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トップ > 田舎 > 田舎 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月5日 7時)
紅葉がこんなにきれいとは知りませんでした。
不覚にも、この十年くらい山の風景に魅せられてきましたが、紅葉がこんなにきれいなものだとは知りませんでした。たぶん寒くなるはじめだから外出を控えていたり、紅葉は人で込むというイメージがあって、紅葉のきれいな時期に出会えなかったのでしょう。
ふつう紅葉といえば寺社仏閣の紅葉がイメージされますが、私が感動した紅葉というのは、真っ赤な紅葉というよりか、山が黄色に染まったり、柿色に染まったりする中途半端な変色でありますが、それでも山全体がこのような変わるとは知りませんでした。いままで見慣れていた緑の低山がこんなに変色するとは知りませんでした。知らないことは感動を与えてくれます。知らないおかげで新たな感動に出会えました。
二上山も手前の森も赤や黄色に紅葉しています。緑の山色しか知らなかった私は山の色がこんなに変わるとは知りませんでした。
低山のほうが紅葉は華やかですね。紅葉というより、柿色に変色していますが、山がこんな風に紅葉するとは知らなかった私は新たな感動に感激しました。
二上山山頂あたりはかなり紅葉しているようですね。南に下って葛城山や金剛山の紅葉をたしかめようとバイクで走ってみたのですが、高い山はまばらに紅葉してけっこう緑深い山のままですね。
生駒山脈をみると山全体が赤く紅葉しているのが見えました。バイクで紅葉している山の写真を撮ろうと近寄ってみると住宅地に阻まれてきれいな山の写真を撮ることができません。写真は小さな寺の境内ですが、とてもきれいに紅葉していました。
赤色、黄色、緑色などのさまざまな紅葉に囲まれた境内に立っていると、この世のものとは思えない美しさにひたれました。ほんと、言葉を失いますね。
生駒の山をのぼっていると、六万寺東から、らくらくロードという整備された登山道があるのを知りませんでした。近くの方々が散歩していましたが、うらやましいですね。山は紅葉というよりか、黄色に変色していましたが、とてもきれいに思えました。
生駒の中腹から大阪のビル街が見えます。向こうに並んだビル街はたぶん御堂筋沿いのビルなのでしょう。手前は東大阪市になります。
奈良の山垣まで足をのばしてみましたが、紅葉した山全体を撮れるビュースポットになかなか出会えません。ダムの黄色く変色した山の写真を撮りました。
竜田川沿いのもみじもきれいに紅葉していました。向こうの矢田丘陵もきれいに紅葉していました。紅葉の低山を撮るスポットを探すのは住宅地などに阻まれてなかなか難しいものですね。
とつぜんの雨に打たれて東屋で休憩していると日差しととも二重の虹がかかりました。ラックなことがあればいいですね。
作者:うえしん
更新日:2008年12月5日 10時54分
『希望のビジネス戦略』 金子 勝/成毛眞
希望のビジネス戦略 (ちくま新書)
金子 勝/成毛眞
私にはビジネス脳とか商売脳というものが欠けているのでこの本について語れないと思うのだけど、まあ少なくともタイトルのような希望を門外漢に与えてくれる本ではなかった。金子勝は格差社会を憂える経済学者であるのは知っているが、成毛眞という人はマイクロソフト日本法人の社長をしていて、食うに困らない金を稼いでいまは投資コンサルタントをやっているらしい。
私はほんとビジネスをやるとか金儲けをやるとかの才覚とか興味がほぼ欠落していて、カネを稼いで食っていかなければならない社会ではなかなかつらいものがある。目標が違う星に生れ落ちてきたみたいだ(笑)。しかし経営者も会社を大きくしたいとか株価を上げたいという人は二割ほどしかなく、銀行の頭取もつぶさないためにはなんでもするといった後ろ向きだそうだ。ビジネスや金儲けの野望より、学歴社会で頭をよくすることが目標みたいな人生観をたたきこまれたためにこの日本は行きつまったのかなとも思う。金儲けや商売の欲望が植え込まれていないんじゃないかと思う。
日本の社会はこれからどのような産業を生み出したり、雇用を創出したり、あるいは終身雇用が崩壊し、いい大学いい会社への成功コースも崩れ、非正規で使い捨てにされる社会でどうやって生きていったらいいのかわからないことだらけである。新しい産業とか希望のビジネスといったものはどのようにしたら生み出されるのだろうか。そういう新しい産業、雇用を創出する業種といったものがいまひじょうに切望されると思うのだが、この日本からそのような新しい芽が生み出されそうな予兆すらない。われわれはどうやって生きていけばいいのだろうか。はたして生き残れるのだろうか。
経済に希望がなければ宗教にすがるしかないのだろうか。それとも趣味であったり、そのほかの価値観であったり、またファミリーや人とのつながりであったりするのだろうか。経済に期待したり依存しないことによってその価値観につぶされることは少なくとも減るだろうが、食えなければ元も子もない。国民全体で熱狂できる生産性の乏しいものが必要だと成毛眞はいうのだが、それはまるで戦争を示唆しているようで、恐ろしい話である。ふたりともテロが増える治安の悪い世の中になると憂えているが、そういう社会の分岐点にくるまえに「希望」がどこからか生み出されてほしいものである。戦後の日本はモノがたくさんあっても、「希望」がひとつもない社会をつくりあげてしまったのである。
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作者:うえしん
更新日:2008年12月4日 21時15分
『この国の経済常識はウソばかり』 トラスト 立木
この国の経済常識はウソばかり (新書y)
トラスト 立木
この新書はべつにたいした感銘は受けなかったのだが、「日本は全体的に貧しくなっているんだな」とじわじわと思わせた。若者の非正規はそういう転落の波頭にしかすぎないんだなと思わせる。もう日本の成長と拡大の時代は終わってしまったことをあらためて感じさせる。
この本がいっていることはむかしの高度成長期の記憶や経済常識がまだはびこっている、そのころの成功体験が忘れられず、いまだに当時の常識・経済対策にしがみついているといったことだろう。この現在の食い逃げ可能な世代や、高齢者のリッチマンの大風呂敷の既得権益やツケのために若者が犠牲にされつづけているということである。この世代の記憶や経済常識でいまの時代はもう乗り切ることはできないということだ。
この社会の制度や常識はすべて右肩上がり時代の政策によって生み出されている。右肩下がり時代になってそのしわ寄せがすべて若者に押しつけられ、既得権者はなんとかその権利を守ろうとしてますます若者を食い物にする。高度成長で可能だったしくみがすべて若者の高負担や犠牲となってのしかかる。年金にしろ、福祉制度にしろ、非正規の増加、公共工事の借金、上方婚を狙った結婚、マイホームローン、すべて若者の犠牲や悲劇を生みながら、高齢者は既得権益を守ろうとする。押しつぶされてゆくのは若者であり、未来の社会であり、未来の日本なのだろう。
人口増加や高成長が見込めなくなった社会の常識、政策といったものがまったく生み出されていないのである。右肩上がり時代の負債と記憶がまったく払拭されないのである。そして負の遺産に若者が押しつぶされつづける。政治にとって新しい問題とは若者の貧困、若者の格差拡大、結婚難などである。既得権者の問題意識にはこの新たな問題の緊急性が認識されないのである。だから世代間のゆがみをもった経済常識は問われなければならないということなのである。
お年寄りが強者になり、若者が弱者になってしまった時代のゆがみを正さなければならない。成長が終わってしまったことは多くの人が共有するのだろうが、右肩下がりの時代にはなにが問題になり、どのような政策が必要になるのかのコンセンサスができあがっていないのだろう。かつての時代の政策・常識・夢といったものがすべて新しい世代の若者の肩にのしかかり、重荷になり、犠牲を強いている。過去の成功モデルを捨てることなんてできるのだろうか。
日本はどうしようもなく貧しくなり、転落の避けられない社会になってしまったのだと思わずにはいられない。右肩下がり時代の政策や社会保障のありかたといったものが新たに打ち立てられなければならないのだろう。人々が転がり落ちる下り坂社会でどういった生き方をすればいいのだろうかと思う。下り坂社会でも笑っていられる発想の転換がほしいところである。アラフォー世代――かつては新人類世代とよばれた人たちはトレンド好きだから、貧困や転落もトレンドの先頭に乗っていると開き直るか(笑)。
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作者:うえしん
更新日:2008年12月3日 17時28分
『リストラとワークシェアリング』 熊沢 誠
リストラとワークシェアリング (岩波新書)
熊沢 誠
日本での労働政策とか労働基準法なんてなんの役にも立っていないと思うのだが、これから失業が増えたり、雇用が増えないようでは、労働時短や労働時間規制、ワークシェアリングがものすごく重要な政策になってくると思う。成熟社会で需要が伸びないよう社会はみんなで少ないパイを分け与えるしかないのだ。その意味でサービス残業規制や時短の流れは強い意志で断行されなければならないのだろう。
この本は2003年時点のリストラの状況が克明につづられているのだが、なにより驚いたのだが、口先だけだと思っていた日本的終身雇用が名実に終わってしまったということだ。東芝や日立、松下電器、JR東西日本、NTT東西日本などの主要な企業が大かがりな人員削減計画を発表している。40歳以上、勤続10年以上の中高年社員が希望退職の対象になっているのである。
いままでの日本は大学を卒業して大企業や有名企業に定年まで勤めるのが「正しい人生」「正しい生き方」だと思われてきたし、それが「人生の成功」を意味するのではなかったのか。そのような成功の人生レールが日本の主要な大企業からとつぜんはしごを落とされてしまったのである。いままでの「正しい生き方」「成功した人生コース」とはいったいなんだったんだろうと思う。だれがそのような喧伝した成功コースの責任をとるというのだろう。この大きな衝撃の意味が日本でまだ問い直されていないように思える。
若者が非正規におきかえられ、勤続年数の長い中高年のクビが切られ、残った三十代の長時間労働がまかりとおる世の中になってしまった。19世紀的な長時間労働が生きのこり、過労死があとをたたない。日本の賃金水準を100とすれば、アジアNIESでは約40、中国では2,3という。いくら日本で正社員を低賃金の非正社員におきかえても「追いつかない」のである。
日本の雇用が崩れ去っているというか、なんの権利もないままに嵐の中に放り込まれているといった感じがする。基幹的な作業も低賃金の非正規におきかえられるし、解雇が社会的非難をうけた時代からかんたんに中高年がリストラされる世の中になってしまったし、労働時間制限あるいは最低賃金をとくために正社員の名ばかり管理職や長時間労働がまかりとおる。これまでのいっさいの労働保護の原則がなぎ倒されて、労働者にはひとつの人権も守られないようになってきたように思える。
そのような状況の中でワーキングプアやネットカフェ難民、非正規、正社員の長時間労働などの増加とすべて連動しているのだろう。このひどい労働状況の転換期の中で労働者はなにひとつ権利や守られるべきものをもたないのだろうか。ワークシェアのような時短によって仕事のパイを分け与えるといった政策が強い意志で断行される必要があるのだろう。ヨーロッパで進んだ時短には失業率増加や成熟市場のパイの減少という背景があったからこそおこなわれたのだろう。日本も早くにそのような断行をおこなわないと、過労死的な競争はますますとどまるところを知らないままだろう。日本の国民が生き残る道はそうたくさん残されていないように思える。日本人が生き残るための政治的断行が必要なのである。
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作者:うえしん
更新日:2008年12月2日 16時33分
裏切られた日本的サラリーマン
むかし日本の会社は「家族主義」だとかいわれ、社員を生涯守るものだと思われていた。一度ひとつの会社に勤めれば、よほどの失態を犯さないかぎり一生安泰だと信じられていた。そういうのを日本文化の美徳だとか、日本的経営のよさとかほめたたえる財界人や文化人がいた。日本人の優れた温情だとか穏やかな性質のためだとかがその理由とされていたのである。
かつて日本は解雇反対や解雇差し止め裁判が興隆していたことがあった。会社が解雇を口に出すやいなや社会全体が非難し、罵倒するような風潮があった。そういう雰囲気の中で日本のサラリーマンは安心して会社に勤めていけばよかったのである。ひと昔前に興隆した労働争議や労働ストライキといった激しい社会運動はすっかり身をひそめていった。会社と対立したり、会社に文句をいうことがひたすらなくなっていった。家族主義や福利厚生に会社はいいところだとすっかりほだされてしまったのである。
「会社人間」や「働き蜂」、「社畜」だと罵られるような滅私奉公、企業中心の働き方もそういう情勢の中でつちかわれていったのだと思う。生涯を保障されるのなら、こちらも生涯を捧げなければならないといった雰囲気があったのかもしれない。
アメリカ発の金融危機のせいで自動車工場の派遣が3万人も首切りをされ、学卒者の内定取り消しが話題になり、IBMの正社員リストラの噂ももちあがってきた。IBMといえばアメリカ企業では珍しく終身雇用を守る企業だといわれていたのではないのか。
マスコミがあまり報道しないためか私はよく知らなかったのだが、会社都合による離職者数は90年代以降増えつづけ、01年、02年に毎年80万人もの人たちが会社からリストラされ、あるいは倒産で職を失っている。
2001年には主要企業が大がかりな人員削減計画を発表している。東芝、日立、JR東日本、NTT西日本が一万越えといった希望退職を募っている。日本の主要な企業はほとんど人員削減をおこなったのではないかと思えるほどである。終身雇用を守るといっていた松下電器(現パナソニック)ほかも同様である。
対象者はだいたい40歳前後からの中高年層以上である。十数年も会社に滅私奉公で貢献してきて、長期勤続や愛社精神をもつことがエラい、正しいといわれてきた日本のマトモな、スタンダードな生き方をしてきた人たちである。世間で「正解」「正しい」といわれる生き方をしてきたはずなのに生涯を保証されず、道半ばで放り出されるのである。まるで愛してきて一生懸命に尽くしてきた夫に捨てられる妻のようなものではないのか。かれらの生き方は「正しかった」といえるのだろうか。
それにこの前後のサラリーマンといえば給料が上り、マイホームローンや教育費でいちばん金のかかる時期である。しかもそれまでの転職市場というのはだいたい30歳から35歳くらいまでの年齢制限があたりまえにおこなわれていたのである。転職市場がほとんどない荒野に中高年が放り出されたようなものである。日本的な終身雇用、家族主義的日本的経営といったものはここで死に絶えたのだろう。
若者や女性の雇用がどんどん非正規雇用におきかえられていっている。労働人口の4割に達する勢いである。若者が切られる一方で、中高年も確実に切られていったのである。あまり耳にしなかったためか、日本の雇用情勢、日本の雇用スタイルといったものは確実に変わっているのである。この大変化のアナウンスが日本の報道機関からあまり喧伝されていないように思うのは私の情報欠落のせいなのだろうか。
日本的な学校を卒業して出世コースをある程度のぼり、定年まで勤めるといったスタンダードなサラリーマン・コースは完全に終わってしまったのだろうか。安泰だと思っていた定年勤続のモデルは早期退職制度・人員削減計画で完全に断たれてしまったのだろうか。だとするのなら、われわれは人生コースをどのように描いて、なにを目標に生きていったらいいのだろうか。
日本のサラリーマンは終身雇用を約束に滅私奉公に働いたり、長時間労働を甘んじて受け入れてきたのではなかったのか。そのような安心な約束があったから、会社との対立や争議を避けてきたのではないのか。すっかりサラリーマンがおとなしく、ものわかりがよくなったのをいいことに、賃金切り下げ、非正規化、リストラが横行しているように思える。
かつては解雇や賃下げに社会的な怒りを口にしてきた日本人はどこにいってしまったのだろう。終身雇用を約束されていたと思っていた日本人は中高年でのいきなりのリストラに約束違反や不履行の怒りを感じないのだろうか。日本的家族経営とうたわれてきた空文句の約束に裏切られたと憤りを感じることはないのだろうか。大々的な約束不履行がおこなわれているのにこの日本人の静けさはなんなのだろうと思ってしまう。たとえていうなら、戦前の軍国主義の約束が失われたようなものである。第二の敗戦と約束不履行が大々的におこなわれているのに、この物分りのよさはなんなのだろう。
私たちはこれまでの約束を180度転換してしまう企業というものを信頼できるのだろうか。一生懸命に働いたところで捨てられるし、そこそこ働いていても捨てられる。滅私奉公で働いたとしても定年まで保証してくれるわけではないのである。あまり働きたくないと思えば非正規で正社員の半分の時給で働かされ、不景気に雇用の調整弁にされてしまう。企業なんてまったく信頼できないし、いいように使われるだけではないのか。しかしちゃんと働かないことには勤め口さえ失ってしまう。私たちはこの時代を生きるのにどの戦略をもちいれば、いちばんトクな生き方ができるのだろうか。
日本企業に裏切られた中高年はなにを思うのだろうか。企業も、社会も、人々も信じられなくなった日本の社会にどのような不信の関係が残されてしまうというのだろうか。荒廃した、荒くれだった人間不信の大地だけがとり残されていってしまわないだろうか。
▼参考データ
厚生労働省:平成19年雇用動向調査結果の概況
「図10 離職理由別離職者の割合」に注目してください。経営上の都合による年齢別の離職者数に注目してください。40歳から10%に達し、55歳から59歳が20%に達します。
日本の労働者の実態 「大量リストラ」 2001 主要30社の人員削減計画
作者:うえしん
更新日:2008年12月1日 16時30分
『就職がこわい』 香山 リカ
就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)
香山 リカ
秀逸なタイトルなのだが、もちろん精神科医の香山リカが「ではどうしたらいいのか?」に答えてくれるわけがない。「なぜ?」とか「どういうことなのか?」あたりはうろうろしてくれるのだが、処方箋は示してくれない。おまけに精神科医は産業構造や経済趨勢に目を向けないのだから、ひたすら心の内面に沈殿するだけである。心理主義は問題に一筋の光を当てるが、雇用の変化がどういうものなのかといった心より大事な問題を語れないのだから、精神科医からの職業観はあまりクローズアップすべきではないのかもしれない。
フリーターやニートがはじめて騒がれたとき、「怠けている」とか「やる気がない」とか精神論で非難された。心理主義な問題とされたのである。最近ようやく明らかになりつつあるのだが、かれらの増加は雇用情勢の悪化によるものである。心理主義的な説明は雇用や産業の変化を見抜けない、視野狭窄的な弊害を生むだけである。ただその前段階で心理的な問題というのがあるのもたしかなのであるが。
今日の雇用の問題というのはかつて主婦や学生の片手間仕事といわれていたパート労働で生計をたてなければらない人たちが大量に生まれたことである。企業や社会がこれまで「一人前」とか「成人」と見なしていた正規雇用からおおくの若者を拒絶してしまったのである。職業中心や職業によってりっぱというアイデンティティを保ってきた日本人にとって、それはアイデンティティ瓦解になりうる。職業から見捨てられた非正規雇用者はなにによって社会的地位、自尊心を保てばいいのだろうか。職業中心の価値観ではない、もうひとつの価値基準が必要だということである。
この本でふたつの指摘をとくに注目したいと思う。就職活動の場が全人格を否定されるような恐ろしい尋問の場に思われていることと、若者の低い自己評価と自分は特別だと思う自己愛の落差である。このふたつの性質が職業に関わるさまざまな問題を生み出しているように思える。
就職活動は恐怖だと思う学生は「面接官は意地悪で、面接は自分が徹底的に攻撃、批判される場」と思っている。警官の尋問のように思えてしまうのである。香山リカはそれはお客様のように歓迎されてきたかれらが、はじめて自分が強く望まれていない場に出会い、拒絶や嫌悪を増幅してしまうからだといっている。人間関係で嫌われることを人一倍恐がってきたかれらは、そういう試される場がひじょうに恐ろしいのである。全人格が否定されるような恐怖を覚える。
「ではどうしたらいいのか?」にはあいかわらず答えられていないのだが、慰めの言葉がいくつかある。「就職試験なんて宝くじみたいなもの。採用されないのがあたりまえ」や、「早期離職者が増えているのだから採用試験なんか当てにならない」といった言葉がかけられている。私も就職活動を恐がって気味悪く思い早々とあきらめたクチなのであるが、否定を恐がる人というのは向こうの都合をよくわかっていないのではないかといまでは思う。
就職なんて向こうの都合によって決まるのであって、向こうの視点や都合などの情景の想像力をつちかうことが大事なのかなと思う。向こうは店で商品を選ぶように求職者を見ているのだから、そういう商品選別の目を自分自身に適用してみたらむこうの都合や心理がどのようなものか少しはわかるかもしれない。かれらは能力や職務遂行能力という私の一部分を見ているのだという切りとり方もできると思うが、まあそういう機能別の切りとり方は難しいかもしれない。学生にとっていちばんの恐怖はやはり会社や面接というものが実感のともなわない得体の知れないものに評価されるということにあるのだと思う。どのような視点や用途によって私を評価しようとしているのかわからない。相手はどのような都合で私を選ぶのだろうか。相手の都合で自分を切りとってみるということが大切なのかなと思う。
就職を恐いと思うのは私もよくわかるのだが、いまでも克服できていないのだが、自分のネガティヴさ、否定面を岩のように動かし難く思い込んでしまうものである。自分なんてダメだと思ってしまうのである。まずコミュニケーション能力への恐れがある。ポジティヴさ、プラス面、ウリといったものがまったくないように思ってしまうし、自分を売り込んだり、営業したりする根性をもてないものである。自分の長所やウリをもちだすことにゲロを吐きたくなる。営業や商品宣伝の技能をまったくもてないのである。まあ、それは演技性とか大げさな身振り、褒め言葉といったものを嫌ってきたために自分の抑制となってきたと思うので、演技や演劇能力を試すという割り切り方が必要なのかもしれない。
もうひとつの指摘で的を得ていると思うのが、その他大勢のひとりにすぎないという落胆の気持ちと自分は特別だという気持ちとの葛藤が若者に強いということである。自己評価の低さと自分は特別だという気持ちの同居は、現代人の特徴だといっていいと思う。基本的に人間は自分が世界の中心にありながら、他者にとってはいてもいなくてもいい存在である。
その落差がわれわれに優秀さや偉くなること、認められることをうながす。他者から自分に価値はないと思われることが耐えられないのである。他者から承認されることが人間の生存条件でもあり、価値をあげることが生きる糧として感じられてきて、消費社会においてますます自分の価値のひきあげが煽られる世の中である。だから自分が価値がないと思われることが恐ろしくて仕方がない。
職業においてもやりたいことや自己実現が煽られる世の中である。しかし現実はそういう構造でないことにますますま焦燥感を駆り立てられる。この本で指摘されているのだが、高卒求人にはよい仕事はほとんどないといわれている。ドラマに出てくるような仕事や華やかな自己実現をとげる仕事、ホワイトカラーなどの仕事などのぞめないと書かれている。自己実現を煽る社会は酷なのであり、望む仕事につけない人は自分をどう慰めたらいいのだろう。高校の進路指導教員はこういう。「やりたいことは仕事が終わってからやれ。自己実現だとか私らしさを求めるな。食うために働け」 もっともな言葉であるが、自己実現を煽られる世の中では、強い確信をもてないとすぐに揺るがされるように思うが。
世界の中心でありたいという気持ちと、世界の片隅の低い自己評価で生きざるをえない自分。その葛藤に若者は低い自己評価から逃れようとまわりをうろついてみる。どこにいっても世界の片隅で低い自己評価にうずくまる自分を見つけてしまう。いっそ外の世界を断ってしまおう、と試みたのだがひきこもりかもしれない。われわれはマスコミの煽られた自分への特別視といった観点を削ぎ落としたり、抑制したりする必要があるのだろう。マスコミが煽る価値観を脇にどけてしまうのである。自分のマスコミや社会によってつくられた価値基準というものを、切りとったり、遮断したり、高い特別視と低い社会的価値をとんとんと均すといった方法もあるだろうし、世界が不満だらけなら、こちらの価値基準を書き直してみるという方法もあるだろう。低い価値でも平気になる、楽しめるという価値基準をつくることが大切なのである。そういう自我の価値観を落とすといったことを二千年もかけてやってきたのが仏教なのであるが。
いまは雇用情勢が大きく変化し、これまでの日本人の人生観や職業観でやっていけいな時代がやってきた。大きな認識の変化や価値観の変化が求められるところなのである。職業から拒絶されたり、低い地位や価値観で生きていかざるを得ない節目の時代を迎えた。自分の価値観と社会の価値観の変化のなかでどうやって自分の価値観を維持してゆくのかということが大きな問題になってきたのだと思う。自分の価値観の平安な落ち着きどころといったものを見つけてゆかなければならないのだろう。
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作者:うえしん
更新日:2008年11月29日 9時28分
『パソコン仕事技大全』 富士通ラーニングメディア
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まあ、こんな本のレビューを書いても仕方がないのだが、エクセルやワードを使いこなせない人にはこんな本がありますよとはお知らせできるかもしれない。事務系や営業系の仕事ではエクセルやワードを使えることが採用の必須条件になっているのだろうか。私は現場系を渡り歩いてきたからエクセルはほぼ使えなくて手こずってきた。だいたいエクセルは私のパソコンにインストールされていないのだが、こんな使い方があるのかと知るだけでもお役に立つというものだろう。
使い慣れた人には当たり前の話だろうが、エクセルはこんな便利な技があるとびっくり。
「表の行と列を入れ替える」「顧客名簿からたとえば三十歳以上の男性を選ぶ」「合計値、平均値を関数で出す」「合計値を一気に出させるフィルハンドル」「面倒な商品番号をプルダウンメニューで表示させる方法」「最大値、最小値、平均値を出させる方法」「「目標を達成した月、商品、人を一目でチェック」「成績ベスト10を一発で調べる」
エクセルをまったく使えない私はこれらの便利な技にびっくりしてしまった。だいたい私はこんなデータをあつかう仕事なんかしてこなかったのでエクセルは使えないし、どんなことに用いるのかも知らなかった。いやはや、こんな使い勝手のいい技があると勉強できただけでも収穫だ。事務系の採用条件にはエクセル、ワードが使えることと書いてあることが多いが、なるほどこれは便利なアプリケーションであるな。これらの技を知らない人はいちいち手作業でめんどうくさい仕事をしているばあいもあるだろうが、こういう技を知るだけでいままでの苦労はなんだったのだろうと思うことになるだろう。
ワードではこんな技が紹介されている。「本編と資料編のページ番号を変える方法」「文書の一部分をデスクトップにスクラップする」「重要箇所だけを読み込む方法」「▼の文字を横倒しにする方法」「うろ覚え単語を検索する方法」「文章の切り貼りを一気に行なう方法」「大きさの違う表を並べる方法」
デスクトップに文章の一部分をスクラップによって貼り付ける方法なんか知らなくて、私はとつぜん出現した「スクラップ」という項目を部品系だと思って処置できなかったのでようやくその用途がわかった。長い文章の要約の作成という項目があるなんて知らなかった。▼文字の横倒しの方法も知らなかった。コピー&ペーストは一回きりしか使えないと思っていたが、Ctrl+F3で貯めこんでいき、Ctrl+Shift+F3でいっきょに貼り付ける方法があるのだな。まあ、そういう技を知ることによって効率化が図れるということだ。
基本的に私はアプリの使い方というのは適当に使っていきながら覚えていく方法をとっていて、それでわからなかったら使うのをやめてきた。体当たりでわかっていく方法なのだが、まあそれではあまりにも便利な方法を知らないままで終わってしまう。便利な技を知っていると知らないのでは大きな違いである。
まあ、私はエクセルとかワードを使わない現場の仕事を選ぶだろうが、採用の必須条件になっているようなアプリは知るに越したことはない。自動車免許並みにないと仕事の幅が狭まってしまうような必須のアイテムになっているのだろう。みなさんはごくあたりまえに使いこなせるのがふつうなのだろうな。




作者:うえしん
更新日:2008年11月28日 10時51分
『「問題解決力」がみるみる身につく本』 奈良井 安
「問題解決力」がみるみる身につく本―ケーススタディで基本手順がよくわかる (PHP文庫)
奈良井 安
問題解決力というのはつねづねほしいと思ってきたのだが、この本からはなにも得ることがなし。私の認識力がなかったのか、それとも本が悪かったのか。ケーススタデイをうたっているが、まったく具体的な事例がのせられていたとは思わない。もっとリアリティのある問題の解決例をたくさんのせたうえで、解決方法の要約をしてくれれば理解しやすかったかもと思う。私にとっては読んでムダ本だった。
私は「なぜ」とか「どうして」という疑問を原動力に本を読んできたのだが、「どうすればいい」とか「どうすれば解決するのか」といったことにあまり頭を用いてこなかったと思う。解決や行動の方法をほとんど考えてこなかった。「なぜ」とか「どうして」は知識の探求や知識の蓄積には適しているのだろうが、問題の解決や方法には貢献しない思考法である。
世の中を理解することは大事であるが、もっと大事なことはどうしたらいいかということである。問題や困ったことがあったのなら、それをどうにかしたり、解決しなければならない。行動や方法がいちばん大事である。問題にまつわる知識をたっぷり身につけても、解決法がまったく思い浮かばないのなら、その知識はかなりのところ無用の長物である。「なぜ」より「どうしたらいいか」ということを大切にしたいものである。
たとえば世の中にはいろいろな問題がある。不景気になればどうしたら景気をよくすることができるかとか、非正規が増えた世の中をどうしたらいいのかといったことや、犯罪が増えたらどうしたらいいのかといった解決策を考えることが大事である。事実や知識をいっぱい集めたところで、なんらかの解決法が思い浮かばないのなら、その知識は役に立たないものである。「どうしたらいいか」は「なぜ」といっしょにつねに考えたいものである。
私たちは日ごろいくつもの問題や選択肢に出会い、自分なりに解決や選択をなしているものである。自分のその方法が最善かとかほかに方法はないのか、最適な方法はないのかと考えたことはないだろうか。問題解決にいたる方程式のようなものがあれば、自分の問題解決方法を検討してみることができるだろう。自分の選択方法やパターンはこれでいいのかとたまに疑問に付してみるのもいいことだろう。でも問題の解決にいたる万能の方程式なんかなくて、失敗をなんどもくりかえして、ようやく次善に近い方法を見つけられるといったものかもしれない。
知識は本棚に貯蔵されるばかりではなく、行動や解決の道具として用いたいものである。
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作者:うえしん
更新日:2008年11月27日 20時8分
