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トップ > 生活 > 生活 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月5日 7時)

[自然科学][応答][歴史修正主義]自覚せざる自然科学教がまねく歴史修正主義


はてなブックマーク - 東はこういうべきだった・公共性と歴史と科学 - 地下生活者の手遊びに再応答。

小ネタエントリはさんだので、新しく応答エントリをたて、さらに突っ込んで考えてみますにゃ。とりあえずのまとめ。


再応答その1

id:wiseler

"うん。【私的】な言論において、愚行がまかりとおることを僕も認める。" それを認められない人が、しかも大勢居るのがこの人の提起している問題なんじゃないの?/少なくともビックバンは確定してないです


問題提起はいいんだけれど、認め方が無節操すぎるのではにゃーかと。

ビッグバンは確定していにゃーとしても、まっとうな科学仮説であることは事実。

科学仮説は灰色のものからほとんど確定的なものまであるけど、真理そのものではありえにゃーというところが重要。

科学仮説はあくまで近似であり、その意味において歴史学における学説と地続きなのですにゃ。


再応答その2

id:Midas

歴史は自然科学でない。歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ(ベルンハイム)。更に「同一事象でも観察者が違えば把握は異なる」東発言は許容内。全員、歴史学の基本がダメ。今回の批判者は皆嘘つきか小6


たいへんにオイシイので逐語的にいきますにゃ。


>歴史は自然科学でない。

誰もそんなことは言ってにゃーのだが。


>歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ(ベルンハイム)。

問題となっているのは、南京虐殺の【有無】についてですにゃ。存在とはまさに事象なんだから、事象間の因果性によりその有無を科学として判断できるということですにゃー。

ベルンハイムって歴史学の大御所みたいにゃんね。こういう大御所の脂っこいところで僕の言説を補強してくれてアリガトウ。


>更に「同一事象でも観察者が違えば把握は異なる」

うんうん。南京虐殺の規模の確定やその原因などについては一筋縄ではいかにゃーと僕も言っていますにゃ。規模などについて議論することと、その事象そのものがなかった論とは次元が違う。ベルンハイムのいうとおりだろうし、多くの歴史学者もそう考えているだろ。


>東発言は許容内

まったく意味不明。

誰にとっての許容範囲なの? どういう基準で許容範囲を設定するの?


>全員、歴史学の基本がダメ。

オマエガナー

「歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ」であれば豊富な物証や証言から(物証や証言も事象)虐殺の有無を確定するまではガチにできるだろが。その論法では原爆投下もシベリア抑留もその事実の有無がわからず応仁の乱や大化の改新はさらにわからず歴史はただのカオスだろが。


>今回の批判者は皆嘘つきか小6

というわけで、少なくとも明示された範囲内でベルンハイムのコトバに沿っているのはどう考えても僕の方ですほんとうにありがとうございました*1


再応答その3

id:metalbabble

ネタ 進化論は生物学の分野で証明がなされている訳だが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96 /id:tikani_nemuru_M 進化の存在は確認されているが南京事件はあった可能性が示されているだけだよ


はいはーい、字の読めにゃー大先生再登場。「進化の存在は確認されているが南京事件はあった可能性が示されているだけだよ」とわざわざ僕をidコールして追記ですにゃ(げらげら


いいかい?>文盲大先生

進化という事象があるということは、専門家集団の合意においてまず絶対にひっくりかえることはにゃーだろうというほど堅い科学仮説であることは僕もよーく知ってるよ。しかし、進化の機構についてその細部まできっちりとわかっているわけではにゃー。

そのうえ、何度も何度も言っているけど、自然科学において、「わかっている」というのは真理に到達したという意味ではなく、精度の高い仮説であるという意味だにゃ。あるいは、id:sivadのブクマコメにあるように、科学の再現性とは「厳密に言うなら実験の再現すらこの世では不可能。見ているのはモデルの再現なのです。http://d.hatena.ne.jp/sivad/20061227#p1

ただ

一般に流布する言説として、「進化があったことは科学で証明されている」と言うことはかまわにゃーだろうとは思いますにゃ。


ネットにはり付いて、辞書といえばウィキペディアしかひかにゃー狭い世界にすむチミのために、日本大百科から南京大虐殺の記述を全文引用してあげよう。


  • 南京大虐殺

1937年(昭和12)12月13日、上海(シャンハイ)派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)・第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州(こうしゅう/チューチョウ)湾上陸)の2軍団からなる中支那(しな)方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)が、中国の首都南京を攻略した際、中国軍の捕虜・敗残兵および一般市民に対して行った大残虐事件。この事件を欧米ではナンキン・アトロシティーズNanking atrocitiesとよぶ。日本でも1970年ごろから南京大残虐事件、南京大虐殺とよばれるようになった。


  • 「大虐殺」の実態

 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣(べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。

 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪 63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推測される。

 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭(ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。

 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。

[洞 富雄]


  • 「大虐殺」をめぐる論争

 日本人の多くが、南京大虐殺のことを知るようになったのは、第二次世界大戦後の東京裁判と並んで、朝日新聞記者・本多勝一(かついち)(1932― )の『中国の旅』(1972)に負うところが大きい。しかし、このベストセラーに対して、鈴木明(1929―2003)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973)が反論を加えたが、鈴木の主張は、事件の存在そのものを否定するものではなく、事件が誇大に伝えられていることを強調するものであった。

 その後、田中正明(1911―2006)『“南京虐殺”の虚構』(1984)が発表されると、その内容が事件の存在そのものを否定するものであったため、日本の歴史家だけでなく中国をも巻き込む国際的論争に発展した。こうしたなかで、旧陸軍の正規将校の団体である偕行(かいこう)社が、『南京戦史』(非売品、1989)を公刊して、少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めたため、論争は一段落した。

 ところが、1990年(平成2)のなかば以降、中国の対日批判などに対する反発もあって、虐殺否定論がふたたび台頭する。その代表的存在が、東中野修道(おさみち)(1947― )『「南京虐殺」の徹底検証』(1998)だが、同書の特徴は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことはいちおう認めたうえで、その違法性を否定するところにある。

 被虐殺者の数については、中国政府が約30万説をとっているが、日本の国内では、10数万から20万前後とする説、4〜5万とする説、1万前後とする説、事件そのものの虚構説などの諸説が存在する。数の面でこれだけの違いが出る一つの理由は、虐殺の定義と範囲が論者によって異なるからである。なお、日本政府自身は、南京で不法行為が行われたことを認めており、文部省(現文部科学省)の検定を通過した、中学校や高校用の教科書でも、南京大虐殺事件についての言及がある。

[吉田 裕]



歴史的事実として虐殺があったことが確定していることが前提となった記述ですにゃ。

数字などについては、ちゃんと根拠をあげたうえで「〜と推測される」と確定を避けた記述がなされていることも確認しておくこと。また、話者に依存した記述でにゃーことも確認しておくこと。

さて

「この日本大百科の記述が歴史的事実そのものか?」と問われたら、僕も「否」といいますにゃ。科学仮説が真理そのものではにゃーということと、同じ意味合いにおいて「否」という。また、南京大虐殺という事象があったということについては、専門家集団の合意として絶対にひっくりかえることはにゃーほど堅い学説であることも僕は理解しているにゃ。

つまり、一般に流布する言説として、「南京虐殺があったことは歴史学で証明されている」と言うことはかまわにゃーだろうということだにゃ。



専門家集団への信頼

進化論について僕は基本的なところは理解しているつもりですにゃ。しかしもちろんシロウトの域を一歩もでるものではなく、その全貌を把握しているわけでも細部に詳しいわけでもにゃー。それでも専門家集団を信頼するのは、その信頼が合理的だからですにゃ。以前にも言ったように、専門家集団内で激しい競争が行なわれており、その議論は開かれたものなのだから、その合意された学説を信頼するのは合理的なことでしょうにゃー。

一方、

南京大虐殺については、進化論ほど時間をかけて書籍などを読んだわけでもにゃーのだが、自分で書籍を読んだ限りでは南京大虐殺があったことはガチだと考えており、また、自然科学の専門家集団を信頼するのと同様な理由で、歴史学の専門家集団も信頼しているともいえますにゃ。


あぶりだされたのは何か?

僕の言っているのは、きわめて穏当なことにゃんぜ。

  • ニンゲンは事実そのもの、あるいは真理には到達できない

しかし

  • 対象にする事象によっては、ほとんど確定的だといいえるところまで近づける
  • 事実に近づく体系的な方法論をもった専門家集団を基本的に信頼する

そして

  • これらについては、文系も理系もない*2

ねえねえ、進化が事実だと思っているそこのチミ。チミは何で進化が事実だと思っているの? 進化学の領域すべてをチミは知っているの? そんなヒトは世界に何人もいにゃーだろけどね。

え? 進化論は学会でちゃんと認められてるって?

でも、進化論に文句をつけるヒトタチは後をたたにゃーですよ。宗教さんだけでなく、養老センセイなんかも進化論を疑問視してるよ。養老センセイは東大の教授で医学畑のセンセイだよね

ほうほう、それでも進化論は正しいって? 養老なんてノイズにすぎにゃーって? 世界中の大多数の専門の学者が進化の事実に同意してるって?

スバラチイ。僕もそう思うにゃ。

で、

なんでチミはその同じ態度を歴史学に対して持つことができにゃーの?


[南京大虐殺論争:wikipedia]より引用


虐殺否定説・まぼろし説

一般的に否定派、まぼろし派、虐殺なかった派などと呼ばれる。ここでは否定説に統一する。主な研究者は鈴木明(雑誌記者)、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)などが挙げられる。


このメンツにまともな学者がいるの? こんなの養老と同じノイズじゃん。名の売れたヒトが1人でも反対すればダメというのなら、養老が反対する進化論ももちろんダメだよにゃ。

ここにあげたメンツ以外は、あったことを前提に規模などで論争しているんだろ? 規模の問題にクチバシを突っ込む意志も能力も僕にはにゃーけどな。


ダブスタあるいは歴史の強姦魔

自然科学は事実に迫ることができるけれど、歴史学は事実に迫ることができない、と考えるのは、ごくごく単純に、科学至上主義、あるいは科学教だにゃ。

自然科学の専門家集団を信頼して進化はあったと考えるけど、歴史学の専門家集団は信頼できないというのは、やはり科学至上主義・科学教に基づいたダブスタなんでにゃーのかな?

あるいは、

自然は好き勝手にできにゃーけど、歴史は好き勝手にできるという、いわば歴史の強姦魔の発想にゃんね。

自然も歴史も好き勝手にはできにゃーんだよ。

この、歴史は好き勝手にできない、ということを論じたのは、歴史における狭量な実証主義を批判した小林秀雄でしたにゃ。このネタはまたゆっくり書く。


イースト氏の言説がもたらすもの

イースト氏の言説においては、南京大虐殺という事実の有無について、証拠などはいっさい勘案されてにゃーよね。


さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、

(同、p.189)

公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。


(同、p.231)

市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。


と語ります。

つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。


http://anond.hatelabo.jp/20081201233221


先に引用した日本大百科の記述と、wikipedia:南京大虐殺の記述と比較してみろ。ウィキペディアのほうは「〜したとされる」「〜といわれている」ばっかりだ(うんざり。

歴史修正主義者がネットで暴れ回った結果がこれだにゃ。

イースト氏は証拠・根拠を検討することを一切放棄しているわけだから、進化論や相対性理論*3についてのウィキペディアの記述も、目茶苦茶な難癖を併記した上で、「〜といわれている」ばかりになることも容認しなければならにゃーぜ。

ただでさえいろいろ問題のあるウィキペディアが、糞の役にもたたなくなるわけにゃんな。というか、ネットそのものが肥だめであることを容認することになるにゃ。これは「集合知」の否定だろ。

まあ、現時点でもほとんど肥だめだけどさ、クズは90%*4に抑えておきたいものですにゃ。


最後に

イースト氏の言説に対し、進化論を持ち出したのは、単なる反・反科学の立場からではなく、科学至上主義・科学教のあぶりだしの意図もありましたにゃ。

そして、歴史修正主義が比喩的な意味ではなく疑似科学であることも示したかったのですにゃー*5。これは、id:Apemanあたりもまえまえから言っていることだけどにゃ。

ここ数日で書いたことは、まともな疑似科学批判者であれば、少なくとも真っ向から否定することはにゃーと断言できますにゃ。なぜなら、まともな疑似科学批判者は、自然科学を特権化することはにゃーからだ。だから、歴史学が事実に迫れないなどというはずもにゃー。

また、普段は意識されてにゃー自然科学の特権化が、歴史学などにおける認識論的相対主義の温床となり、南京虐殺の否定*6のような歴史修正主義を蔓延させる風潮を後押ししているかもしれにゃーということも、今回のやりとりで見えてきたことでもありますにゃ。

*1:このどうしようもにゃーブクマコメに、現時点で9つの星がついているにゃ。つけたのは、id:suekichi-sunid:CrowClawid:magician-of-posthuman×3、id:Lhankor_Mhy×3、id:adoratio

*2:ガクモンそのものの権威性・権力性についても文系も理系もにゃーけどな。まあ、この話題はおいとこう

*3:相対性理論もアレなヒトタチの巣窟になっている

*4すべてのものの90%は屑である、という絶対真理 - 地下生活者の手遊び

*5:成功しているかどうかはなんともいえにゃーが、まあある種のあぶり出しまではできたかな、と

*6:「の否定」の部分は追記

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年12月4日 22時20分

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[小ネタ][歴史修正主義][オカルト]戦死者の霊のいない沖縄を宜保愛子が行く(追記で応答


東浩紀の渦状言論: 歴史認識問題についていくつかのブクマコメにも書いたんだけど、どうやらイースト氏はアウシュビッツでは霊を感じたけど、南京では霊を感じなかったということらしいにゃ。ポストモダンというだけでなく、スピリチュアル系でもあったということで、イースト先生と呼ばせていただく。


いや、それにしてもイースト先生のブログに表示される女の子がむちゃくちゃかわいいね*1。あれはイースト先生の娘さんのようですにゃー。うちのガキと同年代のようで、このあたりの女の子のかわいさには正直弱いです。DISりが鈍ります。

というか、娘さんの写真のせてダイジョブなんだろか? 老婆心ながら心配だにゃ。

それと、娘さんの写真をのっけていたら、政治的にシビアな発言はしにくくならにゃーかな? ガキってのは親を強くも弱くもしますからにゃー。

娘さんの写真をみただけで、いろいろと気を回しちゃうよ。僕も堕落したもんだにゃー。


イースト先生DISをする気分でなくなってしまったので*2、雑談に流れることとしますにゃ。


むかーし、宜保愛子先生がひっぱりだこだったころ、定食屋かどっかで

  • 宜保愛子、沖縄を行く。「沖縄は霊の跋扈する土地でした」

とかなんとかいう感じの記事を女性誌(たぶん微笑か女性セブン)で見かけましたにゃ。4〜5頁くらいある結構気合いの入った記事で写真もふんだんにありましたにゃ。


僕も読む前から

「そりゃ、沖縄に霊がうようよいるのはアタリマエだろにゃ。戦争であれだけ人が死んどるもの」

と思っていたんですよにゃ。

もちろん、僕が甘かった。

沖縄にいる霊は、心中したカップルの霊とか姑にいじめられて自殺した嫁の霊とか、まあそんなんばっかでしたにゃ。戦死者の霊はどこにもいなかったのですにゃ。宜保愛子によると、沖縄は愛憎が激しく家族や恋人の間がどろどろになってしまうのだそうだにゃ。

うんうん、きっと戦死者の霊は靖国にいるんだよね。地縛霊になんてなってにゃーよね。


どうも今のオカルト系というのは「体制側」に回収されちゃってますよにゃ。

江原あたりをアウシュビッツに行かせて番組を録ったらどうなるだろにゃ?

きっと江原はアウシュビッツで骨を撫でながら

「前世はダビデ王の側近でしたね」

とかしゃべくるのではにゃーだろうか*3

いや、I田T作センセイを連れて行くのもいいかも。

某学会の理屈であれば、前世でなんかワリイことをした因果で虐殺されたことになるかにゃ?



オカルトが「体制側」に回収されていくのは、僕としては悲しい。


以前にも反体制運動とオカルト - 地下生活者の手遊びで引用した エリアーデ「オカルティズム・魔術・文化流行」より


ボードレール、ヴェルレーヌ、ロートレアモン、ランボーから、現代の作家、アンドレ・ブルトンやその弟子たちに到るまで、これらすべての作家たちは、オカルトをブルジョワ的体制とそのイデオロギーに対抗する強力な武器として利用した。彼らは現代の公的な宗教、倫理、社会慣習、美学を拒否する。P91


彼らがグノーシス派その他の秘密結社に関心を寄せたのは、彼らの並外れたオカルトの知識のためばかりではなく、そのような団体が教会から迫害されてきたからであった。P92


ボードレールからアンドレ・ブルトンに到るまで、フランスの前衛作家や前衛芸術家にとってオカルトに掛り合うことは、西欧の宗教的文化的価値に対する最も有効な批判と拒絶のひとつを表していたのである。P93



ポストモダンはオカルトと手を携えて、まじめに反体制しようよ!


100字では応答できにゃーので追記で応答 4日14:05ごろ

id:complex_cat

ニャンコ先生らしい素晴らしい視点だけれど,こういう年端も行かない頃からトンデモに利用される子供のための怒りはない?就学年齢含め子連れのあざとい勧誘は非人権カルトの定番。次世代のための反体制じゃないの?

愛娘の写真をブログにのっけるのはただの親馬鹿かと。一般に、言論において家族の写真をのっけることにメリットはにゃーわけで、非人権カルトのガキ利用とは明らかにちがうのではにゃーのかな。

ガキの写真見てDISが萎える僕に「首尾一貫せんか!」と文句を言うのは当然だと思うけど、イースト氏がガキを盾に取っているかの見方はさすがに失礼だよ。

まあ

今用意している記事で、またもイースト氏をDISせざるをえにゃーことになりそうにゃんが。


id:letterdust

「この世の非業の死を遂げた命が霊になるならオキアミの霊とかどんだけいるんや」と上岡龍太郎が言ってた。

それについては、リアルな輪廻 - 地下生活者の手遊びというエントリでネタにしましたにゃ。

*1:うちのガキほどではにゃーと言っておくが

*2:実はすごく情実によわい

*3:輪廻を前提にされたらユダヤ人は怒るだろうにゃー

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年12月3日 0時6分

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[自然科学][応答][歴史修正主義]東はこういうべきだった・公共性と歴史と科学(追記で応答


はてなブックマーク - 進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀 - 地下生活者の手遊び

まあ、東浩紀も一応予防線は張っていて

などに応答しますにゃー。


事実を扱うのは科学

自然科学は事実の共有を可能にしたという意味で、ジンルイにとって特別な地位をしめていると、科学論関連で何度か述べていますにゃ。で、これは自然科学以外の諸科学にも基本的にあてはまることだと考えますにゃ。事実というのは、自然現象にだけあてはまるコトバなどではにゃー。

よって、事実認識が問題となった文脈において、科学を持ち出すのは当然のことではにゃーでしょうか?

科学を信仰するとかいう大仰な話ではなく、事実認定に関してジンルイが作り上げたもっとも強力で有用な体系が科学であるから、事実認定において科学を持ち出したというだけのことにゃんね。


自然科学も構成されたものである

  • 自然科学は事実の探究で、歴史学(人文科学・社会科学など)は解釈である

という俗論をよく目にしますにゃ。しかし、自然科学だとて、データの【解釈】によって仮説・理論が構築されているのですにゃ。

ここでは別に自然科学理論に対する社会構築主義的な主張をしたいのではなく、データが科学的方法論や直観によって理論構成されていくものだという、穏当な話をしているだけのことですにゃー。


あえてこういう言い方をするけど、ニュートン力学というのはひとつの解釈体系であり、相対性理論もまたひとつの解釈体系ですにゃ。そして、ニュートン力学も相対性理論も、真理そのものではにゃーのですね。科学理論というものは仮説であり、いうなれば解釈といっていいわけで。

ただし

ニュートン力学という解釈体系(=仮説)は、実に「使える」ことは明らかですにゃ。現代文明がその有用性を日々証明し続けている解釈体系だということですにゃ。そして、相対性理論となると、さらにその「近似」の度合いが強い、つまりニュートン力学よりもさらに精確な解釈体系だということにゃんね。

つまり

  • 自然科学理論も構成された解釈体系であり、真理そのものではない

しかし

  • その解釈の精度をあげていくことは可能である

真理そのもの、歴史事実そのもの、「物自体」に到達することはできなくとも、近づいていくことはできるのではにゃーの? 少なくともそれを志向するのが、ガクモンであり科学というものですにゃ。

歴史学においてもおんなじことですにゃ。無論、歴史学には歴史学固有の方法論はあるだろうし、そもそも歴史的事実というのはその複雑さが自然的事実の比ではにゃーだろうから、そんな簡単なものではにゃーことはわかるけどね。

とはいえ、南京で旧皇軍により組織的な虐殺があったかどうか、というのは単純な事実認定に属する話のはずですけれどにゃ。その実際の規模だとかメカニズムだとかいう話になると、そうそう一筋縄でいかにゃーだろうね。


というわけで、歴史学が解釈だというのなら、自然科学だって解釈だよ。歴史学の困難さは認めるけれど、歴史学は事実に迫ることはできにゃーっていうのも根拠がにゃーよな。

というか、自然科学ってのはニンゲンが事実に迫ることができるということを証明してると僕は思うのですにゃ。他の諸科学だってできにゃーってことはにゃーだろ♪(←楽観的


なぜ進化論をひっぱりだしたか

「歴史的事実は科学の対象にならない」、という不当な批判が進化論に対して投げ掛けられているからですにゃ。

「実験による検証ができない、再現性がない、だから進化論は科学ではなく「物語り」にすぎない。だから少なくとも創造論と対等に扱うべき」という難癖がつけられているわけですにゃ。

この難癖のつけ方が、歴史修正主義と同じ構造なんだよにゃー。

どうでもイースト氏の言説は、明らかにこの難癖にコミットしているにゃ。

チシキジンならオミットせんか!


と、ここまでがブクマに対するざっくりとした応答ね。

では、以下は増田への応答。


にゃるほど愚行権

さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望している。ゆえに、


(同、p.189)

公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。


(同、p.231)

市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。

と語る。


つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。



にゃるほど、イースト氏が容認しているのは歴史修正主義ではなく、馬鹿であり愚行であるということにゃんね。確かに馬鹿であることを禁止することはできにゃーし、自由主義政体においては愚行権がありますにゃ。

うん。【私的】な言論において、愚行がまかりとおることを僕も認める。


公共圏

大塚・東の対談では、公共性が問題になっているようにゃんね。

ハーバーマスの公共圏に関する議論なら読んだことがあるので、そのあたりをベースにちょっと考えてみますにゃ。ちょっと乱暴に、しかも記憶にたよってハーバーマスの公共圏概念の特徴をいくつかあげてみると

  • 公共圏は公権力に対抗するための言説空間である
  • 発言者の出自は問われないが、発言の作法(ソースの提示・論理性など)は問われる

では、増田の記事からまた孫引きね


東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。


大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?


東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。


大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。


東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。


大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をばったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。


東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。


『リアルのゆくえ』pp.220 - 221


いまのネットで公共性が実現されているとはまったく思えにゃーな。ちゅうか、公共性の前提にリテラシーがあるわけで。

定期的に話題になり、最近もはてな村で話題になった「リンク禁止厨」とか「俺に文句をつけるな厨」なんかはむしろ言説の公共性を拒絶して、私的な言説空間の保持に汲々としているわけですよにゃ。ミクシはその典型ですにゃ。ミクシで馬鹿なことを書いている日記にお邪魔していろいろと言うと、「私の日記に私が何を書こうが自由だ」と言い出すことが多いんだにゃ。

自分で自分の言論の公共性を否定しちゃっているんですよにゃー。



大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。


東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。



ならば東はこういうべきだったと思う。

  • 「ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは公共の議論の作法を身につけているからだ」

科学と相対主義

疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊びにおいて、科学と相対主義は両方とも公的な原理であると述べましたにゃ。

イースト氏は、私的領域における言説の多様性を認めている、確かにそれは公的な作法であると考えますにゃー。しかし、科学という視点がまるで欠落しているよにゃ。公共性を語るのに、相対主義【だけ】を持ち出すのはどうよ?

まあ、この増田は大塚に共感しているようだし、わざわざ僕が指摘するまでもにゃーのだろうけれど。


僕自身も、科学的思考と相対主義の両立のために、ネットで馬鹿を見かけたらなるべく馬鹿にしてあげることにしていますにゃ、面倒だけど。

これこそ、馬鹿への愛、僕は馬鹿にやさしいぞ。馬鹿にしてあげるんだから。

馬鹿に逃げ場のにゃーはてブの仕様って、けっこう公共的かもね?


追記で応答 22:22

id:chnpk

なんか公共の定義が全員バラバラのような気がするんですけど

公共圏といえば、アレントかハーバーマスに依拠することが多いと思いますにゃ。アレントの議論はその著述にあたったことがにゃーのでよくわかんにゃーです。

大塚や東がどういう意味で【公共】を使っているか、いまいち不明ではあるけれど、東は「ぼくこそが公共的なのだ」というべきであった、という主張については、あまり細かい公共の定義にはいらずとも通じるものにしたつもり。


id:metalbabble

進化論は生物学の分野で証明がなされている訳だが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96

あのですね、大先生。僕は記事でも科学理論は仮説だと述べているのですけれどにゃー。科学理論は真理そのものではにゃーのですが、それがわかんにゃーですか? 自然科学における「証明」は、数学における「証明」とわけが違うのですけれどにゃー。

進化が「あったと証明されている」のであれば、同様に南京虐殺も「あったと証明されている」といっていいんだよ。記事がまるで読めてにゃーね、さすが大先生。


id:z0rac

思想家が「公的な原理」なんぞを前提に話するようなら終わってますがなw/「公共圏は公権力に対抗するための言説空間である」と矛盾してるにゃ。/追記:あぁあれを相対主義と捉えたのか。そりゃ東氏が可哀想だ

「公的な原理」ってのは「公共性の原理」「公共圏の原理」のこと。で、自由主義政体の公権力ってのは公共圏の原理を形式的には受容せざるをえにゃーってとこね。

よって特に矛盾してにゃーでしょう。誤解を招く書き方ですまにゃーですね。

それと、東の言説は認識論的相対主義の無制限な容認ですにゃ。違うというのなら具体的に教えて。


id:Lhankor_Mhy

異論アリ 科学が扱う事実とは、追試が可能なものだよ。虐殺の事実は再現して見せる事ができない。具体的な物証の検討は科学で扱えるが、伝聞ゲームはシニフィアだから郵便的。にゃー先生と東では扱ってるモノが違うんだって

id:REVもすでに突っ込んでるけど、「科学が扱う事実とは、追試が可能なもの」なのであれば、進化論だけでなく、大陸移動説もビッグバン仮説も科学ではにゃーね。

こういう誤解が蔓延しているから、歴史修正主義と進化論への難癖を結びつけたんだけど、僕の論証が簡単すぎたかにゃ?

あと、伝聞ゲームで事実に迫ることができにゃーとしたら、裁判では「シニフィアだから郵便的」(なんか意味がよくわかんにゃーが引用してみた)なものでヒトを刑務所にぶち込んだり死刑にしたりしていることになるよにゃ。

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年12月2日 11時34分

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[自然科学][歴史修正主義]進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀


さて、「僕にとってはどうでもイースト氏」が発言した内容ですにゃ


どうでもイースト氏の発言を復習してみる


東 世界にはいろんな立場の人がいます。たとえば、南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう。しかしアマチュア同士では意味がない。(中略)ちなみにぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それはぼくからすれば誤解としかいいようがない。


大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?


東 そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。


大塚 でも、それを言い出したら何も言えなくなる。柳田國男について発言するのは柳田國男以外できなくなってしまう。歴史学自体がすべて成立しなくなってしまう。資料はすべて伝聞情報だからね。一次資料だって誰かのバイアスがかかっているわけで、南京虐殺論争だって、そのバイアスの部分で虚構と言うのか、あるいはバイアスを取り除いたところであったと言うのか。とにかく、東浩紀っていうのは、結局は人は何も分からないって言ってるようにしか聞こえないよ。


東 ある意味でそのとおりです。


大塚 (前略)つまり君が言っていることっているのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。


東 ええ。それはそういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。


大塚 そうやって居直られても困るんだって。(209〜211頁)


http://watashinim.exblog.jp/8879908/ より孫引き


東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)


南京大虐殺について僕はあると思っている

しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能

いくらでも理論武装することは可能

この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、

ということからはじめないといけない

と書いたところ、案の定批判が来た


批判が来るに決まっている発言

まさにそのまんまの反応が来る

何故分かっているということを信頼できないのか


左翼系の公共性の議論は突飛に見える

しかし公共性の定義の通りやったらそうなる

絶対的な真理なんかない

討議は無限に開かれていないといけない

僕はそういうところが出自なのでよく知っている

そのまんま実現するなら、南京大虐殺はあるという奴とないという奴が要る、という包摂

しかし歴史的真実は一個である云々


僕の発言がどこから出てきているのか

デリダ

指導教官は高橋哲哉 『靖国問題』で有名

デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる

言うということはデリダを裏切る

左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと

という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された

それがネットにコピペ

ばーっと批判


様々な見方、無限の寛容を認める

テロリストを認めるということに近い

そういうことを言っている人間が、

右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う


これは非常に難しい問題

従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか

南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか

全ては解釈ゲーム


# 去年もあったアウシュヴィッツの話


世界はこう見える、というのは複数存在する

許容するのが公共性なんだ


http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1


科学でも学問でもない

と、あちこちでコピペされているこの文をわざわざ貼り付けたのは、ここには科学論に興味があって来ている方がいると思うので、そういう見方をしてみようかと思いましてにゃ。

「南京虐殺について自分で調査したわけではないですから」

「絶対的な真理なんかない」

「討議は無限に開かれていないといけない」

「全ては解釈ゲーム」

というこれらの発言は、ごくごく単純に科学的に歴史を見るということを否定しているわけですにゃ。ここで、どうでもイースト氏がご開陳なさっている態度は、どう見たって科学ではにゃーですよね、もっといえば学問でもにゃーな。

科学における討議とは確かにゲームですよにゃ。より多くのデータを包括的に秩序立てて説明できたほうが勝ち、予見までできればなおよし、というゲーム。

しかし、どうでもイースト氏の「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ。証拠に基づいて解釈することは求められにゃー解釈ゲームにゃんな。


進化論否定との類似性

さて、歴史を科学するといえば進化論にゃんね。

きわめて真っ当な自然科学である進化論に対して、宗教的・政治的意図からこれを否定しようとする動きが、特にメリケンにおいて顕著であることはよく知られておりますにゃ。

ざっとしたところは、wikipedia:進化論裁判をご覧くださいにゃ。

最新の動向について詳しくは忘却からの帰還をご参照くださいにゃー。


公教育における進化論の取り扱いin メリケン をものすごく乱暴に言うと

  • 1)進化があったというまっとうな科学的認識が、政治的・宗教的な意図から否定される(反進化論法の成立)
  • 2)進化論否定派に対する科学的・学問的な反論がなされる。進化論否定派はまともな反論できず(アーカンソー州反進化論法裁判)
  • 3)進化があったという説も、なかったという説(=創造論)も、どっちもあり、と進化論否定派が言いだす(アーカンソー州授業時間均等法)
  • 4)それもボコボコにされて(オヴァートン判事の判決文)、今度は一見すると宗教っぽくない珍説で進化論を否定し、公教育に入り込もうとする(インテリジェント・デザイン論)

この乱暴なまとめの「進化があった」を「南京虐殺があった」「ホロコーストがあった」に、なおしていただけると、これがまあ、いろいろあてはまっちゃうようですにゃ。

(1)馬鹿ウヨの吹き上がり、(2)その消火活動を経て、字が読めてまともな判断力をもった者に、南京虐殺はなかった、などと言うヒトはいなくなってきましたにゃ。で、そろそろ(3)なんでしょうかにゃ。

ここで、どうでもイースト氏は(3)の、「どっちもあり」と言いだす役回りをご演じくださっているようですにゃ。それと、(4)のポストモダン珍説の振りまわしのミックスですかにゃー。

歴史修正主義ってのはつくづく疑似科学にゃんねえ・・・・


ちょい気になったこと

この本は未読ですにゃ。この本のアマゾンのレビューに、ちょっと興味深いことが書いてあったので引用しますにゃー。



興味深い, 2007/3/4

By げるやん


創造論裁判といえば宗教バカvs良識者というイメージがあったがそうではなかった。

創造論が根強い人気を持っているのは、科学者が「科学の正当性」を過信しすぎ創造論者を軽視したこと、創造論者が理論性の勝負をさけ、心情や信仰心に訴えるという戦略をとったことにあるとする。



このあたりも歴史修正主義をめぐる議論にも通じるところがあるのかもね。

なんにしろ、この本は読んでみよう。

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年11月30日 23時46分

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[歴史修正主義][わたくしごと]わが家の歴史修正主義者


うちの4歳児が歴史修正主義者でこまりものですにゃ。

「○○ちゃん(自分の名前)ねー、3歳の時はパンを食べなかったけど、今はパンが好きだよ」

「ずっとパンもコメも好きだったじゃんか」


「○○ちゃんねー、3歳の時はおっぱいが大きかったんだよ」

「・・・・・・」


「○○ちゃんねー。3歳のときは、お母さんのママだったんだよ」

「・・・・・・・・・・」

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年11月30日 2時8分

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[歴史修正主義]どうでもいいイースト氏


えーっと、話題のイースト氏(copyright by sivad)にゃんが、「動物化するポストモダン」という書籍は読んだ事がありますにゃ。

ごくごく単純につまらなかったので、何もおぼえてにゃーですね。

粗いけど着眼点に見るべきものはあるとか、そういうものがまったくなしで何も面白みがなかったので、何にもおぼえてにゃーですね。イースト氏って、いままでに何かオモチロイことを言っているの? あの程度の何の意味もにゃー駄本をだしたどうでもいいヒトが、オモチロイことを言っているとは思えにゃーのだが。

同時期に小谷野の「もてない男」も読んでいて、これは気持ち悪さをおぼえているだけこっちのほうがマシといえにゃーことはにゃーかな。


というわけで、イースト氏の言説が問題になるということ自体がよくわかんにゃーです。なんかこう、問題にしなきゃならにゃーヒトなの?

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年11月30日 1時47分

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[応答][思想・哲学・心理学]馬鹿であることの自己責任


昨日のエントリのネガブクマコメがおいしいので、ぺろりといただきますにゃー。


id:j-kondo大先生曰く、産経ブンカジンは左翼


id:j-kondo

サヨの言う「自己責任」と一般人の言うそれって意味が全然違うよね。レイプ被害者を「自己責任」などと言うのは、id:namawakariみたいな左翼だけ。立ち入り禁止の立て看板のむこうに行って溺れるイラク3馬鹿とは違うw



いやー、思考力と恥の感覚が本当にご不自由にゃんねえ。

レイプ被害者に対して、自己責任を言い出す言説はありふれているにゃ。最近では、沖縄での米兵による女子中学生レイプ事件があっただろ? id:y_arimがなぜレイプの話を持ち出してきたのかがわかってにゃーみたいだね。


米兵にレイプされた女子中学生に対し、産経新聞客員編集委員 花岡信昭は以下のような記事を書いているにゃ。


「知らない人についていってはダメ」。筆者などの世代は子どものころ、親から口うるさく言われたものだ。


 米軍基地が集結する沖縄である。夜の繁華街で米兵から声をかけられ、バイクに乗ってしまう無防備さ。この基本的な「しつけ」が徹底していなかったことは無念、という以外にない。


http://spiraldragon.blog.so-net.ne.jp/2008-03-01-1 より再転載


うむ、見事に自己責任論だにゃ。「しつけ」も呪術化しとるね。

沖縄での米兵による女子中学生レイプ事件をめぐっては、他にも女子中学生の自己責任を問う声があがっていたよにゃ、主に産経・正論・WILLあたりのブンカジンとそこに同調するブログあたりで。

というわけで、id:j-kondo大先生によると

  • 花岡信昭を典型とする産経ブンカジンは、id:namawakariみたいな左翼

ということになりましたああああああ。


確かに日本語も不自由なid:metalbabble大先生



id:metalbabble

日本語も不自由なので何が言いたいのかわからないが 長々と書いてる割に自己責任なんて存在しないと言いたいだけ? 俺がここで叩かれるのも自己責任だと思っているが運が悪いだけと言うのかね



思考力と恥の感覚だけでなく、確かに日本語も不自由なお方のようですにゃ。自覚だけはあるようなのでなによりですにゃ。

いいですか、id:metalbabble大先生。僕は以下のように書いたのですにゃ。


これらの「自己責任」の使い方って、もう呪術の領域に踏み込んでいるとではにゃーだろうかと僕は思う。



id:metalbabble大先生、読めますかにゃ? 大先生や産経ブンカジンの「自己責任」の用法は呪術の領域に踏み込んでいるのではと確かに僕は書きましたにゃ。

この記述をどう解釈すると、「自己責任は存在しない」となるの?




自己責任というコトバを非難に用いてよいとき

自己責任という言葉を用いて他者を非難できるというのは、以下の3つの場合なのではにゃーかと考える。

  • 1)他者に危害を加えた
  • 2)自己責任で行なうことが最初から含意されたフィールドでの行為
  • 3)身内の愚行

(1)においては、刑事責任・民事賠償責任など法的な話になってきますにゃ。あとで参考リンクをつけとく。


(2)なんだけど、例えば投資も基本的には自己責任だけれど、情報開示が適切に行われていにゃー限りは、それを自己責任ということはできにゃーですね。自己責任を問うのなら、十分な情報開示が行われていなければならにゃー。

自己責任で行なうことが最初から含意されたフィールドの典型として、言論活動があげられるでしょうにゃ。特にネットの言論は、開示されたソースとロジックに依拠してなされるので、自己責任の典型といえるのではにゃーだろうか。

チミが叩かれるのは、確かにチミの自己責任だ>id:metalbabble大先生


(3)だけど、これは厳密にいうと「他者」への非難ではにゃーよな。

「あんな男にいれあげてガキまで産みやがって。お兄ちゃんはずっとあんな男とつきあうのに反対してただろうが。やっぱり逃げたじゃねえか、あの野郎。まあ生まれた子供はかわいい甥(姪)だ。お兄ちゃんが面倒みてやる。おまえも頑張れ」

と、これは当然ながらアリ。

言い換えると、その具体的な状況に自分が責任をとることを前提として(お兄ちゃんが妹や甥姪の面倒をみることを前提として)、その状況をもたらした責任を問う(無責任♂のガキを産んだことを非難)ことはあってもいいと思いますにゃ。

愛があればダイジョウブ。


自己責任の非対称性

ところで、私的領域における愚行は自己責任において行なう、というのは自由主義においては正しいテーゼなので、無責任♂のガキを産んだ愚行は自己責任だ、というロジックは成り立たなくもにゃー。

ただし

その場合は、産ませて逃げた♂の責任を徹底して追及しなければならず、責任を追及するための社会システムも整備する必要があるはずだにゃ。実際に、多くの母子家庭において、産ませ逃げした♂はまともな経済的負担などしていにゃー。別れた♂から養育費を十分にとるためには、相手の♂がたまたま良心的であるか、あるいは相手に十分な経済力があり、かつ、相当な努力と法的知識を用いなければならにゃーのだ。


産ませた♂の自己責任を問う発想すらなく、もちろん産ませた♂に責任をとらせる制度を考えることもなく、ひたすら♀のみに責任を負わせるという、このわかりやすくてゲロ臭え性差別主義。♂に自己責任はにゃーんですかあ?

ブクマコメにも、「自己責任を言い出す奴は、自分の責任を考えてない」、という旨のものがいくつかあったけど、ホントにゃんねえ。

いや、ホントに思考力と恥の感覚がご不自由にゃんねえ。


自己責任ってのは、なぜか弱者にしか問われにゃーよな。

弱者が弱者であることが自己責任だというのなら、それは輪廻と因果ですべてを自己責任としてしまう某教団の豚理屈そのものであり、悪しき呪術としかいいようがにゃーだろう。


僕の馬鹿は僕の責任

僕が馬鹿であることは確かに僕の責任だにゃ。

そして、馬鹿はお互い様なんだにゃ。

僕たちがみな、馬鹿であることは当然だ、前提だ。

馬鹿はお互い様で助け合って生きていこうよ、というのが共同体だろ?

馬鹿はお互い様ってのが自由主義の前提でもあるだろ?


しかも、馬鹿からはほど遠い人類の教師たち、ゴータマとかナザレのイエスとかソクラテスとかは口をそろえて「みんな馬鹿だけど馬鹿を見捨てるな」といってるだろ?

金融エリート様も馬鹿だった、政治エリート様も馬鹿だった、官僚様も馬鹿だった、自衛隊のトップ様も馬鹿だった。ジンルイの歴史とは、ほとんどのニンゲンは階層や出身を問わず馬鹿だと証明する歴史だにゃ。


僕の馬鹿は僕のせいだ。馬鹿であることは自己責任だ。

だからこそ、馬鹿にやさしく*1

つまり、すべてのものの90%はクズである


さて、馬鹿の中でも最底辺に属するid:metalbabbleid:j-kondoは、少し考えなさい。サヨクというのは、一般に「馬鹿を非難しない」ヒトタチなんだにゃ。サヨは本当はチミらの味方だにゃ。チミらの能力で反サヨは自爆だよ。



参考:予見可能性


会社側の責任は問えなかったのか」。高知県宿毛市の土佐くろしお鉄道事故で今年3月、死亡した運転士の書類送検にとどまった高知県警の捜査の結末に、兵庫県警の幹部は、業務上過失罪での管理責任立証の難しさを改めて実感した。


兵庫県警がこの事故に注目したのは、▽速度超過が主原因とみられる▽真相を知る運転士が死亡▽自動列車停止装置(ATS)など鉄道設備の整備状況に法令違反がない――などの共通点があったからだ。


 土佐くろしお鉄道の特急列車は、ATSの作動で非常ブレーキがかかったものの、想定を超える速度だったため止まりきれず駅舎に激突、12人が死傷した。高知県警の捜査資料によると、居眠り運転の疑いが濃厚とされたが、それ以前にこの運転士の居眠りが発覚したことはなく、現場では、大幅なオーバーランなど今回の事故を「予見」させるトラブルもなかった。


 同罪で直接、過失を犯したわけではない者の責任を問うには、特に、この「予見可能性」の立証が難しいとされる。


  • 業務上過失罪

 日常の継続的な行為で、人の生命、身体にかかわる注意義務を怠る罪。同致死傷罪、同失火罪などがある。事故などを予測し得たとする「予見可能性」、適切な措置を怠った「結果回避義務違反」、過失と事故の「因果関係」の3要件の立証が必要


「企業責任」難しい立証 「予見可能性」どう判断 : JR脱線事故 : 特集 : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)より


客の命をあずかり、その安全を保障すべき業務において、現実的な他者危害をおこした事例ですら、「予見可能性」の立証はムツカシイ*2

*1:もちろん、責任ある職についていて、その専門において馬鹿であることは許してはならにゃーのだが

*2:もちろん民事賠償の義務は生じている

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年11月28日 11時59分

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[自然科学][応答][歴史修正主義]自覚せざる自然科学教がまねく歴史修正主義


はてなブックマーク - 東はこういうべきだった・公共性と歴史と科学 - 地下生活者の手遊びに再応答。

小ネタエントリはさんだので、新しく応答エントリをたて、さらに突っ込んで考えてみますにゃ。とりあえずのまとめ。


再応答その1

id:wiseler

"うん。【私的】な言論において、愚行がまかりとおることを僕も認める。" それを認められない人が、しかも大勢居るのがこの人の提起している問題なんじゃないの?/少なくともビックバンは確定してないです


問題提起はいいんだけれど、認め方が無節操すぎるのではにゃーかと。

ビッグバンは確定していにゃーとしても、まっとうな科学仮説であることは事実。

科学仮説は灰色のものからほとんど確定的なものまであるけど、真理そのものではありえにゃーというところが重要。

科学仮説はあくまで近似であり、その意味において歴史学における学説と地続きなのですにゃ。


再応答その2

id:Midas

歴史は自然科学でない。歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ(ベルンハイム)。更に「同一事象でも観察者が違えば把握は異なる」東発言は許容内。全員、歴史学の基本がダメ。今回の批判者は皆嘘つきか小6


たいへんにオイシイので逐語的にいきますにゃ。


>歴史は自然科学でない。

誰もそんなことは言ってにゃーのだが。


>歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ(ベルンハイム)。

問題となっているのは、南京虐殺の【有無】についてですにゃ。存在とはまさに事象なんだから、事象間の因果性によりその有無を科学として判断できるということですにゃー。

ベルンハイムって歴史学の大御所みたいにゃんね。こういう大御所の脂っこいところで僕の言説を補強してくれてアリガトウ。


>更に「同一事象でも観察者が違えば把握は異なる」

うんうん。南京虐殺の規模の確定やその原因などについては一筋縄ではいかにゃーと僕も言っていますにゃ。規模などについて議論することと、その事象そのものがなかった論とは次元が違う。ベルンハイムのいうとおりだろうし、多くの歴史学者もそう考えているだろ。


>東発言は許容内

まったく意味不明。

誰にとっての許容範囲なの? どういう基準で許容範囲を設定するの?


>全員、歴史学の基本がダメ。

オマエガナー

「歴史を科学とするのは事象間の因果性においてのみ」であれば豊富な物証や証言から(物証や証言も事象)虐殺の有無を確定するまではガチにできるだろが。その論法では原爆投下もシベリア抑留もその事実の有無がわからず応仁の乱や大化の改新はさらにわからず歴史はただのカオスだろが。


>今回の批判者は皆嘘つきか小6

というわけで、少なくとも明示された範囲内でベルンハイムのコトバに沿っているのはどう考えても僕の方ですほんとうにありがとうございました*1


再応答その3

id:metalbabble

ネタ 進化論は生物学の分野で証明がなされている訳だが http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96 /id:tikani_nemuru_M 進化の存在は確認されているが南京事件はあった可能性が示されているだけだよ


はいはーい、字の読めにゃー大先生再登場。「進化の存在は確認されているが南京事件はあった可能性が示されているだけだよ」とわざわざ僕をidコールして追記ですにゃ(げらげら


いいかい?>文盲大先生

進化という事象があるということは、専門家集団の合意においてまず絶対にひっくりかえることはにゃーだろうというほど堅い科学仮説であることは僕もよーく知ってるよ。しかし、進化の機構についてその細部まできっちりとわかっているわけではにゃー。

そのうえ、何度も何度も言っているけど、自然科学において、「わかっている」というのは真理に到達したという意味ではなく、精度の高い仮説であるという意味だにゃ。あるいは、id:sivadのブクマコメにあるように、科学の再現性とは「厳密に言うなら実験の再現すらこの世では不可能。見ているのはモデルの再現なのです。http://d.hatena.ne.jp/sivad/20061227#p1

ただ

一般に流布する言説として、「進化があったことは科学で証明されている」と言うことはかまわにゃーだろうとは思いますにゃ。


ネットにはり付いて、辞書といえばウィキペディアしかひかにゃー狭い世界にすむチミのために、日本大百科から南京大虐殺の記述を全文引用してあげよう。


  • 南京大虐殺

1937年(昭和12)12月13日、上海(シャンハイ)派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)・第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州(こうしゅう/チューチョウ)湾上陸)の2軍団からなる中支那(しな)方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)が、中国の首都南京を攻略した際、中国軍の捕虜・敗残兵および一般市民に対して行った大残虐事件。この事件を欧米ではナンキン・アトロシティーズNanking atrocitiesとよぶ。日本でも1970年ごろから南京大残虐事件、南京大虐殺とよばれるようになった。


  • 「大虐殺」の実態

 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣(べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。

 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪 63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推測される。

 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭(ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。

 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。

[洞 富雄]


  • 「大虐殺」をめぐる論争

 日本人の多くが、南京大虐殺のことを知るようになったのは、第二次世界大戦後の東京裁判と並んで、朝日新聞記者・本多勝一(かついち)(1932― )の『中国の旅』(1972)に負うところが大きい。しかし、このベストセラーに対して、鈴木明(1929―2003)『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973)が反論を加えたが、鈴木の主張は、事件の存在そのものを否定するものではなく、事件が誇大に伝えられていることを強調するものであった。

 その後、田中正明(1911―2006)『“南京虐殺”の虚構』(1984)が発表されると、その内容が事件の存在そのものを否定するものであったため、日本の歴史家だけでなく中国をも巻き込む国際的論争に発展した。こうしたなかで、旧陸軍の正規将校の団体である偕行(かいこう)社が、『南京戦史』(非売品、1989)を公刊して、少なくとも約1万6000名に上る捕虜などの殺害があったことを認めたため、論争は一段落した。

 ところが、1990年(平成2)のなかば以降、中国の対日批判などに対する反発もあって、虐殺否定論がふたたび台頭する。その代表的存在が、東中野修道(おさみち)(1947― )『「南京虐殺」の徹底検証』(1998)だが、同書の特徴は、捕虜や投降兵などの殺害が行われたことはいちおう認めたうえで、その違法性を否定するところにある。

 被虐殺者の数については、中国政府が約30万説をとっているが、日本の国内では、10数万から20万前後とする説、4〜5万とする説、1万前後とする説、事件そのものの虚構説などの諸説が存在する。数の面でこれだけの違いが出る一つの理由は、虐殺の定義と範囲が論者によって異なるからである。なお、日本政府自身は、南京で不法行為が行われたことを認めており、文部省(現文部科学省)の検定を通過した、中学校や高校用の教科書でも、南京大虐殺事件についての言及がある。

[吉田 裕]



歴史的事実として虐殺があったことが確定していることが前提となった記述ですにゃ。

数字などについては、ちゃんと根拠をあげたうえで「〜と推測される」と確定を避けた記述がなされていることも確認しておくこと。また、話者に依存した記述でにゃーことも確認しておくこと。

さて

「この日本大百科の記述が歴史的事実そのものか?」と問われたら、僕も「否」といいますにゃ。科学仮説が真理そのものではにゃーということと、同じ意味合いにおいて「否」という。また、南京大虐殺という事象があったということについては、専門家集団の合意として絶対にひっくりかえることはにゃーほど堅い学説であることも僕は理解しているにゃ。

つまり、一般に流布する言説として、「南京虐殺があったことは歴史学で証明されている」と言うことはかまわにゃーだろうということだにゃ。



専門家集団への信頼

進化論について僕は基本的なところは理解しているつもりですにゃ。しかしもちろんシロウトの域を一歩もでるものではなく、その全貌を把握しているわけでも細部に詳しいわけでもにゃー。それでも専門家集団を信頼するのは、その信頼が合理的だからですにゃ。以前にも言ったように、専門家集団内で激しい競争が行なわれており、その議論は開かれたものなのだから、その合意された学説を信頼するのは合理的なことでしょうにゃー。

一方、

南京大虐殺については、進化論ほど時間をかけて書籍などを読んだわけでもにゃーのだが、自分で書籍を読んだ限りでは南京大虐殺があったことはガチだと考えており、また、自然科学の専門家集団を信頼するのと同様な理由で、歴史学の専門家集団も信頼しているともいえますにゃ。


あぶりだされたのは何か?

僕の言っているのは、きわめて穏当なことにゃんぜ。

  • ニンゲンは事実そのもの、あるいは真理には到達できない

しかし

  • 対象にする事象によっては、ほとんど確定的だといいえるところまで近づける
  • 事実に近づく体系的な方法論をもった専門家集団を基本的に信頼する

そして

  • これらについては、文系も理系もない*2

ねえねえ、進化が事実だと思っているそこのチミ。チミは何で進化が事実だと思っているの? 進化学の領域すべてをチミは知っているの? そんなヒトは世界に何人もいにゃーだろけどね。

え? 進化論は学会でちゃんと認められてるって?

でも、進化論に文句をつけるヒトタチは後をたたにゃーですよ。宗教さんだけでなく、養老センセイなんかも進化論を疑問視してるよ。養老センセイは東大の教授で医学畑のセンセイだよね

ほうほう、それでも進化論は正しいって? 養老なんてノイズにすぎにゃーって? 世界中の大多数の専門の学者が進化の事実に同意してるって?

スバラチイ。僕もそう思うにゃ。

で、

なんでチミはその同じ態度を歴史学に対して持つことができにゃーの?


[南京大虐殺論争:wikipedia]より引用


虐殺否定説・まぼろし説

一般的に否定派、まぼろし派、虐殺なかった派などと呼ばれる。ここでは否定説に統一する。主な研究者は鈴木明(雑誌記者)、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)などが挙げられる。


このメンツにまともな学者がいるの? こんなの養老と同じノイズじゃん。名の売れたヒトが1人でも反対すればダメというのなら、養老が反対する進化論ももちろんダメだよにゃ。

ここにあげたメンツ以外は、あったことを前提に規模などで論争しているんだろ? 規模の問題にクチバシを突っ込む意志も能力も僕にはにゃーけどな。


ダブスタあるいは歴史の強姦魔

自然科学は事実に迫ることができるけれど、歴史学は事実に迫ることができない、と考えるのは、ごくごく単純に、科学至上主義、あるいは科学教だにゃ。

自然科学の専門家集団を信頼して進化はあったと考えるけど、歴史学の専門家集団は信頼できないというのは、やはり科学至上主義・科学教に基づいたダブスタなんでにゃーのかな?

あるいは、

自然は好き勝手にできにゃーけど、歴史は好き勝手にできるという、いわば歴史の強姦魔の発想にゃんね。

自然も歴史も好き勝手にはできにゃーんだよ。

この、歴史は好き勝手にできない、ということを論じたのは、歴史における狭量な実証主義を批判した小林秀雄でしたにゃ。このネタはまたゆっくり書く。


イースト氏の言説がもたらすもの

イースト氏の言説においては、南京大虐殺という事実の有無について、証拠などはいっさい勘案されてにゃーよね。


さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、

(同、p.189)

公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。


(同、p.231)

市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。


と語ります。

つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。


http://anond.hatelabo.jp/20081201233221


先に引用した日本大百科の記述と、wikipedia:南京大虐殺の記述と比較してみろ。ウィキペディアのほうは「〜したとされる」「〜といわれている」ばっかりだ(うんざり。

歴史修正主義者がネットで暴れ回った結果がこれだにゃ。

イースト氏は証拠・根拠を検討することを一切放棄しているわけだから、進化論や相対性理論*3についてのウィキペディアの記述も、目茶苦茶な難癖を併記した上で、「〜といわれている」ばかりになることも容認しなければならにゃーぜ。

ただでさえいろいろ問題のあるウィキペディアが、糞の役にもたたなくなるわけにゃんな。というか、ネットそのものが肥だめであることを容認することになるにゃ。これは「集合知」の否定だろ。

まあ、現時点でもほとんど肥だめだけどさ、クズは90%*4に抑えておきたいものですにゃ。


最後に

イースト氏の言説に対し、進化論を持ち出したのは、単なる反・反科学の立場からではなく、科学至上主義・科学教のあぶりだしの意図もありましたにゃ。

そして、歴史修正主義が比喩的な意味ではなく疑似科学であることも示したかったのですにゃー*5。これは、id:Apemanあたりもまえまえから言っていることだけどにゃ。

ここ数日で書いたことは、まともな疑似科学批判者であれば、少なくとも真っ向から否定することはにゃーと断言できますにゃ。なぜなら、まともな疑似科学批判者は、自然科学を特権化することはにゃーからだ。だから、歴史学が事実に迫れないなどというはずもにゃー。

また、普段は意識されてにゃー自然科学の特権化が、歴史学などにおける認識論的相対主義の温床となり、南京虐殺の否定*6のような歴史修正主義を蔓延させる風潮を後押ししているかもしれにゃーということも、今回のやりとりで見えてきたことでもありますにゃ。

*1:このどうしようもにゃーブクマコメに、現時点で9つの星がついているにゃ。つけたのは、id:suekichi-sunid:CrowClawid:magician-of-posthuman×3、id:Lhankor_Mhy×3、id:adoratio

*2:ガクモンそのものの権威性・権力性についても文系も理系もにゃーけどな。まあ、この話題はおいとこう

*3:相対性理論もアレなヒトタチの巣窟になっている

*4すべてのものの90%は屑である、という絶対真理 - 地下生活者の手遊び

*5:成功しているかどうかはなんともいえにゃーが、まあある種のあぶり出しまではできたかな、と

*6:「の否定」の部分は追記

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年12月4日 13時20分

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[小ネタ][歴史修正主義][オカルト]戦死者の霊のいない沖縄を宜保愛子が行く(追記で応答


東浩紀の渦状言論: 歴史認識問題についていくつかのブクマコメにも書いたんだけど、どうやらイースト氏はアウシュビッツでは霊を感じたけど、南京では霊を感じなかったということらしいにゃ。ポストモダンというだけでなく、スピリチュアル系でもあったということで、イースト先生と呼ばせていただく。


いや、それにしてもイースト先生のブログに表示される女の子がむちゃくちゃかわいいね*1。あれはイースト先生の娘さんのようですにゃー。うちのガキと同年代のようで、このあたりの女の子のかわいさには正直弱いです。DISりが鈍ります。

というか、娘さんの写真のせてダイジョブなんだろか? 老婆心ながら心配だにゃ。

それと、娘さんの写真をのっけていたら、政治的にシビアな発言はしにくくならにゃーかな? ガキってのは親を強くも弱くもしますからにゃー。

娘さんの写真をみただけで、いろいろと気を回しちゃうよ。僕も堕落したもんだにゃー。


イースト先生DISをする気分でなくなってしまったので*2、雑談に流れることとしますにゃ。


むかーし、宜保愛子先生がひっぱりだこだったころ、定食屋かどっかで

  • 宜保愛子、沖縄を行く。「沖縄は霊の跋扈する土地でした」

とかなんとかいう感じの記事を女性誌(たぶん微笑か女性セブン)で見かけましたにゃ。4〜5頁くらいある結構気合いの入った記事で写真もふんだんにありましたにゃ。


僕も読む前から

「そりゃ、沖縄に霊がうようよいるのはアタリマエだろにゃ。戦争であれだけ人が死んどるもの」

と思っていたんですよにゃ。

もちろん、僕が甘かった。

沖縄にいる霊は、心中したカップルの霊とか姑にいじめられて自殺した嫁の霊とか、まあそんなんばっかでしたにゃ。戦死者の霊はどこにもいなかったのですにゃ。宜保愛子によると、沖縄は愛憎が激しく家族や恋人の間がどろどろになってしまうのだそうだにゃ。

うんうん、きっと戦死者の霊は靖国にいるんだよね。地縛霊になんてなってにゃーよね。


どうも今のオカルト系というのは「体制側」に回収されちゃってますよにゃ。

江原あたりをアウシュビッツに行かせて番組を録ったらどうなるだろにゃ?

きっと江原はアウシュビッツで骨を撫でながら

「前世はダビデ王の側近でしたね」

とかしゃべくるのではにゃーだろうか*3

いや、I田T作センセイを連れて行くのもいいかも。

某学会の理屈であれば、前世でなんかワリイことをした因果で虐殺されたことになるかにゃ?



オカルトが「体制側」に回収されていくのは、僕としては悲しい。


以前にも反体制運動とオカルト - 地下生活者の手遊びで引用した エリアーデ「オカルティズム・魔術・文化流行」より


ボードレール、ヴェルレーヌ、ロートレアモン、ランボーから、現代の作家、アンドレ・ブルトンやその弟子たちに到るまで、これらすべての作家たちは、オカルトをブルジョワ的体制とそのイデオロギーに対抗する強力な武器として利用した。彼らは現代の公的な宗教、倫理、社会慣習、美学を拒否する。P91


彼らがグノーシス派その他の秘密結社に関心を寄せたのは、彼らの並外れたオカルトの知識のためばかりではなく、そのような団体が教会から迫害されてきたからであった。P92


ボードレールからアンドレ・ブルトンに到るまで、フランスの前衛作家や前衛芸術家にとってオカルトに掛り合うことは、西欧の宗教的文化的価値に対する最も有効な批判と拒絶のひとつを表していたのである。P93



ポストモダンはオカルトと手を携えて、まじめに反体制しようよ!


100字では応答できにゃーので追記で応答 4日14:05ごろ

id:complex_cat

ニャンコ先生らしい素晴らしい視点だけれど,こういう年端も行かない頃からトンデモに利用される子供のための怒りはない?就学年齢含め子連れのあざとい勧誘は非人権カルトの定番。次世代のための反体制じゃないの?

愛娘の写真をブログにのっけるのはただの親馬鹿かと。一般に、言論において家族の写真をのっけることにメリットはにゃーわけで、非人権カルトのガキ利用とは明らかにちがうのではにゃーのかな。

ガキの写真見てDISが萎える僕に「首尾一貫せんか!」と文句を言うのは当然だと思うけど、イースト氏がガキを盾に取っているかの見方はさすがに失礼だよ。

まあ

今用意している記事で、またもイースト氏をDISせざるをえにゃーことになりそうにゃんが。


id:letterdust

「この世の非業の死を遂げた命が霊になるならオキアミの霊とかどんだけいるんや」と上岡龍太郎が言ってた。

それについては、リアルな輪廻 - 地下生活者の手遊びというエントリでネタにしましたにゃ。

*1:うちのガキほどではにゃーと言っておくが

*2:実はすごく情実によわい

*3:輪廻を前提にされたらユダヤ人は怒るだろうにゃー

作者:tikani_nemuru_M

更新日:2008年12月2日 15時6分

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[自然科学][応答][歴史修正主義]東はこういうべきだった・公共性と歴史と科学(追記で応答


はてなブックマーク - 進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀 - 地下生活者の手遊び

まあ、東浩紀も一応予防線は張っていて

などに応答しますにゃー。


事実を扱うのは科学

自然科学は事実の共有を可能にしたという意味で、ジンルイにとって特別な地位をしめていると、科学論関連で何度か述べていますにゃ。で、これは自然科学以外の諸科学にも基本的にあてはまることだと考えますにゃ。事実というのは、自然現象にだけあてはまるコトバなどではにゃー。

よって、事実認識が問題となった文脈において、科学を持ち出すのは当然のことではにゃーでしょうか?

科学を信仰するとかいう大仰な話ではなく、事実認定に関してジンルイが作り上げたもっとも強力で有用な体系が科学であるから、事実認定において科学を持ち出したというだけのことにゃんね。


自然科学も構成されたものである

  • 自然科学は事実の探究で、歴史学(人文科学・社会科学など)は解釈である

という俗論をよく目にしますにゃ。しかし、自然科学だとて、データの【解釈】によって仮説・理論が構築されているのですにゃ。

ここでは別に自然科学理論に対する社会構築主義的な主張をしたいのではなく、データが科学的方法論や直観によって理論構成されていくものだという、穏当な話をしているだけのことですにゃー。


あえてこういう言い方をするけど、ニュートン力学というのはひとつの解釈体系であり、相対性理論もまたひとつの解釈体系ですにゃ。そして、ニュートン力学も相対性理論も、真理そのものではにゃーのですね。科学理論というものは仮説であり、いうなれば解釈といっていいわけで。

ただし

ニュートン力学という解釈体系(=仮説)は、実に「使える」ことは明らかですにゃ。現代文明がその有用性を日々証明し続けている解釈体系だということですにゃ。そして、相対性理論となると、さらにその「近似」の度合いが強い、つまりニュートン力学よりもさらに精確な解釈体系だということにゃんね。

つまり

  • 自然科学理論も構成された解釈体系であり、真理そのものではない

しかし

  • その解釈の精度をあげていくことは可能である

真理そのもの、歴史事実そのもの、「物自体」に到達することはできなくとも、近づいていくことはできるのではにゃーの? 少なくともそれを志向するのが、ガクモンであり科学というものですにゃ。

歴史学においてもおんなじことですにゃ。無論、歴史学には歴史学固有の方法論はあるだろうし、そもそも歴史的事実というのはその複雑さが自然的事実の比ではにゃーだろうから、そんな簡単なものではにゃーことはわかるけどね。

とはいえ、南京で旧皇軍により組織的な虐殺があったかどうか、というのは単純な事実認定に属する話のはずですけれどにゃ。その実際の規模だとかメカニズムだとかいう話になると、そうそう一筋縄でいかにゃーだろうね。


というわけで、歴史学が解釈だというのなら、自然科学だって解釈だよ。歴史学の困難さは認めるけれど、歴史学は事実に迫ることはできにゃーっていうのも根拠がにゃーよな。

というか、自然科学ってのはニンゲンが事実に迫ることができるということを証明してると僕は思うのですにゃ。他の諸科学だってできにゃーってことはにゃーだろ♪(←楽観的


なぜ進化論をひっぱりだしたか

「歴史的事実は科学の対象にならない」、という不当な批判が進化論に対して投げ掛けられているからですにゃ。

「実験による検証ができない、再現性がない、だから進化論は科学ではなく「物語り」にすぎない。だから少なくとも創造論と対等に扱うべき」という難癖がつけられているわけですにゃ。

この難癖のつけ方が、歴史修正主義と同じ構造なんだよにゃー。

どうでもイースト氏の言説は、明らかにこの難癖にコミットしているにゃ。

チシキジンならオミットせんか!


と、ここまでがブクマに対するざっくりとした応答ね。

では、以下は増田への応答。


にゃるほど愚行権

さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望している。ゆえに、


(同、p.189)

公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。


(同、p.231)

市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。

と語る。


つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。



にゃるほど、イースト氏が容認しているのは歴史修正主義ではなく、馬鹿であり愚行であるということにゃんね。確かに馬鹿であることを禁止することはできにゃーし、自由主義政体においては愚行権がありますにゃ。

うん。【私的】な言論において、愚行がまかりとおることを僕も認める。


公共圏

大塚・東の対談では、公共性が問題になっているようにゃんね。

ハーバーマスの公共圏に関する議論なら読んだことがあるので、そのあたりをベースにちょっと考えてみますにゃ。ちょっと乱暴に、しかも記憶にたよってハーバーマスの公共圏概念の特徴をいくつかあげてみると

  • 公共圏は公権力に対抗するための言説空間である
  • 発言者の出自は問われないが、発言の作法(ソースの提示・論理性など)は問われる

では、増田の記事からまた孫引きね


東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。


大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?


東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。


大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。


東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。


大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をばったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。


東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。