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トップ > 社会 > 社会 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月5日 6時)

[社会学書籍][卒論関係][これからの予定]2月初旬までに読む本

ジンメル社会学を学ぶ人のために

ジンメル社会学を学ぶ人のために

危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌

危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌

  • 作者: 折原浩
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 1969/09
  • メディア: 単行本

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

レイシズム (思考のフロンティア)

レイシズム (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

今期は4論文(計約4万字)+7コマ(レポート3つ、テスト4つ)です。作業が終わったら中国に帰ります。

作者:nichiten

更新日:2008年12月4日 23時6分

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[社会学書籍]寝ながら読んだ

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学びました。僕って「秩序破壊志向」なんですよね、たぶん。構造主義は大好きですが、それが「異郷人の苦しみ」をもっとも克明に描けるから好きなわけであって、同時に「異郷人の可能性」を描けずに(たぶん)多文化うんちゃらとか言ってしまうことを引き起こすから嫌い。だって俺、中国人の女の子よりも日本人の女の子のほうがすきなのに、多文化うんちゃらだとそれがかなわないじゃん。というのはともかく、まじめに言えば、それだと「社会化に伴う権力を有効に説明できない」からです。

あと、ニーチェとバルトが大好き、異郷人こそ超人だ、とか言ってしまいそうです(と書いてしまったあたりもうどうしようもない)。フーコーはどうしても「知の権力」に困ってしまいます。ソシュールは町田健しか思いつきません。レヴィ=ストロースは「女の交換」のところがうそっぽく思えます。ラカンよりも西原「シュッツの発生論」のほうがなんとなく(たぶん現実の社会的構成的意味でも)現実味があると思います。で、総じていえることは、「社会構造をぶち壊せ」。

あ、そうそう。この本はたぶん「間違ってる」とか「なめてる」とか批判されると思いますが、僕は好きですよ。それはフーコー的に。

作者:nichiten

更新日:2008年12月3日 13時27分

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[大学生活]すまんみんな

寝坊たから授業さぼる(´・ω・`)ゼミまでには行くお。

このごろ朝9時に起きてぐだぐだして10時から12時には大学に行って授業受けて17時から23時まで集中して勉強して帰宅して25時に寝る生活が続いてます。口の中口内炎が出来まくりです。

作者:nichiten

更新日:2008年12月2日 8時52分

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[社会学書籍]ジンメル→パーク→?

(白石家に続いて)今度は奥田家ですか。

「さいころのような本」だそうですってよ。

作者:nichiten

更新日:2008年12月2日 9時6分

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[社会学理論][卒論関係]パークの「マージナルマン」概念

「人間の移住とマージナルマン」においてパークが進めた議論をみていく。(なお、以下特に記さない限り、Park:1928-1986の好井裕明訳P91-112による)

パークはまず「文明と社会は、新たな関係が人々の間で確立されてきた諸所の過程」であるとし、生物学的な見解を否定する。その上で「文明を引き起こす力」として「民族の移動や混合」が重要だと指摘する。といってもこの移動や混合は侵入や征服を伴うものが多い。しかし近代化し資本主義が発展していくにつれて平和な相互浸透が特徴的となる。すなわち、「民族の移住は、個人の移動へと形を変え」るのだ。

社会現象としての移住を研究するとき、「総体的な影響の点から」の研究と「パーソナリティ類型に変化が生じ、その類型にみられる主観的側面の点」からの研究が可能となる。

パーソナリティの観点から考えると、たとえばタガートその人々は「これまで従ってきた諸々の拘束や束縛からの「解放」を経験」し、「伝統的な思考様式が持つ諸々の禁止―規則から個人の判断を解放する」過程にあるとする。また、パークはジンメルの「余所者論」を用いる。「余所者は、滞在するが定着はしない。彼は、潜在的な放浪者である。つまり、余所者は他の人々のように、住んでいる地域に固有の特性や因襲に結び付けられていないわけである。…移動性と移住の影響で、以前は神聖化されていた諸関係が、世俗化される」という。

この「住んでいる地域に固有の特性や因襲」からの自由として、パークは「都市の自由」を挙げる。「さまざまな民族の移動や移住、貿易や商業の拡大、そして特に現代になって人種や文化の膨大なる坩堝である大都市の成長が、地域的な紐帯を緩め、種族や民俗の文化を破壊するのだ。…自分がやるのに最も適している仕事にエネルギーや才能を集中することが出来る…労働の分業は、そんなにも完璧に原始の人々を支配する自然や環境の統制から、彼や彼の仲間を解放するのである」。

しかし、人種問題など、異なる身体的特性があるゆえに同化と融合が起こりにくいという状況が発生する。たとえば、日本人は「自らを分離する人種的なユニホームを身に着けている」。また、ヨーロッパでのユダヤ人のように「それぞれの民族が、彼ら自身の完璧な種族組織や社会を維持するのだ」。しかし「単に協力的で経済的に過ぎなかった関係が、社会的文化的なものとなる」可能性があり、「同化は避けにくい」。混合が起きたとき、人々は「特に優れて『余所者』」、「都市の人間」であり、「ゲットーの暖かな安心感と未だまったく慣れていない外界の冷え切った自由」の間で揺れ動く。「このようなマージナルマン…の心の中を覗くことができて初めて、われわれは文明化と進歩の過程をもっともよく十分に研究することができるのである」。

作者:nichiten

更新日:2008年12月2日 0時6分

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[社会学理論][卒論関係]あと、社会学キーコンセプト−「批判的社会理論」の基礎概念57のまとめを改良しました。


41 レイシズムとエスニシティ

○レイシズムの定義

ある集団を別個の「人種(race)」と同定したりカテゴライズしたりすることで、その集団を排除または支配するための一助となるような、様々な社会実践をさす。レイシズムはファシズムが高揚するなかでユダヤ人に対する組織的な差別を了解する方法として生まれた。

○レイシズムにおける「人種」

レイシズムにおける「人種」は生物学的差異に基づくとされる。しかし「新たなレイシズム」として文化的差異に言及する論者もいる。

○エスニシティとの関係

レイシズムが社会集団に対する外部からのカテゴライズであるのに対し、エスニシティは集団成員自身によって定義される文化集団の違いである。エスニシティには自己同定化、アイデンティティや所属意識に重点が置かれる。

○制度化されたレイシズム

あからさまな個人への偏見のような粗野な形のレイシズムがいまでも西欧社会に見られる一方で、集合的あるいは制度的な形態をとって、暗黙の隠微な形態をとることが多いといわれる。要するに、個人、集団または組織/制度の日常的に定式化された諸実践は、行為者たちが不利な立場に置かれた集団の劣等性についての明白な信念を必ずしも保持していなくても、特定の社会集団を体系的に差異化して不利な立場に置かれてしまうような仕方で作動しうるのである。

人間行動の習慣化もしくは制度化されたパターンは、それが個人的なものであれ集合的なものであれ、またそれらの差別に携わる人々に明白な知識や意図があろうとなかろうと、特定の集団を体系的に差別する効果をもちうるし、この点こそが「制度化されたレイシズム」という概念が意味するものだ。

「制度化されたレイシズム」は意図されていないものであるゆえに、法律家にとっては、それに関与したものが引き起こした危害の責任を負うかが問題となる。社会学的文脈では意図せざる結果に重視する一方であまり「意図」の問題に傾倒する必要がない。

このような事例として、本文中では警察官の例と精神医学の例があげられている。

○ほかの概念との関係

ヨーロッパ内部でのレイシズムは植民地主義と照らし合わせて考えられるべきである。というのも、生物学的劣等性の発想は、経済的政治的な支配と搾取のプロジェクトから生み出されたからだ。また、とくに中東出身者に関する面ではオリエンタリズムも参考になる。

51 社会的構築/社会的構築主義

○社会的構築の定義

社会的構築とは、社会的世界のある一部が、生物学的または心理学的な用語で説明されるよりも、社会的な用語で説明されたほうがより適切である場合を指し示すことばである。それは、不変のものであるというよりも、ある特定の社会またはそれと同様の諸社会の産物であると考える事である。しかし、すべてのものが社会的構築物というわけではなく、たとえば山、川、羊の存在など、人間社会の存在に依拠していないものは、社会的世界からの創発特性ではない。

○社会的構築の存在論的な使用

社会的構築物とは、ある特定の社会に特有なものである。しかし、仮にすべての社会に見出すことができても、社会的構築物であると見なすことができるものもある。言語体系や道徳律、規範は、社会によってその内容は異なるが、すべての社会に見出されるものである。明らかに普遍性がある事柄は、通常の方法ではそれが社会的構築物であると証明するのは難しいが、それらが集団生活から生じてきたものであることをもって社会的構築物であると主張することが出来る。たとえば、規範や規則が必要となるのは、他者の生活とを協調させなければならないときであるのだ。

社会的構築のもう一つの使い方は、「国家」や「メディア」、「家父長制」などの社会的な「モノ」の活動依存性を協調するものである。このようなものは物象化されてはいるものの、もともと人間の相互活動や相互依存の総体であり、「脱構築される」ことが可能である。この観点から見ると、社会科学の目的とは、これらの構築の過程を、つまり行為者がいかに「実践する」かを探求することになる。

○社会的構築の認識論的な使用

以上のような社会的構築主義は存在論的な方法で用いられている。つまり、物事の存在やその存在様式は、実質的な部分において社会的世界に依存している。しかし、社会的構築はむしろ認識的論的文脈で、私たちが世界を知るようになるやり方が社会的要因によって形成されているということを示すためにも用いられてきた。しかしこれはすべてのものが社会的構築物であるといっているのではなく、私たちが事物を定義したり知識を得たりするときの方法が、私たちに固有の社会の生産物である分類図式などによって形作られていることをいっているのである。世界その者と、その世界に関する知は、異なるものである。社会的構築主義の存在論的な用い方と認識論的な用い方を明確にするというのが重要になる。

作者:nichiten

更新日:2008年12月2日 0時6分

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[社会学理論][卒論関係]ジンメルにおける「余所者論」

余所者論のところを書き直して、いまからパークやりますっよ。

『社会学(下)』の「異郷人についての補説」で、ジンメルは「『みんな』のなかに新しく入った『私』という状況」(杉本 2008:108) について考えている。(なお、ここから特に記さない限り、Gimmel:1892-1994の居安正訳P285-291による)

まず、異郷人はある場所に「定着」しているわけではないし、かといって「放浪」し続けているわけでもない。「旅はし続けていないにしても来訪と退去という離別を完全には克服してはいない者」であり、「一定の空間的な広がり…の内部に定着はしているが、しかしこの広がりのなかにおける彼の位置は、彼がはじめからそこへ所属していないということ、彼がそこには由来せず」にいることに規定される。また、「近接と遠隔」については、「余所者は集団それ自体の要素であり、貧者や種々な『内部の敵』――その集団のうちにあり、その一部でありながら、同時に集団にとっての外部性と対立性を含んでもいる要素――と異ならない

ジンメルはこのように異郷人を規定するが、その異郷人には三つの性質があるという。

1.移動性。ジンメルは異郷人の典型例として(旅)商人があると指摘する。商人が集団の中に定着したとしても、「もともと経済的な地位がすでに占有されている圏へ、いわば定員外のものとして入り込んでくる」から、「生活の実質」において、「土地所有者ではない」。ゆえに、「個々のあらゆる要素と接触するようになるが、…血縁的、地縁的、職業的な定着化によって個々の要素と有機的に結びつくことはけっしてない」。

2.客観性。ジンメルは異郷人が「理論的な観察の客観性と同じ」客観性を発揮するとし、これは二つの自由によって可能となる。ひとつは集団に「所与のものの受容と理解と考量とをあらかじめ決定するかもしれない束縛にまったく拘束されない…習慣や忠誠や洗礼によって拘束されない」という自由。もうひとつは、イタリアの裁判官の例で見出せるように、その集団内の利害や党派に拘束されない自由である。

3.抽象的な共通性。集団内の要素どうしであれば「普遍的なものに対する特殊な再の同等性」をもつのに対して余所者だと「一定の普遍的な性質のみを共通にもつにすぎない」。このとき、余所者は集団内の要素とは疎遠となる。疎遠であるとき、異なる素性である余所者については「個人としてではなく、むしろ一定の類型一般の異郷人」として感じられる。この事例として「ユダヤ人税」が挙げられる。

さて、ジンメル「余所者論」の継承は以下のものがみられる(発表者の知る限り)。

一、シカゴ学派、パークの「マージナルマン」とそれに連なる研究。

二、シュッツによる「よそ者」や「帰郷者」などの一連の研究。

三、ジンメルの方法論についての研究。詳しくは阿部吉男1979など。

四、<排除>の概念を用いた杉本学。杉本は「余所者論」と「貧者論」(『社会学』第七章)において、社会の「内部」と「外部」が形成され、三者関係のうちひとりが排除される可能性があることを描くという考え方を呈示している。

作者:nichiten

更新日:2008年12月1日 16時35分

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[社会学書籍][卒論関係][これからの予定]2月初旬までに読む本

ジンメル社会学を学ぶ人のために

ジンメル社会学を学ぶ人のために

危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌

危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌

  • 作者: 折原浩
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 1969/09
  • メディア: 単行本

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

レイシズム (思考のフロンティア)

レイシズム (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

今期は4論文(計約4万字)+7コマ(レポート3つ、テスト4つ)です。作業が終わったら中国に帰ります。

作者:nichiten

更新日:2008年12月4日 14時6分

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[社会学書籍]寝ながら読んだ

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学びました。僕って「秩序破壊志向」なんですよね、たぶん。構造主義は大好きですが、それが「異郷人の苦しみ」をもっとも克明に描けるから好きなわけであって、同時に「異郷人の可能性」を描けずに(たぶん)多文化うんちゃらとか言ってしまうことを引き起こすから嫌い。だって俺、中国人の女の子よりも日本人の女の子のほうがすきなのに、多文化うんちゃらだとそれがかなわないじゃん。というのはともかく、まじめに言えば、それだと「社会化に伴う権力を有効に説明できない」からです。

あと、ニーチェとバルトが大好き、異郷人こそ超人だ、とか言ってしまいそうです(と書いてしまったあたりもうどうしようもない)。フーコーはどうしても「知の権力」に困ってしまいます。ソシュールは町田健しか思いつきません。レヴィ=ストロースは「女の交換」のところがうそっぽく思えます。ラカンよりも西原「シュッツの発生論」のほうがなんとなく(たぶん現実の社会的構成的意味でも)現実味があると思います。で、総じていえることは、「社会構造をぶち壊せ」。

あ、そうそう。この本はたぶん「間違ってる」とか「なめてる」とか批判されると思いますが、僕は好きですよ。それはフーコー的に。

作者:nichiten

更新日:2008年12月3日 4時27分

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[大学生活]すまんみんな

寝坊たから授業さぼる(´・ω・`)ゼミまでには行くお。

このごろ朝9時に起きてぐだぐだして10時から12時には大学に行って授業受けて17時から23時まで集中して勉強して帰宅して25時に寝る生活が続いてます。口の中口内炎が出来まくりです。

作者:nichiten

更新日:2008年12月1日 23時52分

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[社会学書籍]ジンメル→パーク→?

(白石家に続いて)今度は奥田家ですか。

「さいころのような本」だそうですってよ。

作者:nichiten

更新日:2008年12月2日 0時6分

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[社会学理論][卒論関係]パークの「マージナルマン」概念

「人間の移住とマージナルマン」においてパークが進めた議論をみていく。(なお、以下特に記さない限り、Park:1928-1986の好井裕明訳P91-112による)

パークはまず「文明と社会は、新たな関係が人々の間で確立されてきた諸所の過程」であるとし、生物学的な見解を否定する。その上で「文明を引き起こす力」として「民族の移動や混合」が重要だと指摘する。といってもこの移動や混合は侵入や征服を伴うものが多い。しかし近代化し資本主義が発展していくにつれて平和な相互浸透が特徴的となる。すなわち、「民族の移住は、個人の移動へと形を変え」るのだ。

社会現象としての移住を研究するとき、「総体的な影響の点から」の研究と「パーソナリティ類型に変化が生じ、その類型にみられる主観的側面の点」からの研究が可能となる。

パーソナリティの観点から考えると、たとえばタガートその人々は「これまで従ってきた諸々の拘束や束縛からの「解放」を経験」し、「伝統的な思考様式が持つ諸々の禁止―規則から個人の判断を解放する」過程にあるとする。また、パークはジンメルの「余所者論」を用いる。「余所者は、滞在するが定着はしない。彼は、潜在的な放浪者である。つまり、余所者は他の人々のように、住んでいる地域に固有の特性や因襲に結び付けられていないわけである。…移動性と移住の影響で、以前は神聖化されていた諸関係が、世俗化される」という。

この「住んでいる地域に固有の特性や因襲」からの自由として、パークは「都市の自由」を挙げる。「さまざまな民族の移動や移住、貿易や商業の拡大、そして特に現代になって人種や文化の膨大なる坩堝である大都市の成長が、地域的な紐帯を緩め、種族や民俗の文化を破壊するのだ。…自分がやるのに最も適している仕事にエネルギーや才能を集中することが出来る…労働の分業は、そんなにも完璧に原始の人々を支配する自然や環境の統制から、彼や彼の仲間を解放するのである」。

しかし、人種問題など、異なる身体的特性があるゆえに同化と融合が起こりにくいという状況が発生する。たとえば、日本人は「自らを分離する人種的なユニホームを身に着けている」。また、ヨーロッパでのユダヤ人のように「それぞれの民族が、彼ら自身の完璧な種族組織や社会を維持するのだ」。しかし「単に協力的で経済的に過ぎなかった関係が、社会的文化的なものとなる」可能性があり、「同化は避けにくい」。混合が起きたとき、人々は「特に優れて『余所者』」、「都市の人間」であり、「ゲットーの暖かな安心感と未だまったく慣れていない外界の冷え切った自由」の間で揺れ動く。「このようなマージナルマン…の心の中を覗くことができて初めて、われわれは文明化と進歩の過程をもっともよく十分に研究することができるのである」。

作者:nichiten

更新日:2008年12月1日 15時6分

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[社会学理論][卒論関係]あと、社会学キーコンセプト−「批判的社会理論」の基礎概念57のまとめを改良しました。


41 レイシズムとエスニシティ

○レイシズムの定義

ある集団を別個の「人種(race)」と同定したりカテゴライズしたりすることで、その集団を排除または支配するための一助となるような、様々な社会実践をさす。レイシズムはファシズムが高揚するなかでユダヤ人に対する組織的な差別を了解する方法として生まれた。

○レイシズムにおける「人種」

レイシズムにおける「人種」は生物学的差異に基づくとされる。しかし「新たなレイシズム」として文化的差異に言及する論者もいる。

○エスニシティとの関係

レイシズムが社会集団に対する外部からのカテゴライズであるのに対し、エスニシティは集団成員自身によって定義される文化集団の違いである。エスニシティには自己同定化、アイデンティティや所属意識に重点が置かれる。

○制度化されたレイシズム

あからさまな個人への偏見のような粗野な形のレイシズムがいまでも西欧社会に見られる一方で、集合的あるいは制度的な形態をとって、暗黙の隠微な形態をとることが多いといわれる。要するに、個人、集団または組織/制度の日常的に定式化された諸実践は、行為者たちが不利な立場に置かれた集団の劣等性についての明白な信念を必ずしも保持していなくても、特定の社会集団を体系的に差異化して不利な立場に置かれてしまうような仕方で作動しうるのである。

人間行動の習慣化もしくは制度化されたパターンは、それが個人的なものであれ集合的なものであれ、またそれらの差別に携わる人々に明白な知識や意図があろうとなかろうと、特定の集団を体系的に差別する効果をもちうるし、この点こそが「制度化されたレイシズム」という概念が意味するものだ。

「制度化されたレイシズム」は意図されていないものであるゆえに、法律家にとっては、それに関与したものが引き起こした危害の責任を負うかが問題となる。社会学的文脈では意図せざる結果に重視する一方であまり「意図」の問題に傾倒する必要がない。

このような事例として、本文中では警察官の例と精神医学の例があげられている。

○ほかの概念との関係

ヨーロッパ内部でのレイシズムは植民地主義と照らし合わせて考えられるべきである。というのも、生物学的劣等性の発想は、経済的政治的な支配と搾取のプロジェクトから生み出されたからだ。また、とくに中東出身者に関する面ではオリエンタリズムも参考になる。

51 社会的構築/社会的構築主義

○社会的構築の定義

社会的構築とは、社会的世界のある一部が、生物学的または心理学的な用語で説明されるよりも、社会的な用語で説明されたほうがより適切である場合を指し示すことばである。それは、不変のものであるというよりも、ある特定の社会またはそれと同様の諸社会の産物であると考える事である。しかし、すべてのものが社会的構築物というわけではなく、たとえば山、川、羊の存在など、人間社会の存在に依拠していないものは、社会的世界からの創発特性ではない。

○社会的構築の存在論的な使用

社会的構築物とは、ある特定の社会に特有なものである。しかし、仮にすべての社会に見出すことができても、社会的構築物であると見なすことができるものもある。言語体系や道徳律、規範は、社会によってその内容は異なるが、すべての社会に見出されるものである。明らかに普遍性がある事柄は、通常の方法ではそれが社会的構築物であると証明するのは難しいが、それらが集団生活から生じてきたものであることをもって社会的構築物であると主張することが出来る。たとえば、規範や規則が必要となるのは、他者の生活とを協調させなければならないときであるのだ。

社会的構築のもう一つの使い方は、「国家」や「メディア」、「家父長制」などの社会的な「モノ」の活動依存性を協調するものである。このようなものは物象化されてはいるものの、もともと人間の相互活動や相互依存の総体であり、「脱構築される」ことが可能である。この観点から見ると、社会科学の目的とは、これらの構築の過程を、つまり行為者がいかに「実践する」かを探求することになる。

○社会的構築の認識論的な使用

以上のような社会的構築主義は存在論的な方法で用いられている。つまり、物事の存在やその存在様式は、実質的な部分において社会的世界に依存している。しかし、社会的構築はむしろ認識的論的文脈で、私たちが世界を知るようになるやり方が社会的要因によって形成されているということを示すためにも用いられてきた。しかしこれはすべてのものが社会的構築物であるといっているのではなく、私たちが事物を定義したり知識を得たりするときの方法が、私たちに固有の社会の生産物である分類図式などによって形作られていることをいっているのである。世界その者と、その世界に関する知は、異なるものである。社会的構築主義の存在論的な用い方と認識論的な用い方を明確にするというのが重要になる。

作者:nichiten

更新日:2008年12月1日 15時6分

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[社会学理論][卒論関係]ジンメルにおける「余所者論」

余所者論のところを書き直して、いまからパークやりますっよ。

『社会学(下)』の「異郷人についての補説」で、ジンメルは「『みんな』のなかに新しく入った『私』という状況」(杉本 2008:108) について考えている。(なお、ここから特に記さない限り、Gimmel:1892-1994の居安正訳P285-291による)

まず、異郷人はある場所に「定着」しているわけではないし、かといって「放浪」し続けているわけでもない。「旅はし続けていないにしても来訪と退去という離別を完全には克服してはいない者」であり、「一定の空間的な広がり…の内部に定着はしているが、しかしこの広がりのなかにおける彼の位置は、彼がはじめからそこへ所属していないということ、彼がそこには由来せず」にいることに規定される。また、「近接と遠隔」については、「余所者は集団それ自体の要素であり、貧者や種々な『内部の敵』――その集団のうちにあり、その一部でありながら、同時に集団にとっての外部性と対立性を含んでもいる要素――と異ならない

ジンメルはこのように異郷人を規定するが、その異郷人には三つの性質があるという。

1.移動性。ジンメルは異郷人の典型例として(旅)商人があると指摘する。商人が集団の中に定着したとしても、「もともと経済的な地位がすでに占有されている圏へ、いわば定員外のものとして入り込んでくる」から、「生活の実質」において、「土地所有者ではない」。ゆえに、「個々のあらゆる要素と接触するようになるが、…血縁的、地縁的、職業的な定着化によって個々の要素と有機的に結びつくことはけっしてない」。

2.客観性。ジンメルは異郷人が「理論的な観察の客観性と同じ」客観性を発揮するとし、これは二つの自由によって可能となる。ひとつは集団に「所与のものの受容と理解と考量とをあらかじめ決定するかもしれない束縛にまったく拘束されない…習慣や忠誠や洗礼によって拘束されない」という自由。もうひとつは、イタリアの裁判官の例で見出せるように、その集団内の利害や党派に拘束されない自由である。

3.抽象的な共通性。集団内の要素どうしであれば「普遍的なものに対する特殊な再の同等性」をもつのに対して余所者だと「一定の普遍的な性質のみを共通にもつにすぎない」。このとき、余所者は集団内の要素とは疎遠となる。疎遠であるとき、異なる素性である余所者については「個人としてではなく、むしろ一定の類型一般の異郷人」として感じられる。この事例として「ユダヤ人税」が挙げられる。

さて、ジンメル「余所者論」の継承は以下のものがみられる(発表者の知る限り)。

一、シカゴ学派、パークの「マージナルマン」とそれに連なる研究。

二、シュッツによる「よそ者」や「帰郷者」などの一連の研究。

三、ジンメルの方法論についての研究。詳しくは阿部吉男1979など。

四、<排除>の概念を用いた杉本学。杉本は「余所者論」と「貧者論」(『社会学』第七章)において、社会の「内部」と「外部」が形成され、三者関係のうちひとりが排除される可能性があることを描くという考え方を呈示している。

作者:nichiten

更新日:2008年12月1日 7時35分

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