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トップ > 社会 > 社会 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月5日 7時)
12月の猫は太陽を追う

ずいぶんと日が傾くのが早くなってきました。この季節になると猫は日向に陣取って、太陽の動きを敏感に感じながら、太陽を追いかけながら生きています。
12月の猫を見ていると、季節と生活を分離させて生きようとしているのは人間だけで、それは自然なこととは言いがたいんだなぁとまざまざと感じさせられますね。しなやかに季節とともに生きたい。
作者:Kousyou
更新日:2008年12月4日 23時10分
凄い勢いでお尻を叩かれたがる猫
YouTube - spanking the cat 2
おしりを凄い勢いで叩かれたがる猫さん。まるでアフリカンドラムやサンバのような勢いです。途中中断すると前足をペシペシペシペシと動かして叩いて欲しいとおねだり?のような動きをします。変な趣味の猫だなぁ(笑)
関連エントリー
・Kousyoublog | 木魚代わりに叩かれたがる猫さん
・Kousyoublog | 顔面を凄い勢いでモミモミされる猫

LP CP221/AW Traditional Bongos ボンゴ
作者:Kousyou
更新日:2008年12月3日 7時13分
定年制の歴史と課題
定年とか | 眠る開発屋blog
子供の頃に不思議に思ったのは定年の存在。
親戚とか周囲に会社員が少なかったからかもかもしれん。
どうしてまだ働けるのに、或いは働けないのに、働きたくないのに、定年という年齢で区切るのか。
定年の由来と撤廃の前提 - 雑種路線でいこう
定年退職って終身雇用・年功序列とセットなんですよ。
定年制の歴史について、ざっくりと。当初日本には定年という考えが無かったのですが、高齢化によって労働能力が低下を考慮して作られたのがそもそもの始まりだそうです。

仕事と日本人 (ちくま新書)
武田 晴人
「仕事と日本人 (ちくま新書)」(P158)
明治期にまとめられた『職工事情』という調査には、「老廃、業に堪えず」という言葉で、高齢者に退職を求めていたことが記録されています。この時代の定年の意味は、労働能力が失われたという判断にもとづいていたのです。
で、実質的な定年制が制度化されるのは1931年。
「仕事と日本人 (ちくま新書)」(P159-160)
この時期に「一般の例」として、五五歳くらいが定年であるという考え方が受け入れられて来たように思われます。平均寿命が五〇歳くらいの時代ですから、余力を残しての引退ではなかったのです。
(中略)
年齢は男子の場合には五五歳が多く、五〇歳が次いでいますが、男女間の差を設けている例も少なくありません。この状況は、戦後の高度経済成長期までの体勢と変わりません。普及率は一九五五年には各種の調査で九〇%になるようですが、定年年齢は五五歳が通例でした。
このような定年制が普及した背景には当時の世界恐慌による経済不安が背景にあって、定年制を制度化することで雇用調整が行われ、その後も企業の慣習の一つとして定着していったというのが歴史的背景のようです。
「仕事と日本人 (ちくま新書)」(P163)
雇用の調整のために、高齢者に引退を促すうえで定年制は好都合だったと考えてよいでしょう。戦後復興期の、企業が復員者なども含めて過剰人員が多かった時代に急激に普及率が高まったのも、この推測を裏付けています。こうして定年制は、一般化しました。
高度経済成長期以降、平均寿命が延びる中で定年の年齢は殆ど変わらず、本来の働くことが出来なくなった労働者に辞めてもらう、という趣旨での定年制は形骸化してきたという歴史がある、ということですね。
「雑種路線でいこう」の楠さんが書いておられるとおりで、戦後の定年制は新卒一括採用、長期雇用、年功序列とセットで、日本人が働きはじめて働き終える期間を一律で決めてしまうことで行動の規範になっていたということですね。長期雇用、年功序列が徐々に崩れてきているので、定年制も新卒一括採用も見直しがあってしかるべきだと思います。ただ、定年制だけ伸ばすのは、アンバランスさを感じざるを得ないですね。若年層の雇用が著しく減っている中で定年だけ延びてもね。と言っても、現状の社会情勢から言って定年制だけが残り、仕事を一定年齢で辞めなければならない、あるいは著しく選択の幅が狭まるのもおかしな話で、結局のところ新卒一括採用と定年制はどちらも撤廃あるいは縮小の方向で、トータルで見た見直しが必要なのだと思います。最近の労働法関連の改正は、とりあえず再雇用制度の導入などそういう方向ですよね。

労働法 第2版
「労働法 第2版」(P176)
定年制には、(1)少子高齢化の中で高齢者の活用を促すべき政策的要請に反する、(2)「年齢」によるステレオタイプな差別であり労働者個人の意欲や能力に従って平等に取扱うべき法的要請に反するという批判もある。
そのような批判のうえで、
「労働法 第2版」(P177)
人口高齢化、少子化が進むなか、定年制はなお維持されるべきか?それともアメリカやヨーロッパ諸国のように年齢に基づく雇用差別を法的に禁止し、年齢によらない労働者の活用を図るべきか?
という問いに答えていくことがこれから重要なことなのだと思います。
関連エントリー
・Kousyoublog | 「労働」は「喜び」か「苦しみ」か?
・Kousyoublog | 「仕事と日本人」武田 晴人 著
・Kousyoublog | ベンチャー企業が残業させてはいけない3つの理由
・Kousyoublog | 明治以前の日本人は怠け者だった?
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・Kousyoublog | サービス残業を撲滅するための2つの法政策の提案
作者:Kousyou
更新日:2008年12月2日 23時55分
【2008年11月】当ブログ記事別アクセス数ランキング
2008年11月の当ブログPV数人気エントリーです。
1. Kousyoublog | マンキュー経済学ミクロ編が一目瞭然なすごいパワポ(2008.11.17更新)
マンキュー経済学のミクロ編をまとめられている大学の先生のサイトの紹介エントリー。これらのパワポを読んで思わずマンキュー経済学〈1〉ミクロ編、マンキュー経済学〈2〉マクロ編まとめ買いしました。今ミクロ編の第二章まで一通り目を通したところ。パワポが参考になります。
2. Kousyoublog | 梅田望夫さんが理解不明と言ったはてブの本質(2008.11.09更新)
「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」という本の紹介を巡って梅田さんがTwitterで思わずはてなブックマークユーザーについて不満を漏らしてしまったことに関するエントリー。事の是非から敢えて離れて、はてブの構造についてちょっと考えて見ました。
3. Kousyoublog | こんな映画「ノルウェイの森」キャストはイヤだ(2008.08.02更新)
8月にノルウェイの森映画化のニュースに脊髄反射して書いたキャスト予想のネタエントリー。なんだか検索経由でのアクセスがやたらと多くてちょっと恐縮しています。春樹作品は殊更読者が自身のイメージを投影させる傾向が強いので映画化キャスティングは難しそうですよね。
4. Kousyoublog | 英単語になった日本語年代別まとめ(2008.11.15更新)
「英語の歴史―過去から未来への物語 (中公新書)」という本に載っていた英単語化された日本語単語のまとめエントリー。他にも調べたらいっぱいあると思います。
5. Kousyoublog | 僕が読んでいる厳選10ブログを紹介します(2008.11.21更新)
「ホームページを作るネタ帳」さんのエントリーからさまざまなサイトに波及した話題に乗ってみたエントリー。紹介したブログ以外にもオススメは一杯あるんですが、それはまた機会を見て紹介していきたいですね。
6. Kousyoublog | 自己愛性パーソナリティの9つの特徴と自己診断チェックリスト(2007.09.19更新)
掲載してから一年以上ずっと検索経由でのアクセスが多いエントリーです。「パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)」という本の自己愛性人格障害についての項目をまとめた内容。
7. Kousyoublog | 巨人ラミレス選手が語る「外国人選手が日本で成功するための七つの秘訣」(2008.06.14更新)
これは過去最高のアクセス数だった記事で、ラミレス選手のインタビュー記事を引用させていただきました。ラミレス選手の心がけはとてもすばらしくて参考になります。
8. Kousyoublog | 昭和天皇崩御に関する雑感(2008.11.24更新)
「なんたらかんたら: 天皇崩御をリアルタイムで見た人ちょっと来て欲しい」という2chまとめに触発されて、少し勢いに任せて書いたエントリー。まぁ、高校生の頃を振り返るのは懐かしい反面、少し恥ずかしいです。
9. Kousyoublog | 小室さんの高金利(年利6割)の借金と出資法(2008.11.06更新)
小室哲哉逮捕のニュースに関連して同氏が多額の借金を某社からしていた時の利率にちょっとびっくりしたので、出資法について調べてみたエントリー。色々法律が複雑に絡み合っているんですねぇ。
10.Kousyoublog | 明治神宮外苑のイチョウ並木(2006.12.12更新)
季節柄、徐々に検索経由でこの記事へのアクセスが増えてきました。東京のイチョウ並木としては見事なスポットですね。そろそろ紅葉たけなわな感じではないでしょうか。今週末ぐらいまでかな。
作者:Kousyou
更新日:2008年12月2日 6時27分
読みたい本「暴走する脳科学」「失われた場を探して」「それでも江戸は鎖国だったのか」
脳研究によって、心の動きがわかるようになるのか。そもそも脳イコール心と言えるのか。脳を調べることで心の状態を読むことは可能か。人間の行動は脳によって決定され、自由などは幻想に過ぎないのか。脳研究が医療や教育、犯罪捜査、裁判などに応用されることは、どのような社会的インパクトを持ち、どのような倫理的問題が生じるだろうか。―“脳の時代”を生きる我々誰しもが持つ疑問に、気鋭の哲学者が明快に答える。現代人必読の“脳科学リテラシー”入門書。

失われた場を探して
日本の若者に、いま何が起こっているのか? 学校やハローワークなどの協力 を得て収集されたデータの緻密な分析と、学校現場やロスジェネの若者への丹念なインタビューから、学校や職場における「場」の喪失が日本社会に与えた 驚くべき事実に迫るロストジェネレーション論の決定版。

それでも江戸は鎖国だったのか―オランダ宿 日本橋長崎屋 (歴史文化ライブラリー)
片桐 一男
鎖国と呼ばれた時代、江戸にオランダ人の定宿、長崎屋があった。将軍謁見に出府したカピタンの宿を、杉田玄白、平賀源内らが訪れ、そこは異文化交流のサロンであった。江戸は本当に鎖国だったのか。長崎屋の全貌を描く。
作者:Kousyou
更新日:2008年12月1日 17時40分
人間・社会の矛盾を受け入れられない人たち
命というものはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾してるんだとか、なぜ矛盾してるんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。
(中略)
僕の言い方だと、それが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。
河合隼雄、生涯最後の対談での一言。以前エントリーを書いて紹介(→Kousyoublog | 故河合隼雄氏最期の対談(考える人 2008年 冬号)は現代人必読です。)したが、再掲します。最近書籍化され、書店に並んでいるのを見掛けた。

生きるとは、自分の物語をつくること
小川 洋子,河合 隼雄
何に対しての言及、という訳でも無いのだけど、最近世間を騒がせて逮捕される人たちが取り調べなどで答える内容を伝え聞くたびに、この言葉を思い出さずに居られなかったのでメモ。
人というのが矛盾を孕んでいる存在であるように、社会というのもまた矛盾に満ちた世界ですよ。人々の営みが交じり合っている様子を社会と言うんですから。その矛盾を矛盾として受け止め、「その矛盾を私はこう生きました」とするのか、矛盾に敵を見出すのかの違いなんですよね。その矛盾は数限りなくあるので、たとえ敵を見出したとしても、どこかで矛盾と折り合いをつけざるを得なくなる。それを個性と取るか絶望と取るか。
同じ対談で対談相手の作家小川洋子はこう言った。
人間は時として現実を、むしろ自分の心をより痛めつける方向に、物語を変えて受け止めてしまうということをしますね。
「そのことが不思議でならない」と河合隼雄に問いかける。
そう。「原罪」ということです。この世に生まれてきたということが、罪を犯しているということになる。それが、その人の人生を支えるというカルチャーがあるのですから、ちょっとしたことで罪深さを感じる方がおられても、何も不思議ではない。その人がその道を行かれるように、僕らは付いていくんです。
(中略)
「私はなんでこんなに罪深いんでしょうか」って言われれば、「はい」と言っているだけです。それを追究して、追究して、その人の人生が出来てくるということですから。
(中略)
僕らはそこまでは付いていかないといかんです。
(中略)
そのことを重荷として苦しんでばっかりおったら意味ないわけでしょ。その荷物を礎にせなアカンわけですよ。
(中略)
そこまではやっぱり、付き合わないとならんですね。
河合隼雄は、その人の罪の意識が、その人の人生の礎となるまで、「付いていく」と三度繰り返した。何気ない会話で、さらりと、凄い覚悟を見せるところに唸らされた。このくだりは何度も読み返すが、とても真似できないと思う。
自身の罪深さと、人の矛盾と、社会の矛盾とを受け止めて自分の人生の物語としていかなければならないんだよな、と思う。しかし、人は弱いものであるから、そのように昇華させる過程で出てくる灰汁の醜さに耐えられない人がいる。その灰汁の汚さを憎み、あるいは悲しむ人がいる。「付いてきてくれる人」が居ないことが彼らを苦しめているのだろうか。いや、もしかしたら「付いてきてくれる人」の存在自体を拒絶するかもしれないな、とも思う。自己で決するしか出来ないが、独りではどうしようもない状態なのだろうか、と想像する。個人という病かなと思う。
関連エントリー
・Kousyoublog | 現代日本人はなぜ「死という病」から逃れられないのか
・Kousyoublog | 生きるための物語は専門的で複雑になりすぎた
・Kousyoublog | 「個人を追求していくと、歴史に行くしかないんじゃないか」
・Kousyoublog | 他者を理解することの困難さについて
・Kousyoublog | 「こころの処方箋」河合隼雄著
・Kousyoublog | 生まれ変わるためには死なねばならない
・Kousyoublog | 故河合隼雄氏最期の対談(考える人 2008年 冬号)は現代人必読です。
作者:Kousyou
更新日:2008年11月30日 17時20分
顔面を凄い勢いでモミモミされる猫
YouTube - smashing cat head
顔面を凄い勢いでモミモミモミモミモミモミと揉みまくられて、されるがままな猫さんの動画。すげー勢いで揉まれて・・・というか擦られてといっても良いぐらいの動画です。でもなんだか恍惚の表情にも、あるいは諦観の念が浮かんでいるようにも見えます。その表情に吹いた。

うちの猫が変だ!
ニコラス ドッドマン
作者:Kousyou
更新日:2008年11月30日 13時33分
サービス残業を撲滅するための2つの法政策の提案
「労働法 第2版」(P250)
現在の日本では、実際には、違法な長時間労働(不払労働時間を含む)がかなり広い範囲で恒常的に行われている。この労働時間をめぐる問題を克服・解消していくために、どのような法政策をとるべきか?
最近はまっている本水町勇一郎著「労働法」に以上のような問いが立てられていました。ちょっと考えてみたいと思います。
同書ではこの問いの注釈としてこう続けてあります。
「労働法 第2版」(P250)
法政策の方向性としては(1)法違反に対する監督を強化し厳格に処罰する、(2)行政指導(労基法36条4項参照)などにより事態改善に向けた誘導を行う、(3)問題の解決・予防に向けた当事者の自主的な取り組みを促すといったものがありうる。
僕は、(3)の方向性は無いなと思うのです。その理由については先日書いた通りで(→「Kousyoublog | 「法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由」稲垣 重雄 著」)、会社の違法行為を改善していく方向性としては、自主的な取り組みは望めないので、情報公開と厳罰化が効果的な施策だ思います。
■情報公開の施策
会社は共同体化しやすく、その結果閉鎖的な世界になっていきます。また、日本人は関係性を大事にするので、時に法よりも対人関係上での暗黙の了解に従って行動してしまいます。サービス残業も、経営者は悪いと分かっているけども、従業員の善意に甘えて、社外にばれなければ大丈夫だろうと考えている。従業員は経営者や会社内での上司同僚との人間関係を大事にしようと思い、ついついがんばってしまったり、残業を命じられても断りきれなかったりします。
要は社内の関係性に強く依存してしまう構造故に発生しているのではないかなと思います。そこで、「労務監査制度」みたいなのはどうでしょうか。
上場企業であれば監査法人と契約して会計監査を行い、不正の無い様に財務情報は伝票一枚までチェックします。ごくまれに漏れがあったり不正操作が行われたりすることはあっても、ほぼ、全ての企業が法的に適正なチェックを行っています。また、非上場の企業であっても税理士のチェックを受け申告を行うので、不正な経理処理が起きないとは言えないですが、かなりの企業で適正な処理が行われているんじゃないでしょうか。
外部からのチェックと情報公開が義務になっているから、不正な行為が発生し難いんですよね。
同様に、労働時間、勤務体系と時間外手当についても外部専門家のチェックの上で労基署等監督機関へ毎年報告する義務を設けてしまえば良いんじゃないでしょうか。
出勤簿、賃金台帳、就業規則、日報、タイムカードなどの証憑と給与振込みの履歴・財務諸表等を突き合わせて適正な処理が行われているか社労士・公認会計士などによって監査をし、それを報告書にまとめて毎年申告することを義務化するだけで随分変わると思います。
ただ、管理が厳格化して息苦しくなるのは確実なのだけど、今の情報漏えいリスクにバカみたいにお金掛けて行き過ぎた管理しているより、マシな方向性だと思うんですが、どうでしょうね。
社労士の方々にはぜひロビー活動頑張って頂いて実現させてみてはどうですか?良い利権になりそうな気がしますよ(笑)
■厳罰化の施策
サービス残業って粉飾決算になるんじゃないの?と以前から疑問に思っていたのだけど、何故だか未払い残業分支払って終わりですよね。
でも、賃金って従業員側にしてみたら賃金債権、会社側にしてみたら債務だから、サービス残業分は本来は未払い費用としてB/Sに計上しないといけないんじゃないのかなぁ。で、計上しないということは、簿外債務ってやつになるのでは?っつーことは本来計上すべき費用を計上せず、原価or販管費を低く計上して営業利益を多く見せているわけで、粉飾決算になるんじゃないのかな?と会計的なことはあんまりわからないながらも漠然と思っています。
よく上場企業で未払いの残業代を何億か払ったとかニュースでやってたりしますが、なんで粉飾決算にならないんだろう?特別なの?あるいは会計上は債務としての扱いじゃないの?ってことは残業手当と通常の給与手当が別とは思えないから給与も計上しなくても良いの?そんなことないよね。よくわからん。
ということで、サービス残業は粉飾決算ということに出来ないだろうか?サビ残させてる経営者は背任罪その他金取法違反などで逮捕しちゃえばいいじゃない。で、粉飾決算だから発覚したら株価急落、挙句株主代表訴訟のコンボになるぐらいにしてしまえばいいんじゃないかなーと思うのだけど無理かな。現状でも法解釈次第で粉飾決算に出来そうな気がするんですが、誰か偉い人教えてほしいです。
もし出来るんならどなたか社会派の弁護士の先生や裁判官に頑張って頂いて、そういう判例作っちゃうことが出来れば、それだけでがらっと変わる気がします。
主に残業代未払いについての対策に話が終始しましたが、長時間労働については今度改めて考えるとして、結局のところ、会社にしてみたら業績を伸ばすことと法を守ることとのトレードオフなんですよね。そもそもトレードオフにしちゃいかんだろ、と思うんですけど、残念ながらそれは多くの企業において、比較の対象になってしまっているのが現状なんだと思います。ならば、残業代の未払いはどう考えても損だ、という判断になるような状況を創出することしかないんですよね。経営者たちのポリシーに左右されてしまう状況こそ問題なのだけど、とりあえず思考実験的に考えてみました。どうでしょうかね。
関連エントリー
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作者:Kousyou
更新日:2008年11月30日 13時31分
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作者:Kousyou
更新日:2008年11月30日 13時30分
やるなら裁判員制度より立法員制度じゃないかな?
タイトルで言いたいことは言いつくしているのだけど。
日本で裁判員制度なんかできるわけないよ、と思う。
何より関係性を大事にする社会性だから裁判員同士で気を使いあって、「ほんとは無罪だと思うけど○○さんは有罪だと言ってるし、私も有罪と言っておこう」とか「話し合いの時はついみんなに乗せられて死刑だと申し上げましたが、あとから考えたらやっぱり無罪だと思いますので、取り消しますー」って裁判所に電話掛ける人がいたり「いやーあの被告は男らしくない。そもそも日本人たるもの〜」とか関係ない方向の道徳が持ち出されたり、「君はまだ経験が無いから年長者の意見をちゃんと聞きなさい」とか言い出すおっさん(大企業の部長クラス)が出てきて引っ掻き回したり、裁判員同士で派閥争いし始めたり、あげく裁判員の会議では何も決まらなくて時間だけが過ぎていき、被告も原告もそっちのけの嗚呼ニッポンな光景になるだけだと思うけどな。できればそういうグダグダに巻き込まれたくないです。
まぁ、それはさておき、裁判員制度は実際、時期尚早だと思う。司法に参加するよりは、まず立法の過程にもう少し一般人が入る方が、現状有意義じゃないかなと思う。いや、議員になれば立法に参加できますけど、そうじゃなく、一般人が立法の過程に参加するだけでも意味があると思うんですよ。
そもそも、法意識というのは日本人は弱くて、江戸時代は法はお上が定めたもので庶民には関係ないものだったし、明治維新期に近代法が成立したと言っても民法典・商法典をほぼ輸入してよっこらせと乗っけただけ。なので、日本の文化社会のつながりの上に法が無いんですよね。
だから、現状、議員先生や官僚の皆さんが市民の代表として作っている法律の立法過程に、無作為に選ばれた市民が直接参加することに意味があるんじゃないかなと思う訳です。今はパブコメ参加ぐらいしか無いですよね。最初は行政でやってる委員会とか審査会とか専門家で構成される会議に参加するとかでも良くて、後々、内閣だったり各国会議員だったり委員会だったりの法案の検討過程に参加出来るようになれば良いんじゃないかな。
順番としては裁判員制度は、その後、現代の法に対する市民の認識が強まった後に検討すべきものなんだと思いますね。
で、もし立法員制度が制定されれば、無作為に選ばれた立法員が集まって会議が開かれるわけですよ。何より関係性を大事にする社会性だから立法員同士で気を使いあって、「ほんとはフェアユースだと思うけどジャスラックさんは著作者の権利優先だと言ってるし・・・(以下略)」
・・・立法員の会議では何も決まらなくて時間だけが過ぎていき、国民も当事者もそっちのけの嗚呼ニッポンな光景になるだけかもしれないんですけど、それでも、人を裁くことに直接関与するより、法を作ることに直接関与する方が、今の日本人にとってははるかにマシだと思いますがどうでしょうね。
関連エントリー
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・Kousyoublog | 「法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由」稲垣 重雄 著
・Kousyoublog | 日本の個人主義思想は不平等条約解消のため名目上入れただけだった
・Kousyoublog | 源泉徴収制度は当初、戦費徴収目的で導入された
・Kousyoublog | 江戸の華と言えば喧嘩だが実はほとんど口喧嘩だけで決着した
・Kousyoublog | 誹謗・中傷がタブーになるまでの日本の1000年の歴史をざっくりと
・Kousyoublog | コミュニティの秩序維持機能としての悪口祭
・Kousyoublog | 江戸時代の著作者への原稿料は・・・「今夜は好きなだけ飲んでよ〜」だけだった

裁判員制度の正体 (講談社現代新書)
西野 喜一

これ一冊で裁判員制度がわかる
読売新聞社会部裁判員制度取材班
作者:Kousyou
更新日:2008年11月29日 10時36分
「法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由」稲垣 重雄 著
日本の会社において何故、日本の会社では不祥事が繰り返され、法令違反は定常化し、そして無くならないのか、その解決策は何か、という不祥事が繰り返されるメカニズムについて、日本論的視点から解説を試みた一冊。
日本の企業で不祥事を起きやすくしている五つの特徴は以下の五つ
1)日本人と法の関係
日本の近代法成立の経緯や、近代法の基礎となる契約という考え方が社会の基本原理となっていないこと、また、日本人は立法の当事者であるという意識を欠いているため、現行法に親しみを感じておらず、法を守るということはタテマエになっているにすぎない。そのため、便宜や利益のために法を蔑ろにする傾向が見られる。
日本の近代法成立の経緯については以前も何度か書きましたが、要するにそれまでの日本社会の習慣や考え方と繋がっていなくて、不平等条約の撤廃と、西欧列強に早く追いつくべく資本主義体制を整備する目的で民法商法典を輸入して導入したんですね。
また、明治以前も民法は無く、法は基本的にお上が民衆に上から命ずるもので、基本的には民衆とは関わりのないものであり、通常は個々の村や家族など共同体の中で関係者同士で問題解決にあたり、どうしても止むを得ない時にはじめてお上が出てきて法をに従って解決をはかっていました。
そして、いくら民主制で立法は民衆の代表者が決めているという建前があっても、法はお上が定めるものという文化が脈々と続いているので、なかなか当事者意識が芽生えにくい。
という訳でそもそも法は統治者が作るもの考え方が根強く、また社会の習慣や価値観を踏まえた近代法が作られてこなかったため、法は民衆と関係ないものであり、問題は当事者間で解決するという意識が強いため、法より共同体内の道徳等に重きを置くことが多い。
2)関係主体的であること
日本人は対人関係を最重要視し、状況に対応して行動する。このため、社会を形作っているのは「契約」ではなく、「話し合い」であり、社会的正義の絶対的な基準は存在しない。「正しさ」は常に状況対応的であり、また、いくつも存在することになる。
☆日本語の四つの特徴
『日本語は「主体相互の関係」、すなわち「対人関係」をもっとも重視するタイプの言語』で、それを表わす日本語の主な特徴として以下の四つがあげられる。
(1)主語人称代名詞は無くても良い
英語の場合、文法が厳格でSVOの並びは絶対なのだけど、日本語の場合、主語はあってもなくてもよいが無い方がスムーズなことも多い。
(2)敬語、尊称が広く一般に使用される
尊敬語、丁寧語、謙譲語など敬語が駆使され、社会的な属性(社長、部長、先生、先輩など)が頻繁に用いられる。
つまり、日本語は、発話者が聞き手に対して、どのような関係にあるのかを無視して話すことが困難であり、会話中も常に相手との関係を再認識しつつ、序列、身のほどを知らされ続ける言語だと言える。
(3)肯定、否定は最後に示される
これは表題通り、語尾が「ます」「ません」で大きく趣旨が変わるし、話している途中で状況を見て語尾で趣旨を転換させることも可能な言語だと言える。
(4)表現しないというコミュニケーションが成立する
話者と聞き手に一定の関係が出来上がっていれば、主語のみならず、いろいろな要素が省略可能であり、話すという行為そのものが関係性に絡め取られている。
ここで、同書ではフランス人言語学者による日本語の分析を引用していてとても興味深いので孫引き
フランス・ドルヌ、小林康雄著「日本語の森を歩いて」より
「おかしくて、おかしくて」は高い程度、「人をからかって」は批判、「本を貸して」は願いというわけです。それぞれの意味を解釈するには、それが発話されたその場の状況を把握しなければなりません。(中略)解釈は話し相手にまかされています。その意味で客観的に提示されるわけではなく、話し手と聞き手のあいだに複雑で切れない関係がでてきます。それぞれの立場が客観化の契機によってはっきりと区別されていない空間で、欧米の社会にはない日本特有の人間関係の世界です。あらゆる微妙なニュアンスを含みこんだ一種共犯的な、曖昧な世界。言葉に出来ない気持ちを曖昧な言語行為を通じて分かちあう世界ですから、もっとも深い世界とも感じられます。主体相互の関係をもっとも重視するタイプなのです。
そして、この日本語の特徴に基づいて対人関係をもっとも重視する思考パターンを日本人は持っている。
日本人の自我は対人関係を基礎としており、さらに相対的であり状況に対応して変化するということになる。自分の自我は相手によって支えられているのだから、関係を切らないように努め、できるだけ摩擦を避けようとする。これが思いやりとか、互譲の精神とかいわれるものを生み出す。反面、「あの時、きちんと断っておけばよかった」とか「もっとはっきり主張すべきだった」という後悔を、人生で一度も経験したことのない日本人は少ないだろう。
西欧社会は神との契約など特定の対象との不変の関係によって自己規定する「絶対的主体」であり、それに対して日本は複数の相手との関係、自らの置かれた状況に従って自己規定する「関係的主体」であると言える。「関係的主体」では自我の拠り所が対人関係上に置かれるので、対人関係の遮断(村八分、シカト)が自我の崩壊に繋がる。
3)あらゆる組織が共同体化する
自我を支える一時的集団(家族、親友)と二次的集団(会社などの組織)との境界がないため、会社の中においても情緒的な結びつきを求め、親分-子分、先輩-後輩のつながりが強固な連帯基盤となり、情緒的サークルを作りがちである。このため、目的を遂行するための組織である会社は、同時に、「共にある」ことに意味がある共同体の性格を併せ持ち、社員は強い身内意識で結ばれ、共同体の維持・存続を強く志向し、外部世界に対しては無関心、無頓着、冷淡になりやすい。
日本人の対人関係に特徴的なのが、身内は家族に限られないことであると言える。つまり、家族や親友、会社の上司、同僚、部下などが区別されず、等しく自我を支える要素として情緒的な関係になりやすい、ということだ。それぞれ表層的な接し方や距離感は違うが、確かに本質的には自我の拠り所としての機能を対人関係に求めている人は多いと思う。
かねてから日本の企業は家父長制イエ制度を模した擬制集団だと言われる。日本人の対人関係のあり方によるところが大きい。
人間関係の最小ユニットは家族だが、その家族は欧米では「夫と妻」の関係が重視され非連続的で排他的であるのに(子供は成人し結婚すると独立する)対して、東アジアでは「父と息子」の関係が優位で、連綿と親子関係が続き永続していく。日本の旧来の家族制度=イエ組織はイエの連続性がことさら強く、純粋な血縁組織とならない。跡取り以外は分家として独立したり、跡取りが無ければ婿養子を迎えるなどして『純粋に血縁的な結びつきというよりも、本家・分家関係のような役割関係を中心とする制度的な形態』だと言えるため、欧米型と東アジア型の中間的な形態だと言える。
血縁関係に拘らず家族を形成する文化的背景があるようだ。
家督相続しない子どもたちが単身で、地方から大量に大都会へと送り込まれた戦後の高度経済成長期に、二次的集団を自我の支えとする傾向がより一層強化されたことは間違いない。まるで村落共同体や大きな血縁集団のように、会社によっては社屋に鳥居、名刹に社員共同墓地を持つものさえあり、また、かつて頻繁に社員の親睦のためと称して行われた各種社内行事は、社長挨拶や社員そろっての会食などがまるで村落共同体で行われる祭儀の様相を帯びていた。
社員共同墓地を持つ会社があるとは知らなかったなぁ。まぁ、ある種のイニシエーション的儀式は会社組織であればよく行われていますよね。
4)「会社の掟」が存在する
経営幹部、上司、先輩などによって繰り返し示される言動、態度によって形作られ、各社の歴史を反映し、個別的であり、明示されることのない社内ルール、すなわち「会社の掟」が存在する。従うべきルールとして法規定、伝統的規範、「会社の掟」が併存しているのだが、会社員にとってもっとも優先すべきルールは「会社の掟」であり、時に法規定や伝統的規範から逸脱することも意に介さなくなる。
また、会社が「イエモト」型組織であるため、現場長は一定の裁量権を持ち、その権限内で「会社の掟」にきわめて忠実に従った結果、暴走して会社の危機を招くことがある。
日本型組織のプロトタイプとして「家元」制がこの本では紹介されている。「家元=イエモト」制度は江戸時代に成立した芸道の組織形態で、構造的特質には以下の三点がある
(1)師匠-門弟の主従関係の連続的ヒエラルキー
(2)家元は流派の世襲的カリスマであり、その保有する影響力は、権力ではなく権威である
(3)家元が保有していた運営権は各段階の師匠に順次委譲され、各段階の師匠たちは直属の門弟に対してだけ監督しうるとともに、委譲された権限内でかなりの自律性を持つ
家元 - Wikipediaもよくまとまっている。
この日本的関係性と仏教的、儒教的思想の影響によって成立したイエモト型構造が、日本人が組織を作る時に似た形態を取っていくのは自然な流れであると同書では書かれているのだが、その成立していく経緯を今後もう少し探求してみたいと思う。
で、目に見えない「会社の掟」が会社には存在している。目に見えないから存在していないとも言えるのだけど、就業規則やマニュアルになっていない、いわゆる社風という奴で、最近は会社のDNAなどとよく使われているようだ。(会社のDNAとか言い出す人を見るとうんざりしてしまうのは僕だけでしょうか。DNAて。)
上記の日本語の特質でも挙げられたように、言葉で表現されない表現を読み取るのが日本語によるコミュニケーションの特質の一つです。言われなくとも相手の真意を汲み取って判断し、自主的に周囲の人々を思いやって行動することが美徳とされています。その結果、閉鎖的な共同体の中で醸成された掟に人は縛られます。
このため、法と会社の掟とをトレードオフしなければならない時、苦悩したり、会社の掟を優先させてしまうことが多々発生してしまいます。
5)目的と手段の逆転
成長するにしたがって、設立当初の「社会に有用な財・サービスを提供するという目的が忘れられ、会社が手にした強大な手段(資本、設備、従業員、ノウハウなど)の活用に腐心するようになり、手段を活用するために目的を探すという、目的と手段の逆転現象が起こる。この段階では、会社、従業員ともに安定志向が極めて強くなっており、会社の維持が最優先され、そのために当面の利益確保が至上命題となって、企業犯罪を誘発しやすい。
この項目は主に大企業病と言われる事例について書かれていて、創業当時のモチベーションを失ったことによるような趣旨のことが書かれているのだけど、同様の事例は普通にベンチャー企業内にも転がっていると思う。というか、ベンチャーであればあるほど当面の利益確保が至上命題なため、それ以外のことに目を向けないことが多いと思う。大企業となって悪しき官僚制や手段と目的が逆転した結果としての共同体維持のための利益至上主義であろうと、ベンチャー企業で何もかも、ビジネスモデルも、イエモト的組織もきちんと確立していない中で、人が集まることで共同体的な特質は強く、その共同体維持のための利益至上主義、と原因は違っても結果は一緒。この項については要は共同体性の問題だと思う。
■不祥事を減らす対策
この五つが日本の会社で不祥事が生み出される構造的な理由として挙げられています。では、どうすれば不祥事を減らすことができるのか。同書では厳罰化と情報公開が挙げられており、そのふたつは適切だと思います。
1)情報公開
共同体というのは、その閉鎖性ゆえに共同体の掟を持ち、時に法と共同体の掟が対立すると掟を優先する判断を構成員にさせやすい。ならば閉鎖性を会社から極力奪うことが必要なのではないだろうか。
会社の説明責任遂行と、なるべく情報を内部にとどめておくとする会社共同体の性質は真っ向から対立し、矛盾する。この矛盾を乗り越えるためには、自然に任せているわけにはいかない。
だからこそ、何らかの人為的な方策を施し、経営者の見識や従業員の正義感に依存しなくても情報が開示される、社会的システムを構築しなければならない。
現在は会計情報が主に公開されるだけだが、会社の自主性に頼ることなく、さまざまな情報が公開されるための、インフラを整備していかなければならない、としていて、これには同意。情報が極力公開される体制が出来ることで、企業の共同体性が薄らいでいくと思う。
2)厳罰化
日本人にとっては特に、法の存在は軽く、会社におけるさまざまな判断とトレードオフの関係になりやすい。法を破ることで想定されるリスクより、法を守らないことで得られるリターンの方が大きければ、容易に法は共同体の掟に取って変わられる。ならば、会社を縛る法をさらに厳罰化することで、法を破るほうが圧倒的に損をするような体制にし、法と会社の掟とが比較対象にならないようにしてしまえばいい、ということだ。
われわれ日本人の多くは、強い信仰心を持つわけでもなく、何か固い信念を持っているわけでもない。また、誘惑には抗いがたく、自分の意志で始めたこともなかなか長続きしない。「性まことに弱い」と言わざるを得ない。
われわれの性がさほど善くも、強くもないことが認められるならば、隠したり、ウソをついたりすることもあるのが人間であり、また人間の作る組織だということを前提として社会的ルールを定めなければならない。これからは性悪説とまではいかなくとも、「性さほど善くない」説を採用して、明文化された法令や、あらかじめ規定と処罰を示している行政処分を介して、社会を安定させていくほかないであろう。法治主義、厳罰主義は避けられない。
そして、日本の会社は共同体でもあることを考慮したうえで、厳罰主義を採用することはわれわれ個人をムチ打つものではなく、われわれが誘惑に屈しそうになった時の杖、自らの行動を律するための補助具と考えるべきなのである。
全く持って反論の言葉は無いのだけど。無いのだけど。
会社は法人であり、法によって生まれたがゆえに、法を守ることによってこそ、その存在理由がある。だからこそ、法人が法を守れない可能性があるならばその可能性は徹底的に排除していくしかないのだと思う。
一方で、その法人を構成するのは人間でもある。そして、日本人の性が人間関係の間に自我を見出し、さまざまな関係の中に共同体を作ることを志向しており、仲間との関係性を第一に考える思考パターンを持っている。
厳罰化と情報公開による会社という組織から共同体性を奪うことはすなわち、日本人にとってはとても過ごし辛い環境になるのだろうなと思わざるを得ない。しかし、敢えて厳罰化を進め会社組織と共同体とは分離させていく必要があると思う。
今後「会社で働く」とは、その矛盾をどのようにして生きるか、という問いを自分に投げかけ続けることであり、自己の中の日本人性の解体の過程に他ならない状態になっていくのではないか。そして、会社組織の中の人間関係を自我の拠り所としないことが出来るようになることこそ、重要になるのだと思う。
経済において会社は今後も重要なプレイヤーであり続けるだろうが、個々人のアイデンティティにとっては重要ではなくなっていくと思う。会社で働かない、という生き方は今後ますます増えていくのだろう。その矛盾に意味を付与できる会社は支持を集めていくのかな、とも思うが、社会全体としては新たな共同体の出現が模索される時代になっているのだろうなぁ。
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作者:Kousyou
更新日:2008年11月28日 8時36分
江戸城にあった霊廟紅葉山東照宮という権力装置
そういえば天皇家は泉涌寺の檀家 - finalventの日記
仏教徒というより、天皇家というのは、仏教の頂点でもあったはず。たしか、このあたり網野善彦が以前いろいろ書いていた。
というか、このあたりの国家鎮護というか国家権力としての仏教も、近代の感覚からはわかりづらくなっている。
仏教の頂点という話で、以下推論なんですが。
気になるのは江戸城内にあった紅葉山東照宮の存在なんですよね。
貴重資料「紅葉山御宮御霊屋総絵図」
紅葉山は江戸城内中央にある小山で、歴代将軍の霊廟が営まれた。また、その東北には具足蔵とともに、将軍の御文庫(紅葉山文庫)などの建造物があった。
絵図で「御宮」とあるのは紅葉山東照宮のことで、初代将軍徳川家康の廟所にあたる。絵図では一ノ鳥居しか描かれていないが、一ノ鳥居、二ノ鳥居、勅額御門、唐門をくぐって廟所にたどりつく。2代将軍秀忠(台徳院)の廟所は、一ノ鳥居の正面奥にある「二十四日」と書かれた廟所で、これは秀忠の命日が二十四日にちなむものである。この二人の廟所は単独で造営されており、別格扱いであった。
当初は、3代将軍家光以降の廟所も単独で造営されており、一の鳥居の手前右手の平地に家光、家綱(4代)、綱吉(5代)、一の鳥居の手前左手に家宣と順次造営されたが、6代家継からは合葬されるようになる。絵図では、「大猷院(3代家光、4月20日没)・文恭院(11代家斉、閏1月晦日没)・温恭院(13代家定、7月4日没)様」「厳有院(4代家綱、5月8日没)・孝恭院(家治3子家基、2月24日没)様 八日」「常憲院様(5代綱吉、1月10日没)・有徳院(8代吉宗、6月20日没、)様・浚明院(10代家治、9月8日没)様 十日」「文昭院(6代家宣、10月14日没)様・有章院(7代家継、4月晦日)様・惇真院(9代家重、6月 12日)様・慎徳院(12代家慶、6月22日没)様 十四日晦日十二日」と記されている。
14代家茂の名がみえないことから、本絵図は家定の没した安政5年(1858)から家茂の没する慶応2年( 1866)までの間の作成と推定される。ただし、宝蔵は御具足倉が2棟、御書物倉・御鉄炮倉・御屏風倉が書く旨の計5棟が書かれているが、江戸後期には書物倉は4棟であったと伝えられるので、その点は今後検討する必要がある。
なお、現在、紅葉山にあたる地は皇居内にあるので、上記の遺構を見ることはできない。
を見ると仏殿だったようなんですよね。
この紅葉山には徳川家康が関東移封時に山王日枝神社を移動させておきながら、江戸幕府開幕後の1604年、再度山王日枝神社を動かして紅葉山を空けた後、1618年に徳川家の霊廟が築かれている。
重要文化財(歴史資料)〜江戸城造営関係資料(甲良家伝来)Q&A4
「明治元年十二月十九日朝廷徳川家達ニ命ジテ、紅葉山の霊屋ヲ撤セシム」
で、明治になるや否や(明治元年10月23日に改元)、霊廟は取り壊されている。家達は徳川宗家の第十六代。
この紅葉山東照宮で国家鎮護としての仏教の何か儀式が行われていたんじゃないかなぁ。かつて東照宮は全国に作られ、武士たちが参詣していたらしいですが、家康は神になったんじゃなく仏教の守護者的位置づけとして祀られた権力装置だったんじゃないか。仏教を背景にした権力の象徴としてあったんじゃないだろうか、と根拠無く考えているんですがどうなんでしょうね。
仏教の最高位に徳川家が居て、そのまま仏教を背景にした国家統治を行おうとしても徳川家より下にならざるを得ない。だから天皇家は伊勢神宮を持ち出して神仏分離を行うことになったんじゃないか。国家神道を、徳川型国家仏教に対するカウンターとして作り出さざるを得なかったんじゃないか。とつらつらと考えていますが、根拠はナッシングです。はてさて。
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異形の王権 (平凡社ライブラリー)
作者:Kousyou
更新日:2008年11月24日 13時14分
昭和天皇崩御に関する雑感
なんたらかんたら: 天皇崩御をリアルタイムで見た人ちょっと来て欲しい
1 :VIPがお送りします:2008/11/23(日) 05:37:35.63 ID:QgEZblFz0
今親父が怪我したんでお見舞いをしに実家に帰ってるんだが
ビデオ棚から天皇崩御の時のニュース番組が出てきたんだ
4 :VIPがお送りします:2008/11/23(日) 05:39:38.29 ID:QgEZblFz0
自分は当時生後三ヶ月で当然ながら全く記憶にないんだけれど
公民の授業で教科書に載っていること、先生から聞いたこと以上にカルチャーショック
なことが多いね
当時高校生でした。丁度冬休みだったこともあってテレビにかぶりついていた。吐血・下血の量が刻一刻と詳細すぎるほどに報じられて特別番組ばっかりで色々通常番組が自粛していて、友達と会っても話題が「天皇今日も血出してたね」って気候の挨拶みたいな感じで毎回話題にしてたような気がする。
薨去のニュースが流れたときは、ちょっと待ちくたびれてた感があったのだけど、一時代を担った天皇が亡くなったという点で、これは時代の変化だなという軽い高揚感があって、家で頭を下げて黙祷した。しかし、大喪の礼の頃にはもう過去の事という認識だったと思うけど、それこそ世界中の国家元首が集まっているのを見て、すげーと思ったのは覚えている。
振り返ってみると、あのころ感じた妙な高揚感はイメージだけで、昭和天皇の死は何も変えてないんだな、と思う。日本の様々な変化に関わった"人"であったけど、後年はいかなる変化にも関わらないことを心がけておられたんだろうな、と言う風に見える。(実際のところは知らないけれど)昭和天皇崩御というイベントは一過性のイベントでしかなくて、同時代的にはなんら意味を持たないし、歴史として積み重なる出来事ですら無かったのではないだろうか。
近代史においては、昭和天皇ほど様々な変化をもたらした人物がその死では何も変化をもたらさなかった、ということが実は最大の変化なのかもしれない。平安以降、天皇の死は、後醍醐帝を除いて、それほど時代に食い込む事は少なかったかなと思える。明治の前、孝明天皇はちょっと影響あったかもしれない。昭和天皇は天皇の存在が時代にアサインしないようにした、という点において変革者だったと言えると思う。だからこそ昭和天皇の死は、何も変えなかった。
ところで、昭和天皇の陵墓が東京にあるのをさっき知りました。大正天皇以降、東京都八王子市長房町の武蔵野陵墓地に円墳型の陵墓が作られ祀られているのだそう。鳥居があるところからして神式なのかな。
-天皇陵-昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)
大きな地図で見る
流石に無敵のグーグルさんも、敷地内には入ってない(笑)

現人神の創作者たち 上 (1) (ちくま文庫 や 30-3)
山本 七平

異形の王権 (平凡社ライブラリー)
網野 善彦
![太陽 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41apKNiT1OL._SL160_.jpg)
太陽 [DVD]
作者:Kousyou
更新日:2008年11月24日 11時11分
猫に突撃を繰り返す亀の動画
The killer tortoise
「猫さん好きだぁ〜〜〜〜!」とばかりに猫さん目がけて突撃していく変な亀さんの動画です。目標目がけて突入しては逃げられたり反撃されたり、それでもめげないところになんだか魅力を感じてしまう動画です。こういう無鉄砲に突撃していくのを見ると女性目がけて突撃する「諸星あたる」の映像が思い浮かぶのは30代だからですか、そうですか(笑)

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

ぷるるんランド カメ
作者:Kousyou
更新日:2008年11月24日 5時59分
現代日本人はなぜ「死という病」から逃れられないのか

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
河合 隼雄,村上 春樹
P188-190
人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない。それはある意味では病んでいるのですね。
(中略)
現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の「生きる」可能性が急に拡大されたからですね。その中で死について考えるというのは大変だったのですが、このごろ科学・技術の発展に乗っていても、人間はそう幸福になるわけではないことが実感されてきました。そうなると、死について急に語られるようになってきましたね。
だけど、ほんとに人間というものを考えたら、死のことをどこかで考えていなかったら、話にならないですよね。
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」で故・河合隼雄氏は「近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代」でその理由は「人間の「生きる」可能性が急に拡大されたから」だと語っている。この「生きる」可能性の急拡大という認識はとても同感で、まさにその通りだと思う。
ただ、それは科学技術の発展だけでなく、「個人」という思想が『人間の「生きる」可能性が急に拡大』させた根本にあるのではないだろうか。
森真一著「ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)」から「日本史のエッセンス―歴史が物語るもの (有斐閣アルマ)」を孫引き
「自分が自分であること」――これこそが大正デモクラシーの時代を貫く民衆の願望であった。その「自分」とはまず何よりも「人格」として意識された。(中略)自分たちにも人間らしい扱い(を)求める「人格」承認欲求は、労働運動や農民運動だけでなく、この時期の被差別部落の運動や女性の運動などさまざまな運動に共通した願いであり、その意味でこの時期の「自分」とはまず何よりも「人格」としての「自分」にほかならなかった。

ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
森 真一

日本史のエッセンス―歴史が物語るもの (有斐閣アルマ)
荒木 敏夫,加藤 哲郎,保坂 智
明治維新後、個人主義が日本に輸入されてから大正デモクラシーの時代に徐々に都市部から全国へと個人主義が浸透してくると何より「人格」を尊重したいという欲求が強くなっていた。とは言え、当時は家父長制度が強く日本中に浸透していた時代でもあり、そのジレンマに日本人は悩まされていた。
第二次大戦の終結ののち、日本の家父長制度は解体されていく。まず天皇を中心とした家父長的国家が解体され、続いてイエ制度、そして高度成長に伴う急速な都市化が地域共同体を解体した。その代りに家父長的共同体の役割を担っていたのは日本的大企業群だったが、バブルの崩壊ののち、終身雇用や非正規雇用の増大など、共同体としての役割を放棄する。1995年ごろのことだ。
このように、日本の現代史は、「人格」を縛る可能性を持つ共同体を解体し続けた歴史という顔を持っている。当然ながら人格の尊重はますます増して行き、その結果、どんなときでも人格は尊重されていなくては満足できない心理が生み出されるとともに、生きる目的もまた自分の人格が尊重され続けること、つまり満足して生きることに繋がってくる。「人生は一度きりなのだから楽しくない思いはしたくない。自己実現したい」という欲求が強まっていく。
つまり、「生きる」=人格の尊重=自己実現という、生きることに対する重要性の拡大がそのまま生きる可能性の拡大に繋がっているのではないかと思う。死は最も大事な人格の喪失であり、現代人にとって最も恐れるものだ。
この死の部分を欧米ではキリスト教が担っていて、個人として生きることとのバランスを取っていたが、日本においては、かつて、死とは共同体に帰ることであった。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)」(P53-54)
最後の目標は自然に帰ることであった。我執を捨て、煩悩を捨て、知性によってものごとを解釈しわかった気になる精神を捨て、自然の一員になっていく。そうやって無限の自然と一体化し「ご先祖様」となり、ときに村の神=仏として村の共同体を守っていく。それが解放の道であり、救済への道であった。
(中略)
生と死は、自然と共同体という包んでくれる世界があるからこそ成立するものであった。
ところが近代社会が形成されてくると、人間は自然から離脱し、共同体からも離散するようになる。包んでいる世界がなくなったのである。そして、そのことによって、生も死も裸の個人のものになった。生と死が個人の孤独な営みに変わったといってもよい。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)
内山 節
共同体を、"人格を縛るもの"としてことごとく壊し、あるいは自然と解体されてきた。日本において似非科学もスピリチュアリズムも新興宗教も心理主義もその共同体の不在に乗じて登場しているのだと思う。だからと言って旧き共同体を再生しようと思っても、もはやそれは現代人は望まないし、そもそもマッチしないだろう。もはや新しいゆるやかなつながりを模索するしかないのだと思う。
日本は関係性の中にアイデンティティを見出す文化であり、個人主義が輸入されてから以降も本質的には死も生も関係性の中にあったのだけど、生だけが肥大化した結果としての「死」の意味の忘却があったんじゃないだろうか。
それゆえに「生」の可能性の急速な収縮が、そのまま「死」の存在感の急拡大につながってしまうという関係性があるのではないか。また、その「死」の存在感の急拡大はそのまま「生」の極端な軽視を生むのではないか。
自殺死亡の年次推移
自殺死亡数の年次推移

総死亡率及び自殺死亡率の年次推移

これらのデータと関連があるかどうかはわからないが、生の急拡大に対する反動としての死の存在感の増大とコミュニティの不在という二つの要因が何らか関係しているのではないだろうか。
現代日本というのは、旧来の共同体の中の生と死という価値観が完全に喪失し、生を最上とする価値観もまた行き詰ったエアポケット的時代なのだろうと思う。
個人主義という人格を何より神聖視し、生こそ最上とする価値観が強く支配する社会の中で生と死とバランスさせた死生観(死を内包した生きるための物語)をどのように生み出すか、また、古き共同体への回帰ではない、新しい現代的なコミュニティ、あるいは緩やかなつながりをどのように生み出していくか、というのが今考えなければならない課題だろう。
まだ、僕自身よく考えをまとめきれていないのだけど、少しずつ考えていこうと思う。
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作者:Kousyou
更新日:2008年11月23日 23時57分


