これから与党が何をしていくかを国民に伝えるものなのに、自民党らしく、国民や弱小野党は一切無視して、民主党の小沢一郎代表に挑戦状をつきつけるのが主な目的だったような内容だった。このことからも、自民党がいかに政権交代が起こる事をビビりまくっているかがわかる。


<民主党に喧嘩を売るだけ>
 「喧嘩を売る」ことが不当ではないし、それは議論の上では価値のないことではなく、価値を生み出せる行為である。
 むしろ、対決さえしない国会の方が異常と考えるべきである。
 国会は議論の場であり、論争・議論・対話・協議は喧嘩の側面をもっている。
 「相互に政策論を展開する」という立場である自民党・民主党の両者は国会で疑似的な喧嘩を行うものであり、「喧嘩を売る」は決して不当な行為でもない。
 ”文句だけを並べて・代替論・対案を述べない・グダグダと行政批判している」だけの民主党は、対論さえできない議論の逃避者という取扱いが可能であるし、その結果論を残している。
 喧嘩を売るような行為を批判する意識からして、国会論戦からの逃げであり、議論で合意形成を目指さない民主議会の最低の行為である。それを民主党は正当化してきているのである。
 以上の状況から鑑みて
 「喧嘩を売る」ような発言をしないと審議にならない・政策論争ができない、という麻生総理の見解には一定の合理性があるのは明白だろう。
 むしろ、国会立法府の正常化のために、汚名を着たという可能性さえ麻生総理に与えられる可能性もある。

<与党が何をしていくかを国民に伝えるもの> 
 首相の所信表明演説は、「与党が何をしていくかを国民に伝えるもの」ではない。
 所信表明演説は、「「内閣」」が行うものであり、与党からも質問が提示されるものである。
 所信とは「信じている事柄。信ずるところ」であり、麻生総理の所信表明が”所信”ではない、と断定でいきるものではない。
 斬新。個性的な所信演説ではあるが、単なる感情論で総理の言動を否定するだけでは、感想文に過ぎない。既存の所信表明から時代の変化によって発生した所信表明演説とも解釈できるだろう。
 (認めるつもりはないが、これが「二大政党制」の議会の論議の在り方であろう。」

<国民や弱小野党は一切無視して」>
 これこそ民主党支持者に問うべき問題だが、
「二大政党制を掲げる」民主党支持者こそ、少数政党を無視する政治思想で出来上がっている。
 二大政党制には、第三局政党は存在しえないはずだ。民主党自身が「二大政党制」の実現を目指した政党でもあり、支持者もそれに追随しているのである。
 自民党は必ずしも二大政党制を希求しているわけではない。
 同時に、少数与党の発言権を奪うように、国会の審議拒否を煽り、共産党・自民党の国会審議を阻害した政党・その支持者が
「国民や弱小野党は一切無視して」

と言える立場であろうか?
 国民を無視している意味では、後期高齢者医療制度の審議拒否などは民主党の無責任さの象徴であろう。

<自民党がいかに政権交代が起こる事をビビりまくっているかがわかる。>
 冷静にこの言動を考えてみてほしい。
 この言動は民主党支持者の醜態を象徴するだろう。
 支持者は政権交代が目的として第一義と議論・政策論は蔑ろになる。
だから、このような感想を抱くのだろう。
公平性のある有権者ならば、
・「麻生総理は議論と求め民主党を挑発している?」
・「麻生総理は民主党に政権担当能力がないことを国会で明確化させたいのか?」
という政局的視座ではなく、国会審議という第一義の側面の感想を抱くはずだろう。
偏見に満ちた民主党支持者の歪んだ政局優先の感想は、明らかに、
「政権優先・公約実現二の次の姿勢」が露呈している。

 所信表明演説の全文で民主党を名指しした案件は多い。
 そこに内閣としての所信がなかったわけではない。
 所信があるからこそ、対論するものを提示しろ、と対論を要求しているに過ぎない。
 同時に、そもそも、”所信演説では政権交代に関する発言は一つもない”。
 つまり、この感想は、所信表明演説から発生した身勝手な解釈から導かれた感想にしか過ぎないのである。
 では、麻生総理が所信で民主党に何を求めたか?
 「政策論争である。」
 今、細田幹事長が代表質問をしている。
 所信表明演説に対して、代表質問は回答さえできなかった。
 質問する側が回答するという異常事態であるにしても国会は対話・議論の場である。別に機会でもいいから、小沢総理は「所信表明演説の質問の回答」を行うべきではないだろうか?
 現状。その回答の予定もない。
 これが民主党の対話・議論の方策であると国民に知らせることになったように感じる。
とんでもないことに、自民党内で29日、衆院の早期解散に反対する署名運動が始まったそうだが、安倍と福田の二人の首相が2年連続で首相の座を投げ出したことへの反省は全く見られず、多くの国民が今何を求めているのか全くわからないKYな議員の集まりであることを証明したのも同然だ。麻生の演説でも感じられた事だが、自民党議員に自分たちが国民を不幸にしたという実感が全くないのは、まさに驚くべきことだ


<(自民党に)安倍と福田の二人の首相が2年連続で首相の座を投げ出したことへの反省は全く見られず>

  細田幹事長が皮肉を込めた話だが、
小沢党首が政権与党担当した時代にはもっと問題ある総理を国民は経験した。
 細川内閣・羽田内閣である。この二人で合わせて13か月の任期もないのである。

 安倍内閣・福田総理でおおよそ23か月である。
 安倍総理は、病気の問題で政務を移譲したものであり、福田総理とは違うし、福田総理の辞任に関して言えば、審議拒否などを含めて政治的停滞の責任を取っての辞職である。
それに比肩して新進党時代の、細川総理の辞任の理由は未だに不明である。世間的には「疲れた」という認識さえある。
  細川・羽田内閣と比肩してどれだけ安部・福田総理が「投げ出し」と言えようか?
 議院内閣制度といえども、与党は総理の責任を全て負うものではない。
 総裁・総理の辞任は、自民党党内でも被害者があるのであり、自民党も被害者である。公明党も被害者だろう。
 新生党・新進党時代も反省していない小沢党首をいただく民主党にこのような批判を行える立場だろうか?
 故事成語「五十歩百歩」という言葉があるが、自民党・民主党の政権責任などは同じことである。
< (自民党は)多くの国民が今何を求めているのか全くわからないKYな議員の集まりである>

 結論からすれば、現在の世論調査では民主党に政権を担当させようという民意は少数である。
 この結論は、民主党も<多くの国民が今何を求めているのか全くわからないKYな議員の集まりである>という評価にも帰結するものであろう。
 それとも、「審議拒否などは、民意の求めで行った」というなら、どこの異常者の民意をくみ取ったのだろうか・・・・
 民主党支持者は己の正義のためには、”議論の場の国会”でも議論さえしない。
 議論しないだけならまだマシであった。民主党若手は河野議長の入場阻止を行う凶行に出た。
 河野議長が国会の尊厳のために騒動を鎮静化させた結果、入場阻止の問題は大きく取り扱われなかったが、これは、議会制民主主義の根底をブチ壊す民主党だけが行った憲政の非道・外道・無道の行為である。 民主党は、国民が国会に議論を求めていないと感じているのだろうか?

<自民党議員に自分たちが国民を不幸にしたという実感が全くないのは、まさに驚くべきことだ。>

 不幸にしたという認識は個体差がある。
そもそも、「民主党が政権奪取していれば、もっと酷いかもしれない」と思っている人も少なからずいるだろう。
 逆に聞くが、民主党は責任がないというのか?ないはずがない。
 仮に不幸と感じるなら、その責任は行政にも立法にもあるし、国民にもあるだろう。
 責任感のある政治家ならば、「こういう法案を可決させてしまった自分に責任がある」と野党でも思うことだろう。それが民主党にあるという判断はできない。
 同時に、自民党議員はあくまでも立法の責任を主体的に負う立場である。これは民主党議員も同じことである。
 主体的に政治的影響が直接的にあるのは、行政従事者であろう。
 責任の基本は、内閣・地方自治体首長であり、自民党に行政責任を押し付けるのは、正当性がないし、
単なるクレーマーに過ぎない民主党にも行政監視が不十分だった責任があるはずだが・・・
例えば、経団連のポチ、小泉の規制緩和で、外資系企業が台頭し、又、国民が支払った消費税を大企業の法人税に充てることによって、上場企業と外資は儲かったが、一般会社員の給与は下がり続けている それとも、影の内閣は行政監視・対案を作れない「似非シャドウキャビネット」なのだろうか?
小泉政権の構造改革や規制緩和で、地域格差が拡大され、失業者や自殺者も増えた。こういった小泉政権がぶっ壊した日本経済や雇用問題を全く反省もせず、ただ民主党にいちゃもんをつけるというのは、まるでヤクザのようだ。


<例えば、経団連のポチ>

 小泉政権時代に山ほど経団連との不一致がある
 ポチであるのではなく、利害の一致でしかない。
そもそも、行政と財界には上限関係などない。法的管轄権限の関係でしかない。
 日本はアメリカの犬と同じような感覚的見解は稚拙でしかない。
 同盟は対等であるべきだ、という妄想も同じようなものである。
理想論の政治で現実を見つめられない民主党に政権担当能力があるとは・・・・
<外資系企業が台頭>

 経済のグローバル化から巨大資本の台頭は当然である。
 これは資本主義としての必然性の側面もあるが、日本だけではない世界的傾向であり
 日本だけ外資を排斥することは、日本の政治・経済環境上、不可能である。

<消費税を大企業の法人税に充てることによって、上場企業と外資は儲かったが、一般会社員の給与は下がり続けている>

 「上場企業と外資は儲かったこと」と「一般会社員の給与は下がり続けていること」は論理関係がない。
 むしろ、”儲かっているならば、給与はあがるべきではある”、という批判であるべきだろう。
 そもそも、”消費税を大企業の法人税に充てた”わけではない。そのような事実は存在しないものであり、事実誤認である。

<こういった小泉政権がぶっ壊した日本経済や雇用問題を全く反省もせず、ただ民主党にいちゃもんをつけるというのは、まるでヤクザのようだ。>

 小泉総理は日本経済のシステムを部分的に変化させる行動はした。しかし、その変化は小泉時代に全て決定されたことではない。
 派遣に関する法律は、新進党時代、小沢幹事長時代に部分緩和している。
 同時に民主党は、派遣業法の規制緩和に反対した立場ではないのだから、民主党も支持者も批判できる立場ではないだろう。
 仮に批判するとしても、現在の自民党が小泉政権から顕著化した格差問題に苦慮しているのである。それらは、規制緩和の結果論で発生したものだけではないだろう。
 そもそも、規制緩和に関係する法案を民主党も反省していないのは、後期高齢者医療制度の審議拒否という行動で立証されるだろう。
 共産党は必至に審議を求め、他の野党と交渉しても、審議されなかった。
 反省していないのは、むしろ民主党だろう。
 そもそも、民主的議論さえ尊重できない民主党がヤクザという評価もできるが、自民党にヤクザという規定ができることが異常だろう。
 ヤクザがヤクザたりえるのは、彼らには法治主義のルールが効果を持たないなどの部分に大きな要因があるのだが・・・
 それだけの話でもない複雑なものが「ヤクザ」であるが、稚拙な民主党支持者はヤクザも国民も大差ないのだろう。

麻生が所信表明で行った異例の民主党への逆質問は、次の5つ。
1.ねじれ国会合意形成のルールの準備があるかどうか。
2.補正予算案成立の賛否。
3.地方道路財源を補てんする関連法案とその関連法案に対する賛否。
4.日米同盟と国連のどちらを優先させるのか。
5.インド洋での給油活動を継続させるかどうか。
どれも米国から圧力をかけられているとしか思えないような質問ばかり。こんな質問しかできないとは、本当になさけない。まず、国会でねじれがなぜ生じるかというと、自民党が国民の意志に反した法案ばかり成立させようとするからであり、民主党は国民生活を第一に考えてこれらの法案に反対しているのである。なぜ、これが、政局を第一義としていることになるのか。例えば、ガソリン税にしたって、国民は80%以上が廃止を求めていたではないか。それを自民党が道路利権のために廃止しなかったから、ねじれが生じたのだ。


<どれも米国から圧力をかけられているとしか思えないような質問ばかり>

 1・3について、アメリカが圧力をかける必要性もないだろう。
  アメリカとして要請するなら、4・5はあるだろうが、他はアメリカの国益にかかわらない問題点であり圧力があると思う根拠などないだろう。
 このような感覚が、単なる「反米妄想」と思われる。

<民主党は国民生活を第一に考えてこれらの法案に反対しているのである。>
 
 民主党は未熟な政党である。支持者も非常に未熟な有権者という感想になる文章である。
 「国民生活第一」といいながら、後期高齢者医療制度の審議を拒否し、生産性課題の残る非合理な農業形態に補助金を投下するのだろうか?
 当人だけが「国民第一」と言ってるだけである。
実情と民意は

民主党に政権担当させたくない
小沢党首を総理にさせたくない

という世論調査がある。それから目を背けるのが民主党支持者であろうか?
民主党支持者・民主党は、自分たちに都合いい人間以外は、国民ではない・・ということだろうか?
 視野狭窄な支持者と民主党を見ていると、「井の中蛙」を思い出す 

<ガソリン税にしたって、国民は80%以上が廃止を求めていたではないか。それを自民党が道路利権のために廃止しなかったから、ねじれが生じたのだ。

 民意がすべて正しいわけではない。民意は情報不足であり、妥当性のある政策・法律があるならそれを施行する権限が内閣には付与されているし、議員も民意に従属するものではなく、己の意志で政治判断する権限が与えられている。
 それとも、民主党はすべて民意を反映しているならば、小沢党首を総理として指名してはならないはずだが・・・・・
 このように都合のいい時だけ、民意を持ち出すのが民主党・民主党支持者の欺瞞であり、卑怯さである。
 モノの見事に二重基準であり、その基準の統一性さえ党内で図れない。
 党内でも合意形成できない政党が民主党でもある。

つまり、自民党こそが、政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始していることがわかるだろう。民主党を批判しているつもりが、実際は自分たちの悪事を晒す結果になっているというすばらしい演説である。


<自民党こそが、政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始していることがわかるだろう。>
 「バラ捲き」という批判の論拠は”中日新聞の主観”でしかない。
 そもそも税金システムは、所得の再分配であり、本質的には「バラ捲き」である。
 バラ撒きではない再分配方式など存在しないし、恣意的な批判でしかない。
 バラ捲きという批判の本質は、自分に利益が来ないことへの嫉妬の可能性もある。
 もっとも、中間離村への補助金が「ばら捲き」という批判の余地は多いが、民主党・支持者はそれも「バラ捲き」とは思わないのだろうが。
麻生内閣で財務相と金融担当相を兼任することになった中川昭一の経済政策については、
『池田信夫のblog』の「中川昭一氏のためのマクロ経済学超入門」が酷評している。


<『池田信夫のblog』>

 誰ですか?その人w
 ウィキペディアで調べたのですが、慶応出身の何が専門なのかさえ不明な経済学者ですが、その人が言ってるから、中川氏が異常と?
 私は学者さんを図る時に、所属シンクタンクや出版社で評価するが
 独立行政法人経済産業研究所で、優れた人を知らないし、NTT出版、日本経済新聞社あたりで著作を出している学者で評価できる人などいない。
 海外での評価もないようだ、博士(政策・メディア)の学位取得 ということは、畑違いを論じているだけの話だ。
 まるでソース元の信用性、実績も考慮に入れない話である。
 これが民主党支持者らしい傾向とも言えよう。
いくら自民党総裁と言っても、来月にも衆院解散が囁かれる中で、総選挙の結果いかんでは総理の座から転げ落ちる可能性のある地底人以下の最低人の麻生が日本で所信表明演説をする前に、国連総会へと向かい、所信表明を行ったのも異常だ。
まるで、日本よりも米国の方が大切であると言っているようだ。それにしても、国連での動画の最初の方で麻生が英語を話しているのだが、下品な英語を話す男だ。英語を第一言語とする人には、通訳なしには何を言っているかわからなかったに違いない。「オレ様は、国連で演説もできるんだぞ!」と日本国民に見せつけたかったのかもしれないが、自民党って、どこまでアフォーマンスがお好きなのだろう。


<日本で所信表明演説をする前に、国連総会へと向かい、所信表明を行ったのも異常だ。>

 何が異常なのだろうか?
 それに、国連総会演説は所信表明ではなく、「一般討論演説」である。国連の場所では麻生氏はあくまでもオブザーバー程度の立場でしかない。
 スケジュール上の課題で国連演説が先だっただけであるし、イラク派遣に関する国連決議・アフガン支援に向けての日本の立場を一般討論で主張することは、むしろ重要な行為だろう。
イラクのタラバニ氏との会談・日豪会議などの予定が当初からあるものである。
 温暖化に関するサミットの合意の報告会などの公務予定は福田総理時代にこなすべき政務でそれを麻生総理がはたして何が問題なのだろうか?
 そもそも、一般討論演説の機会は幾度でもあるわけではないし、並行して発生した「世界金融不安」に対する日本の経済施策の説明の責任を果たして批判される覚えはない。

<まるで、日本よりも米国の方が大切であると言っているようだ。>

 どこまで悪意解釈すれば気がすむのだろうか?
 国連はアメリカの利権代表の空間ではない。国際政治の舞台であるからこそ、麻生総理は、アフガン・イラクについて・経済不安という世界規模の問題について言明しただけのことだろう。
 すでに、世界は相互協調・依存・補完関係にあり、世界を考えればアメリカにぶち当たるだけである。
「犬も歩けば棒に当たる」ではないが「世界を考えればアメリカに当たる」は必然であり、当然である。

<麻生が英語を話しているのだが、下品な英語を話す男だ。>

 「カナダDE日本語」の文章を下品な文章と思う人からすれば、「五十歩百歩」だろう。
 ヘタでも英語で話す気概を評価してもいいと思う。国連という場所で母国語で語ることも重要だが、国連は国際協調の象徴性のある場所である。そこで、国連の公用語である英語・フランス語を駆使することは、当然である部分もある。
 ヘタだから英語を話すな、というなら、英語だけではなく、方言などはどうするというのか?
 英語だけではなく多くの言語には方言がある標準語と規定される言語もないのがほとんどである。
 言葉とは通じればいいものであり、それがどんなに醜かろうとと用途性が基本である。
 もっとも、自国の総理の名前を呼び捨てにするような日本語は、ヘタというよりも人間性の問題を過分に含む問題である。
 下劣な言葉を使用している当人が、麻生総理の言語の品位を論じているのも滑稽な話である。

<全体総括> 

 いかがだろうか?
 これほど醜い日本語を書く人間が教育者であることに危機感を感じるのは、私だけではないだろう。
 自称日本語教師として、日本語のマナーという領分をはき違えるようでは、問題が深刻である。
 なにより、偏見・妄想・事実誤認をベースにしている感想文である。
 こういう文章を好むのが同じ日本人かと思うと幻滅してしまう。
 それとも私が異常者であろうか?もし、そう思う人がいるならば、理論で「カナダde日本語」の言質を正当化してほしい。

 追伸:冥王星さん、名前出さなかったのでOKでしょ?
 

作者:冥王星

更新日:2008年10月1日 16時36分

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