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《変貌東北(中)》 潤う「ビザなし特区」 ~中露国境~(読売新聞 '08年10月22日朝刊より)

*時間が経っておりますが、10月21日から23日まで読売新聞朝刊の国際面に掲載されていたシリーズ記事をテキスト化しました。よろしかったらご覧になってください。今回は(中)です。後ほど23日(下)もご紹介したいと思っています。

*《変貌東北(上)》 中国、「統一朝鮮」にらむ ~中朝国境~
 (読売新聞 '08年10月21日朝刊より)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/110661333.html

【読売新聞 平成20年(2008年)10月22日朝刊より】

《変貌東北(中)》 潤う「ビザなし特区」 ~中露国境~

081022読売新聞02.jpg
*黒竜江省黒河市中心部の繁華街では、ロシア人向け商店が並ぶ

日本海航路の開発に弾み

 平日の商店街は、ロシア人客でにぎわっていた。アムール川沿いにある中国黒竜江省・黒河市。約1㌔先の対岸にある露極東の都市ブラゴベシチェンスクなどから来た人々だ。ギョーザ専門店に入ると、約20人いた客の大半はロシア人だった。

 「ロシアからのビザなし渡航のお陰で大繁盛だ。支店を二つ構えるまでになった」。店長の王志軍さん(26)は得意げに話す。タクシー運転手(44)も「収入は以前の5割増しさ」と笑った。

 黒河市は90年代、アムール川に浮かぶ面積1平方㌔弱の大黒河島に「互市(相互)貿易区」と呼ぶ特区を設け、ビザなし渡航を認めた。2004年には、この“特区”を広さ約15平方㌔の市中心部全体に広げた。

 川を渡る交通手段は、夏は船、川が凍る冬は氷上を走るバスやホーバークラフト。市商務局によると、1~8月に黒河を訪れたロシア人客は、前年同期比約22%増の約30万人に上った。

 黒河市の活況は、資源輸出などで好調な最近のロシア経済抜きに語れない。市当局者は「ロシア人の給与は10年前、中国人より少なかった。それが近年の経済成長で中国の数倍に膨らんだ」と話す。ロシアの物価上昇で、中国での飲食費や家電、服などの値段は「ロシアの半額から数分の1」(同当局者)と格安だ。

 この変化をにらみ、中国は近年、従来からの中露間の辺境貿易に力を入れる一方、同省の黒河や綏芬河、東寧など各地に互市貿易区を設け、ロシアマネーを呼び込もうと躍起だ。

081022読売新聞01.jpg

 ロシアの経済力は、停滞する図們江(朝鮮名・豆満江)下流の開発にも、活力をもたらしつつある。

 日中韓露4か国が進める露トロイツァ(旧ザルビノ)―新潟―韓国・束草間の日本海海運プロジェクト関係者は、「ここ数年、ロシアに資金的な余裕ができ、トロイツァ港への道路整備や港湾設備の拡充が進んだ。中国東北部から日本海を経る対日物流ルートを作るチャンスだ」と話す。

 この航路は今月23日、新潟―トロイツァ間の試験運航を行い、来春までの運航開始を目指す。トロイツァから約70㌔離れた中国の対露・北朝鮮国境の都市、吉林省琿春市の当局者は、「琿春から大連港経由で東京に物を運ぶと10日前後かかる。日本海経由なら3日で着く。日本海海運が軌道に乗れば、日系企業の進出も相次ぐはずだ」と期待する。

 トヨタ自動車などが進出する省都・長春と、琿春市の西隣の図們市を結ぶ高速道路も先月、開通。中国は、日本海海運を東北部の物流の大動脈に育てたい考えだ。

 ただ、中国側にはロシア流ビジネスへの警戒心もちらつく。ロシアは一昨年、50㌔まで無税で国内に持ち込めた税関規則を「35㌔まで」に変更。中国商品流入を抑える狙いとみられる。日本海海運でも、ロシアは通関手続きの簡素化を渋っているという。

 とはいえ、中露間では長年の懸念だった国境画定作業が今年、完了した。中露間の貿易総額は今年1~8月で前年同期比約25%増となるなど拡大する一方だ。中国の地方当局者らは対露ビジネスについて「楽観している」と口をそろえた。(黒河で 末続哲也、写真も)

(下)に続く

*《変貌東北(下)》 寒村 いまや韓国人街 ~長興島~
 (読売新聞 '08年10月23日朝刊より)

作者:あおいのママ

更新日:2008年12月5日 4時49分

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《変貌東北(上)》 中国、「統一朝鮮」にらむ ~中朝国境~(読売新聞 '08年10月21日朝刊より)

*時間が経っておりますが、10月21日から23日まで読売新聞朝刊の国際面に掲載されていたシリーズ記事をテキスト化しました。よろしかったらご覧になってください。今回は(上)です。後ほど22日(中)と23日(下)もご紹介したいと思っています。

【読売新聞 平成20年(2008年)10月21日朝刊より】

《変貌東北(上)》 中国、「統一朝鮮」にらむ ~中朝国境~

中国が改革・開放政策を導入してから30年。吉林、遼寧、黒竜江の東北各省も大きく変化した。北朝鮮やロシア、韓国など周辺国を巻き込みながら変貌する国境地域や沿海部の最新事情を、現場から報告する。

*朝鮮族
 中国東北地方に移住する少数民族で、人口190万人。延辺朝鮮族自治州や長白朝鮮族自治県を中心に吉林省に集中している。凶作などのため19世紀半ばから朝鮮半島からの流入が増大し、1910年の日韓併合以後に定着。北朝鮮建国後、一部は北朝鮮側に移ったが、中国側にとどまった人も多くいた。

081021読売新聞01.jpg

貿易拠点整備急ピッチ

 中朝国境を流れる鴨緑江が闇に包まれる午後7時過ぎ。中国吉林省・長白朝鮮族自治県の岸辺で、草むらに目を凝らすと、いかだに荷物を積む男2人のシルエットが浮かび上がった。

 いかだは、木の板とタイヤチューブで作った手製。そこに、約1㍍角の箱が3個並んだ。約40㍍先の対岸は北朝鮮両江道の恵山市だ。

 2人は深さ数十㌢の川底にさおを差し、静かに対岸へ渡っていった。

 「密輸さ。朝鮮族住民*と北朝鮮兵士らの仕業だよ」。近くを散歩中の漢族の中年男が、こともなげに話した。住民によると、中国側からは食糧や服、家電、ガソリン、化学肥料などを運ぶ。北朝鮮からは水産物や漢方薬材、鉱物、時には、ニセたばこなどの違法商品も、持ち帰る。

 「たいした産業がない長白では、密輸でもやらないと、食えない。警察も見て見ぬふりだ」(22歳の地元運転手)という。

 同県は東西1300㌔にわたる中朝国境線のほぼ中間点にある。人口約9万。交通の不便さに国境地帯という政治的微妙さが加わり、開発とは無縁だった。違法ビジネスにも頼り、細々と暮らしてきた地域だが、いま、変化の兆しがある。

 「対北朝鮮貿易の一大拠点を造ろう」―。9月8日、同県で開かれた交易会開幕式で、李平・県共産党委書記が訴えた。

 この日、同県から恵山への出口となる長白税関の前に、地元政府などが5000万元(約7億5000万円)以上を投じて建設したという卸売りセンターも仮オープンした。うたい文句は「中朝国境最大規模」。地元当局者は「北朝鮮の商社などに中国製品を売り、将来は、北朝鮮と自由に往来し、商売ができる自由貿易区を設けたい」と意気込む。

 同センターには、すでに国内業者100店舗以上の出店が決定。時計や服などを売る浙江省温州の男性(18)は「北朝鮮では、密輸易などで儲けた金持ちが生まれている。北朝鮮は国境貿易で最後に残るフロンティア。リスクも大きいが、前途を信じる」と言い切った。

081021読売新聞02.jpg
*中国吉林省の長白朝鮮族自治県に仮オープンした卸売りセンター

 地域振興の試みは、商業分野にとどまらない。8月、同県の中朝国境に位置する長白山(朝鮮名・白頭山)南麓が観光地として対外開放され、韓国人客ら約5万人が訪れた。国際大会を開けるスキー場やキャンプ場、映画村を造る計画も浮上。西麓には8月、長白山空港が開業した。

 急ピッチでインフラ整備が進む背景には、韓国マネーを呼び込むのと同時に、「将来の『統一朝鮮』出現をにらんだ中国政府の戦略がある」(外交筋)とみられている。「統一朝鮮」出現後の朝鮮族を中国内につなぎ留めるため、国境地帯に「富」の集積地を作っておこうという狙いだ。

 もちろん、北朝鮮情勢が依然として不透明なのが、最大の懸念材料だ。金正日総書記の健康悪化のうわさは、この地域にも広く流されている。50代の地元商人はこうつぶやいた。

 「総書記の病気問題の影響が及ばないか心配している。長白の将来は、北朝鮮次第なのだから」(長白朝鮮族自治県で 末続哲也、写真も)

(中)に続く

*《変貌東北(中)》 潤う「ビザなし特区」 ~中露国境~
 (読売新聞 '08年10月22日朝刊より)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/110702908.html
*《変貌東北(下)》 寒村 いまや韓国人街 ~長興島~
 (読売新聞 '08年10月23日朝刊より)

作者:あおいのママ

更新日:2008年12月4日 11時10分

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'08 11/30 テレビ朝日「サンデープロジェクト」独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~(2)

*11/30放送の「サンデープロジェクト」の特集を文字化テキストにしました。長めなので(約35分間)2回に分けて掲載しております。今回が最終回です。よろしかったらご覧になってください。番組の情報は北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会代表の三浦小太郎さんから連絡をいただきました。いつも本当にありがとうございます。また番組に出演されていたジン・ネット代表でジャーナリストの高世仁さんのブログにこの番組のことが掲載されていました。ぜひご覧になってみてください。

*脱北者を受け入れる意味 高世仁の「諸悪莫作」日記より
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081130

*'08 11/30 テレビ朝日「サンデープロジェクト」
 独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~(1)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/110551780.html

続き

【ナレーター】
 就職には日本語の習得が不可欠と痛感したチャンイルさん。

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「これ日本語の勉強なんです。」(パソコンに向かう)

【ナレーター】
 日本語を必死で独学し始めた。この日は同じ脱北者の友人・朴忠識(パク・チュンシク)さんが訪ねて来た。朴さんは3年前に来日、日本での生活になじんできている。

【脱北者・朴忠識(パク・チュンシク)さん】
 「仕事は見つかった?」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「とにかく働きたいよ。日本語が学べる仕事がいい。」

【脱北者・朴忠識(パク・チュンシク)さん】
 「僕は日本に来て3か月目くらいから皿洗いのバイトを始めたよ。ミスして叩かれたこともあった。でも日本語を覚えるまでひたすら皿を洗って頑張ったよ。新しい人生が始まったのだから一生懸命頑張ろう。」

【ナレーター】
 その夜、夜間中学の日本語授業の教室にチャンイルさんの姿があった。

【夜間中学の先生】
 「はい、じゃあ“ジュース”は?」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「冷たいです。」

【夜間中学の先生】
 「オッケー。」

【ナレーター】
 民間の日本語学校は授業料がかかるが、ここは公立のため無料だ。

【夜間中学の先生】
 「(ノートに)書いて・・。」(チャンイルさんに言う)

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「日本語が話せないと何もできないので、1、2年は日本語の勉強を頑張って、日本の社会になじんでいきたいです。」

【ナレーター】
 一方その頃、無国籍とされた高野ユミさんは悩んでいた。

【脱北日本人妻の娘・高野ユミさん(仮名)】
 「無国籍だと仕事が探せるかどうか分かりません。」

【ナレーター】
 ユミさんが無国籍とされたのにはある事情があった。

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】
 「(身分)証明書を持って行ったら、中国に入って捕まったら『この人は日本に逃げるために来たんじゃないか』という疑いがかかるので、だから(娘には)『何にも持つな』と・・。」

【ナレーター】
 通常、脱北者は身分証明書を持たずに北朝鮮を出る。身元が分かると強制送還されるからだ。ユミさんも身分証明書を持たずに脱北したため、身元が確認できないという理由で無国籍とされた。

 ユミさん同様のケースで日本国籍が認められた例はあるが、親子関係を証明するDNA鑑定などで十数万円かかり、ユミさんにはとても払えない。(映像「脱北者 DNAで帰化認定 北朝鮮生まれ日本人母と帰国 2007年7月27日付 読売新聞)

 こうして日本に住む脱北者の半数が無国籍とされ、定住を阻む一因となっているという。

【守る会副代表・山田文明さん】
 「会社によっては無国籍と聞いただけで『そんな人採用できない』とかね。アパートを借りること自体がなかなかね、『そういう人には貸さない』と平気で言う人もある、大家さんではね・・。」

【ナレーター】
 そんな中で日本への帰国を果たしたものの、再び北朝鮮に戻る脱北者もいる。(映像 去年6月26日 北京・北朝鮮大使館)

 ♪「民族の運命を一身に背負ったその懐の中で、あなたと私―」♪金総書記を称える歌を披露した石川一二三さん(当時56)は去年6月、突然日本から北朝鮮へ戻って行った。その理由とは―。

脱北者を待ち受ける困難③ 孤独感

【ナレーター】
 我々は北朝鮮に戻る前の一二三さんを取材していた。(2004年4月取材)彼女は千葉県にあるアパートで独り暮らしをしていた。一二三さんは日本人妻の母と共に1960年に北朝鮮へ渡り2003年に脱北、日本に帰国していた。取材中、一本の電話がかかってきた。

【石川一二三さんの親類】(電話にて)
 「もしもし。落ち着いて話を聞いて。」

【脱北者・石川一二三さん】
 「あなたたちのことばかり考えているよ。」

【ナレーター】
 電話は北朝鮮にいる親類からだった。北朝鮮に残してきた一二三さんの息子の目が見えなくなったと知らせてきたのだ。

【石川一二三さんの親類】(電話にて)
 「視神経によく効く薬を・・。」

【脱北者・石川一二三さん】
 「送ってあげるから。」

【石川一二三さんの親類】
 「お米が(1キロ)300ウォンから320ウォン・・。」

【脱北者・石川一二三さん】
 「値段がものすごく上がったね・・。」

【ナレーター】
 北朝鮮に残した家族の厳しい暮らしぶりを聞き、思わず感情があふれ出た。

【石川一二三さんの親類】(電話にて)
 「いつになったら会えるのかしら?(泣き出す一二三さん)泣くなよ・・。」

【ナレーター】
 彼女は生活費を切りつめ北朝鮮に残した家族に仕送りをしていた。

【脱北者・石川一二三さん】
 「こっち(私)の生活もね、今苦しんでいるから少し我慢して、少しずつ送ってあげるからそのお金でもって辛抱してくれと・・。日本のお金でね20万円くらいあれば(北朝鮮では)こういう部屋2部屋買える。」(悲しくため息をつく)

【ナレーター】
 このあと一二三さんは北朝鮮に戻って行った。北朝鮮へと去った2日後(去年6月)、一二三さんの姉は妹が住んでいたアパートを訪ねた。姉もまた脱北者だ。

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「『北朝鮮に戻りたい』というのはお姉さんにも言っていましたか?」

【脱北者・石川一二三さんの姉】
 「それは昔から言いました。子どももいないで独りぼっちでね、寂しくってどうやって暮らしていられるのかって、そうやって言っていたんですよ。」

【ナレーター】
 部屋には北朝鮮の家族に送るつもりだったのか、男物の古着などが入った段ボールが大量に残されていた。一二三さんは北朝鮮に戻る際、こう語っていた。

【脱北者・石川一二三さん】(去年6月26日 北京・北朝鮮大使館にて)
 「今の日本は同じアパートに住みながら隣の人との近所付き合いもない。氷のように冷たい感じでした。」

【ナレーター】
 一二三さんが最初に北朝鮮に渡ったのは1960年。彼女の記憶にあったのは近所付き合いも濃密だったかつての日本の姿だったはずだ。一二三さんが北朝鮮に戻ったことは日本で暮らす脱北者に波紋を広げた。

【脱北者・榊原洋子さん】
 「ここでの生活に寂しさを感じたのかということをね、考えさせられるんですよ・・。もちろん北に家族とか自分の子どもが残っているとしたら会いたいのは事実だし、それは理解できるんですね。でも(北朝鮮では)生きていけないんですよ・・。」

【ナレーター】
 これまで2人の脱北者が北朝鮮へ戻って行った。

【ナレーター】
 「・・よって法案は可決されました。」(2006年6月 参議院本会議)一昨年成立した“北朝鮮人権法”には実は脱北者についても規定がある。そこで謳われているのは『脱北者の保護と支援』だ。韓国ではハナ院という施設で脱北者の支援を行っている。この施設で2か月、社会に適応するための訓練を受ける。一人当たり140万円の定着支援金が支給され、韓国で暮らすための住宅・仕事の斡旋もハナ院が行う。しかし日本にはこうした施設はない。

【守る会副代表・山田文明さん】
 「脱北者の問題については何も(施策が)ないまま一貫していますね。生活と仕事を準備するための日本語の勉強など、やはり最初の何か月間か日本政府はやるべきだと思います。それはもう人道的課題としてやるべきだと。」

【ナレーター】
 さらに脱北者の保護にも課題がある。この映像は2003年脱北したある日本人妻が中朝国境の町(中国・延吉)で保護された時のものだ。

【総領事館職員】VTR
 「良からぬ人間がいてもいけませんので車の中へ。」

【脱北日本人妻】
 「分かりました。」

【総領事館職員】
 「○○さんですか?」

【脱北日本人妻】
 「はい。」

【総領事館職員】
 「この度はご苦労様でございました。」

【ナレーター】
 当時は脱北者がいると分かると日本総領事館の職員が迎えに来て保護することがあった。しかし今は、中朝国境から瀋陽まで400キロ以上の道のりを危険にさらされながら自力で来ることが求められるという。実際、2年前脱北した高野アキさん・ユミさん母子も瀋陽まで来ることが求められ、その途中、身の危険を感じたという。

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】
 「瀋陽まで行くのに(車で)12時間だったかね。自動車で行くって言ったんですよ。(途中に)警察がいるから行かれなくって(一度引き返した)・・。」

【ナレーター】
 瀋陽までの道のりは中国当局の警備の目をかいくぐったものだったという。さらに最近は脱北してから日本総領事館に保護されるまで半年かかることは珍しくないという。脱北者の保護活動を行うNGOもこう指摘する。

【北朝鮮難民救援基金理事長・加藤博さん】
 「長引くほど拘束されたり密告されたりする可能性が大きくなるわけですね。日本政府は中国政府に対して非常に遠慮している。強くですね、中国政府に働きかけると・・。」

【ナレーター】
 (“北朝鮮人権法”という)法律はあっても、具体的な制度は伴わないこの現状を政府はどう考えているのか?内閣府・外務省・厚生労働省・法務省に取材を申し込んだ。北朝鮮人権法の民主党原案を作った中川(正春)議員はこう言う。

【民主党・中川正春衆議院議員】
 「その議員立法の壁というのはひどく感じていますね。主務官庁がないんですよね。どの官庁も(脱北者問題を)みんなが投げ合いしているんですよ。法律の中で謳ったわけですから、(最低限の)経済的なその基礎的な部分の支援ということは当然含まなければならない・・。」

*'07 12/14 北朝鮮人権問題啓発週間国際会議
 中川正春さん(衆議院議員)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/87772992.html

【アナウンサー・寺崎貴司さん】(スタジオにて)
 「さて、取材を申し込んだ内閣府・外務省・法務省から文書による回答がありました。」

【アナウンサー・小川彩佳さん】
 「脱北者の保護及び支援に関する施策の詳細について、外務省の回答は『関係国との信頼関係、今後の脱北者の保護事案に及ぼし得る影響等を考慮して、コメントを差し控える』、内閣府の回答は『脱北者の保護及び支援に関して、外務省、文部科学省、厚生労働省等の関係省庁が連携して対応する』というものでした。」

Q:脱北者の保護及び支援に関する施策の詳細について

A:外務省の回答(抜粋)
 「関係国との信頼関係、今後の脱北者の保護事案に及ぼし得る影響等を考慮して、コメントを差し控える」

A:内閣府の回答(抜粋)
 「外務省、文部科学省、厚生労働省等の関係省庁が連携して対応する」

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「この『連携して対応する』っていうのは高世さん、要はこれどういうこと言いたいんでしょうか?」

実態も“非公表” 脱北者約170人 日本社会を漂流

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「ええ、特定の官庁の責任じゃないよと。つまりたらい回しだと思うんですね。北朝鮮の人権法の中では拉致被害者と並んで脱北者は“北朝鮮による人権侵害の被害者”と位置付けているんです。で、当然これ受け入れ態勢とらなくてはならないはずなんですけれども、政府は脱北者の人数も実態も明らかにしてないと。日本への入国もこっそりやっているという状況なんですね。これじゃあ受け入れ態勢っていうのはとれないと思うんです。」

北朝鮮人権法(抜粋)

第6条(国際的な連携の強化等)
 政府は、北朝鮮当局によって拉致され、又は拉致されたことが疑われる日本国民、脱北者その他北朝鮮当局による人権侵害の被害者に対する適切な施策を講ずる。

2006(平成18)年6月23日施行

【アナウンサー・小川彩佳さん】
 「どうして日本政府は脱北者の実態を公表したがらないんですか?」

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「はい。外務省の回答で『関係国との信頼関係』とありましたけれども、関係国っていうのは中国のことなんですね。中国にとっては脱北者というのは“密入国した犯罪人”で捕まえて北朝鮮へ強制送還しているわけなんです。ですから『日本も脱北者の保護なんていうのは大っぴらにするなよ』というのが中国の立場です。」

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「なるほど。あの率直な疑問なんですけれども、まぁ言葉の問題もあるんで脱北者の皆さんは日本よりもむしろ韓国に行った方が暮らしやすいんじゃないのかな?という気もするんですけど。」

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「はい。北朝鮮へ渡った人たちっていうのは日本で生まれて育った、まぁ故郷は日本だっていう人たちなんですね。ですから『いつか日本に戻りたい』という思いで今も北朝鮮に暮らしています。また日本人がいるんですね、たくさん。9万3千人のうち7000人近くが日本国籍者、で、特に日本人妻はですね、70歳代から80歳代になっていて、もう時間がないんです。ですからこれは緊急の邦人保護の問題として日朝協議などでもぜひ話題にテーマにしていただきたいと思います。」

【アナウンサー・小川彩佳さん】
 「本当にその受け入れる態勢作りが必要になってくるんですね。」

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「はい、そうですね。今後北朝鮮の体制が混乱するという事態、十分考えられるんですが、その場合は日本から行った帰国者それから日本人妻の親族が大量に出てくるのは間違いないんですね。実は日本政府は試算したことがありまして『10万人以上が日本を目指す可能性がある』ということになっています。今受け入れ態勢を作っておくということは、将来の有事に備えるという意味でも重要だと思っています。

 実は日本はインドシナ難民1万人以上、それから中国からの邦人家族含めて3万人近く受け入れた実績があるんですよね。こういうノウハウなんかを脱北者に適応するだけでずいぶん事態変わるんですよね。やれるところからぜひ手をつけてもらいたいと思います。」

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「そうですね。まぁ10万人というと大変ですよね。早く手を打たないと、という感じですよね、はい。それではまた来週です。」

終わり

*JIN-NET ジン・ネット
http://www.jin-net.co.jp/index.htm
*'06 12/10 映像とシンポで語る北朝鮮
 脱北者・榊原洋子さん(第1セッションにて)

http://akemama13.seesaa.net/article/110550332.html
*日本国内における脱北者支援の現状と問題点
http://aoinomama13.seesaa.net/article/39456814.html

作者:あおいのママ

更新日:2008年12月3日 17時5分

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'08 11/30 テレビ朝日「サンデープロジェクト」独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~(1)

*11/30放送の「サンデープロジェクト」の特集を文字化テキストにしました。長めなので(約35分間)2回に分けて掲載致します。よろしかったらご覧になってください。(続きはもうしばらくお待ちください)番組の情報は北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会代表の三浦小太郎さんから連絡をいただきました。いつも本当にありがとうございます。また番組に出演されていたジン・ネット代表でジャーナリストの高世仁さんのブログにこの番組のことが掲載されていました。ぜひご覧になってみてください。

*脱北者を受け入れる意味 高世仁の「諸悪莫作」日記より
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081130

【福田康夫総理(当時)】VTR
 「私は本日、辞任をすることを決意致しました。」(9月1日)

【ナレーター】
 突然の総理辞任で白紙に戻った北朝鮮による拉致被害者の再調査―。

【拉致被害者 横田めぐみさんの母・早紀江さん】VTR
 「本当にどうしてこんなに進展していかないのか。どうしてしぼんでしまうのかなって・・。」(11月15日)

【ナレーター】
 先送りされ見過ごされる拉致問題。一方、見過ごされるのは北朝鮮から逃れてきた脱北者も同じだ。カメラがとらえた脱北の瞬間―。「この車に乗ってください!乗って!乗って!!」(支援者)「日本に行きたいね・・。」(脱北者)

 今、日本で暮らす脱北者が急増している。「それは(この先)心配だよ・・。」(脱北者)自立を目指す脱北者に立ちはだかる高い壁―。「漢字は分からない・・。」(脱北者)「いつになったら会えるのかしら?」(脱北者)日本社会で漂流する脱北者たち、その数およそ170人。直面する壁にもがき苦悩する姿を5年に渡る長期密着カメラで追った―。

独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~

【アナウンサー・寺崎貴司さん】(スタジオにて)
 「特集は、独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~です。」

【アナウンサー・小川彩佳さん】
 「高世さん、ポイントをお願いします。」

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「はい。最初にこちらの映像をご覧いただきたいんですが。去年6月(2日)、青森の海岸に小船が漂着して、そこには脱北者4人が乗っていました。当時大騒ぎになった事件なんですけれども、実は脱北者はですね、小船じゃなくて飛行機に乗って日本にどんどんやって来ているんですね。今日本に住んでいる脱北者は170人に上っています。

 で、脱北者の保護と支援というのを謳った“北朝鮮人権法”という法律が2年前に成立したんですが、脱北者の実像ほとんど知られていません。北朝鮮から決死の脱出、そして日本で彼らを待ち受ける困難まで追っていくうちにですね、色んな問題が見えてきました。」

北朝鮮人権法(抜粋)

第6条2

政府は、脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする。

2006(平成18)年6月23日施行

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「はい、まずはこちらのVTRをご覧いただきます。」

北朝鮮から決死の脱出 カメラが見た

【ナレーター】
 2年前、1台のカメラが北朝鮮に近い国境の町で脱北の瞬間をとらえていた。「この車に乗ってください!乗って!乗って!!」NGOに保護されたのは北朝鮮から逃れて来た日本人妻。ほどなく緊張が解けた。

【脱北日本人妻】VTR
 「12日の朝の3時か4時に豆満江(トマンコウ)を渡りました。」

【記者】
 「川の水はどうでした?深かった?」

【脱北日本人妻】
 「このへん(胸のあたり)。ゴムボートが来て中国の人が押してくれました。」

【ナレーター】
 支援者の家に身を隠すことになったが、階段を上るのもやっとだ。

【記者】VTR
 「大丈夫ですか?」

【脱北日本人妻】
 「・・・。」

【記者】
 「じゃ、ちょっと休んで。」

【ナレーター】
 部屋に通された女性は用意された食事をむさぼるように口にした。

【記者】VTR
 「北朝鮮でこういう白いご飯、食べられましたか?」

【脱北日本人妻】
 「ジャガイモを茹でたものしか食べられませんでした。」

【記者】
 「今でもじゃべれる日本語は何がありますか?」

【脱北日本人妻】
 「『食べます』に『こんにちは』『こんばんは』、これくらい。」

【記者】
 「これからどうしたいですか?」

【脱北日本人妻】
 「日本に行きたい。生活のため。私は日本の女だから・・。」

日本で急増・・ 170人 脱北者“漂流”

【ナレーター】
 70歳代のこの女性は高野アキさん(仮名)。身の危険を冒して娘のユミさん(仮名)と国境の川を渡って来た。戦後、日本で朝鮮人と結婚し1960年に夫と共に北朝鮮に渡ったという。2か月後、遼寧省瀋陽(中国)の日本総領事館に保護され身元が確認された。そして去年2月、ついに日本への帰国がかなった。日本では北朝鮮で知り合いだった人たちとの再会を果たした。すでに帰国していた日本人妻だった。

【記者】VTR
 「日本は何年ぶりですか?」

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】
 「丸45年ぶり。何と言ったらいいか、うれしいばかりです。」

【ナレーター】
 念願の帰国を喜ぶアキさん。1年半後、大阪に住むアキさんを訪ねた。アキさんは娘のユミさんと一緒に4畳半2間のアパートで暮らしていた。

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】VTR
 「朝鮮(北朝鮮)に行ってこのような生活はしていなかったです。貧乏生活ね。水道もないし。(日本に帰れて)本当に幸せです。」(日本語で話す)

【ナレーター】
 実はアキさんは以前にも脱北を試みていた。1回目は夫と共に脱北したが失敗。中国当局によって北朝鮮へ送り返された。そして強制収容所に入れられたという。

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】VTR
 「朝鮮の収容所、日本語で言ったら刑務所、そこに入っていた。(収容所で)塩の御汁をくれるんだけど、うちの主人はみんな取られるんですよ。それで食べられない。(夫は)1か月いる間に本当に骨と皮だけになった。」

【ナレーター】
 1ヶ月後、アキさんは夫と共に釈放されたが夫は死亡。命がけの脱北は2度目でようやく成功した。

 日本に北朝鮮からの脱北者が最初にやって来たのは1996年。当初その数は年に数人だった。だが近年その数が急増しているという。北朝鮮事情に詳しいジャーナリストの石丸次郎氏はこう語る。

【ジャーナリスト・石丸次郎さん】
 「北朝鮮から韓国あるいは日本に先に入った脱北難民たちが、北朝鮮に残っている家族を呼び寄せて連れ出す、というケースが非常に増えているんですね。」

【ナレーター】
 東京(太田区)にあるアパート。2DKの一室には人があふれていた。

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】VTR
 「何人いるんですか、今?」

【脱北者・岩間元さん(60)】
 「大人が6人、子どもが3人。」

【ナレーター】
 家族は総勢9人。うち7人は1週間前に日本に着いたばかりだ。

【脱北者・岩間さんの次男】VTR
 「日本なら最低限の生活ができる。食べることに困らないのはうれしい。」

【ナレーター】
 朝鮮人を父に日本人を母に持つ岩間元さんは2000年に1人で北朝鮮にから脱出。生まれ故郷の日本に帰って来た。7年後、家族全員を脱北させ日本に呼び寄せた。

【脱北者・岩間元さん(60)】VTR
 「歳とるとね、自分の根っこを考えるの。親父のこととか息子たちのこととか。北朝鮮にいたら死んでたよ、みんな。孫たちもね、全部死んでたよ。」

【ナレーター】
 このような家族を呼び寄せるケースが増え、現在日本にいる脱北者はおよそ170人に上る。

 1950年代末、朝鮮戦争の傷跡がまだ癒えぬ北朝鮮は、復興のための労働力を求め在日朝鮮人の受け入れを表明。(1958年)朝鮮総連は「“地上の楽園”“限りなく自由で幸福な祖国”と猛烈な宣伝を繰り広げた。

 1959年12月、新潟から帰国船第1号が出港。84年まで9万3千人が北朝鮮へと渡った。帰国者の中にはおよそ1800人の配偶者など6000人以上の日本国籍者がいた。

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「ここ新潟港(東埠頭)から夢を抱いて北朝鮮に渡った人々には過酷な運命が待ち受けていました。中には消息が途絶えてしまう人もいました。」

【ナレーター】
 1992年に韓国に逃れた姜哲煥(カン・チョルファン)氏(40)の両親も帰国事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人だ。彼は平壌で生まれたが、一家で収容所に入れられたという。

【脱北者・姜哲煥(カン・チョルファン)さん】
 「帰国者は自由に発言をするので体制に悪影響を与えるとされ、多くの帰国者が強制収容所に入れられました。収容所に帰国者は5000人いました。日本人妻は10人以上いましたが、ほとんどが亡くなって、生きて出られたのは3~4人だと思います。」

【ナレーター】
 日本政府も帰国事業を後押しした。“在日朝鮮人帰国協力会”が超党派で設立され、新潟までの旅費など出港までの費用は日本側が負担。新聞も帰国事業に好意的な記事を掲載。在日朝鮮人の多くがそれを信じて北朝鮮に渡ることを決意したという。

【1959年 中日ニュース】VTR

故郷への船出 ―東京・新潟―
 「帰って来れば仕事も住宅も与えてくれる。帰る人、行く人、言い知れぬ無量の感慨が静かに桟橋を濡らしていきます。」(ナレーター)

【ナレーター】
 こうして北朝鮮へと渡った帰国者は差別と弾圧に苦しむことになったのだ。当時、新潟で帰国事業の推進活動をしていた小島晴則氏(77)はこう証言する。

【帰国事業の推進活動をしていた小島晴則さん】
 「協力したというのは日本人も責任の一端がこれはあるんだなぁと。自民党から共産党まであらゆる団体が後押ししながらこの帰国事業を推進していった、というのが実態ですね。」

【ナレーター】
 東京・太田区で北朝鮮から脱北させた家族9人と暮らす岩間さん。北朝鮮で生まれ育ち日本での生活が初めての子どもたちは電車の乗り方も分からない。切符を買うのは岩間さんだ。まだ若い息子夫婦と幼い孫たち。彼らにとって日本は言葉も文化も違う別世界だ。

【脱北者・岩間さんの次男】VTR
 「北朝鮮では苦労した。日本で頑張って子どもには楽をさせてやりたい。」

【ジン・ネット代表・ジャーナリスト・高世仁さん】
 「これからの日本の生活、心配ですか?」

【脱北者・岩間元さん(60)】
 「それは心配です。日本語を覚えるために学校に通わせなきゃならない。家族を食べさせないといけない。で、仕事の問題でしょ。アパートを今借りてるけど、なかなか上手くいかない。もう外国人だっていうと部屋主が嫌がるし、脱北者だったら100パーセントダメだよ・・。」

【ナレーター】
 様々な困難が日本での定住を目指す脱北者を待ち受けているのだ―。

脱北者を待ち受ける困難① 身元引受人

【脱北者・榊原洋子さん(58)】VTR
 「(北朝鮮では)毎日毎日何人かの人が死ぬんですよ・・。道端で死んでいる人が転がっているんですよ。」

【ナレーター】
 榊原洋子さんは2003年に脱北し、翌年日本に帰国した。洋子さんの両親は日本人だが、生まれてすぐ在日朝鮮人の夫婦に養子に出された。北朝鮮に渡ったのは11歳の時だ。

【脱北者・榊原洋子さん(58)】VTR
 「朝鮮の場合では働いても働いても給料はもらえないし配給ももらえないんですよ。無理矢理と言うかとにかく国境を越えて来たんですけどね。日本に来てからは本当に来て良かったなぁと思います。」

【ナレーター】
 問題は日本で誰が身元引受人になるかだった。

【脱北者・榊原洋子さん(58)】VTR
 「(脱北した時は)親戚の家にちょっと厄介になるかもしれないと思っていたんですよ。日本と関係がある人なのか?というのを外務省で調べるんです。で、調べた時に『自分たちは面倒見きれない』ということになっていたそうです。」

【ナレーター】
 外務省が日本の親類に彼女の身元を引き受けるよう頼んだが親類は断ったという。代わりに身元引受人になったのがNGO北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会だった。

【守る会副代表・山田文明さん】
 「(親類が)『身元引受人になります』と、そういうことを条件に外務省は日本入国を認めてくれるんですけどね、そういう人たちがいる場合はほとんどありません。そうするとNGOの方でその役割を果たすと・・。」

【ナレーター】
 北朝鮮で腰を痛めた洋子さんは働けず、NGOが手続きをした生活保護で暮らしている。今年5月、大阪の洋子さんのもとに韓国から息子のチャンイルさんがやって来た。チャンイルさん(仮名・30)は5年前(2003年)韓国に一人で脱北、韓国で支給される定着支援金を使って母の洋子さんを脱北させ、一足先に日本に帰国させた。

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん】VTR
 「ただ母のそばで暮らしたくて日本に来ました。自分一人の力で日本の社会に慣れていきたいです。」

【ナレーター】
 「一日も早く自立したい」というチャンイルさん。脱北してから3年、韓国での暮らしには慣れたが、日本で暮らすのはまったく初めてだ。(電車の)切符を買う姿もどこかぎこちない。

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】VTR
 「誰も教えてくれません。全部自分でやらないと・・。」

【ナレーター】
 この日訪ねたのは外国人向けのハローワーク(外国人雇用サービスセンター)だ。

【外国人雇用サービスセンターの職員】VTR
 「実際に働ける時間の方だけども、何時から何時?」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「(時間は)関係ないです。」

【外国人雇用サービスセンターの職員】
 「関係ないですか。あとはお休み?」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「も、関係ないです。」

【外国人雇用サービスセンターの職員】
 「関係ないですか。たくさん働きたいんだ。」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「時間がいっぱいですから。」

【ナレーター】
 この日、チャンイルさんに立ちはだかったのが日本語の壁だった。

【外国人雇用サービスセンターの職員】VTR
 「ひらがなとカタカナとこれを読んでもらえるかな?(書類を見せる)」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「(“しょくぎょうあんていしょ”を)しょくぎょうめんていしょ、にほんご、えいが・・。」

【外国人雇用サービスセンターの職員】
 「今、漢字少しは?」

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】
 「漢字ちょっと。はい、漢字分からない。」

【ナレーター】
 結局、この日仕事は見つからなかった。

【榊原洋子さんの息子・チャンイルさん(仮名)】VTR
 「早く日本語を覚えて仕事を見つけたいです。」

【ナレーター】
 一方、2年前日本人妻の母・高野アキさん(仮名)と共に脱北した娘のユミさん(仮名)は、当時は思いもよらなかった問題に直面していた。

脱北者を待ち受ける困難② 無国籍

【脱北日本人妻の娘・高野ユミさん(仮名)】VTR
 「お母さんが日本人だから(北朝鮮では)いじめられて。日本の戸籍を取って自分がやりたいことをやりたいと思います。」

【ナレーター】
 日本国籍を取得したいユミさんだが外国人登録証にあるのは「無国籍」の三文字。日本人妻だったことが証明された母のアキさんは日本国籍、つまり法律上は2人は親子ではないのだ。これにはある事情があった。

【脱北日本人妻・高野アキさん(仮名)】VTR
 「疑いがかかるじゃないですか。だから(娘に)『何にも持つな』と・・。」

CM

*JIN-NET ジン・ネット
http://www.jin-net.co.jp/index.htm
*'06 12/10 映像とシンポで語る北朝鮮
 脱北者・榊原洋子さん(第1セッションにて)

http://akemama13.seesaa.net/article/110550332.html
*日本国内における脱北者支援の現状と問題点
http://aoinomama13.seesaa.net/article/39456814.html

(2)に続く

*'08 11/30 テレビ朝日「サンデープロジェクト」
 独走追跡 “脱北者漂流”~日本定着への障壁~(2)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/110625941.html

作者:あおいのママ

更新日:2008年12月2日 7時49分

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'08 11/12 NHKBS1「きょうの世界」軍事境界線の通行を制限

*時間が経ってしまいましたが、11/12深夜に放送された「きょうの世界」の一部を文字化テキストにしました。(約6分間)よろしかったらご覧になってください。聞き取りに間違いの可能性もあります。どうぞご了承ください。最後に11月27日の調査会ニュースの一部を転載しています。特定失踪者問題調査会代表の荒木和博さんが26日にツアーで北朝鮮の開城に行ってきたということです。(*追記:荒木さんのブログにもツアーのことが載っています)

*開城ツアー 荒木和博さんのブログより
http://araki.way-nifty.com/araki/2008/11/post-21d0.html

“軍事境界線の通行を制限”

【キャスター・市瀬卓さん】(スタジオにて)
 「続いて北朝鮮が韓国に対して揺さぶりを強めているニュースです。北朝鮮は『南北を分ける軍事境界線を陸路で通行することを来月から遮断する』と韓国側に通告したことを明らかにしました。」

【キャスター・丁野奈都子さん】
 「これは南北間の軍事当局者会談における北朝鮮の代表が今日、韓国側に書簡を送り、明らかにしたものです。その中で北朝鮮は『過去2回の南北首脳会談で合意された韓国から北朝鮮への支援などを李明博(イ・ミョンバク)政権が露骨に破棄している』と主張し、『来月1日から南北を分ける軍事境界線を陸路で通行することを厳格に制限、遮断する』と通告した、としています。朝鮮中央テレビが北朝鮮の主張を次のように伝えています。」

【朝鮮中央テレビ・アナウンサー】VTR
 「わが方の度重なる警告にもかかわらず、南(韓国)による共和国(北朝鮮)への対決姿勢は危機水位を超えている。きたる12月1日から軍事境界線のすべての陸路通行を厳格に制限し遮断する措置を取ることを正式に通告する。“南北関係断絶”という危機にさらされている事を南は心得るべきだ―。」(11月12日)

【キャスター・丁野奈都子さん】
 「これに対し韓国統一相のキム・ホニョン報道官は、『今後も協議していく用意がある』とする一方で、強く『遺憾の意』を示しました。」

【韓国統一相 キム・ホニョン報道官】VTR
 「北朝鮮がこのような措置をとった事を大変遺憾に思う。軍事境界線の通行の制限や遮断を行えば、これまでの南北関係改善の努力が水の泡となってしまう。」(11月12日・ソウル)

“遮断”通告 なぜ今

【キャスター・市瀬卓さん】
 「それでは北朝鮮情勢を取材しています中国総局の池畑記者に聞きます。池畑さん、北朝鮮は何故このタイミングで軍事境界線の遮断を韓国側に通告したんでしょうか?」

【中国総局・池畑修平記者】
 「はい。言葉による警告だけでは韓国の李明博政権の融和政策見直しを止めることはできないと判断して、言わば実力行使に踏み切ることを決めたと見られます。北朝鮮は保守派の李明博政権の姿勢にこれまでも強く反発してきました。また韓国の民間団体が金正日総書記の健康悪化説にもふれたビラを風船につけて北朝鮮に向けて繰り返し飛ばしていることにも、北朝鮮はかなり神経質になっています。

 ただ、そうした強硬姿勢を一段と強めたのは、核開発計画の検証方法をめぐってアメリカとの間で合意に達し、テロ支援国家の指定が解除されてからのことです。例えばですね、指定解除の4日後に北朝鮮は『韓国との関係を全面的に遮断することも辞さない』と警告しました。今回発表した軍事境界線の遮断は、その時の警告を実行に移していく第一段の措置にあたります。北朝鮮としては核問題をめぐるアメリカとの緊張が和らいだのをチャンスととらえて、李明博政権に対する揺さぶりをさらに強めようという狙いがあるものと見られます。」

変わる国際情勢 北の外交は

【キャスター・市瀬卓さん】
 「そのアメリカは大統領選挙も終わってオバマ次期政権が2か月後には誕生するわけですけれども、そうしますと、北朝鮮は核問題を含めて今後さらに外交姿勢を強めてくるということなんでしょうか?」

【中国総局・池畑修平記者】
 「はい。北朝鮮は残り少なくなったブッシュ政権の任期中は核問題で譲歩はせず、核兵器を含めた核の放棄に本当に踏み切るのか?という極めて重要な問題は、対話に前向きなオバマ次期政権の出方を見極めながら決断すると、こういう方針だと見られます。

 今日これを裏付けるような動きがありました。北朝鮮の核開発計画の検証方法で焦点となっています核施設でのサンプル採取について北朝鮮外務省のスポークスマンが今日談話を発表、『先月アメリカと書面で合意した検証方法は“寧辺(ニョンビョン)の核施設の現地訪問”“文書の確認”それに“技術者との面会”に限定されている』と主張しまして『サンプル採取は今後も断固拒否する』という立場を打ち出したんです。

 北朝鮮が強硬な姿勢を崩さなければ6か国協議の開催自体さらに難しくなりますが、北朝鮮としてはそうなったとしても失うものはなく、オバマ次期政権が発足してから交渉を仕切り直せば良いと考えている模様です。

 北朝鮮にとって外交上の最大の目標は、金正日総書記の金正日体制の保障につながると位置づけているアメリカとの国交正常化です。金総書記の健康が悪化したと見られている状況もあるだけに北朝鮮指導部は、オバマ次期政権が発足してからそれほど時間を置かず国交正常化をも視野に入れてアメリカとの対話を一気に加速させ、それによって韓国・日本からも譲歩を引き出す、という戦略を描いているものと見られます。」

【キャスター・市瀬卓さん】
 「北京から池畑記者でした。以上、北朝鮮が南北の軍事境界線の遮断を韓国側に通告したニュースについてお伝えしました。」

終わり

調査会NEWS 723(20.11.27)より一部抜粋

 ところで私は昨日北朝鮮の開城に行ってきました。ソウルから休戦ラインを越えて行く日帰りツアーで、北朝鮮側が突然今月末で中止にすると言ってきたものです。幸い11月中の予約だったので間に合いましたが、初めて北朝鮮の土を踏んだときは感無量でした。北側のガイドたちとも国際関係や竹島、核問題から拉致問題まで結構議論をしました(さすがに「私は拉致被害者の救出に自衛隊を使うべきだと主張している。また、対北放送やビラの散布をやっている」とは言いませんでしたが)。

 やはりこれからはこちらで待っているだけではなく、どんどん手を突っ込んで直接間接に探してくることが必要ではないかと思います。もちろん、そのためにはあの体制を変えていく覚悟と現実的な作業も必要でしょう。古川さんや加藤さんも、認定されようがされまいが、北朝鮮から連れ帰ってしまえばそれまでのことです。目標をしっかり見極めていきましょう。

*特定失踪者問題調査会
http://www.chosa-kai.jp

作者:あおいのママ

更新日:2008年11月29日 4時27分

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更新日:2008年11月29日 4時27分

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伯父さんに会いに

0811伊豆01.jpg

 先週末、あおいのママは田舎に帰りました。伯父に会いに、そしてお別れをしにです。伯父さんは79歳、約1年半の闘病生活の末、眠りにつきました。

 父のきょうだいは多く、また歳も一番上と一番下とでは20歳も違い、親子ほど歳が離れています。現在50代、60代、70代です。私のいとこたちも20人以上いますので、その連れ合いや子どもたち、そして亡くなった伯父の子や孫・ひ孫を入れたら親族はかなりの数になりました。

 ここ数年は子や孫の不幸もあって、とてもつらい思いをしていた伯父さん。そんな中でも「リハビリに頑張っていた」と伯母さんが教えてくれました。誰に対しても面倒みが良くて、私たちの母が亡くなった時にも色々と世話を焼いてくれました。もう会えないなんて今でも信じられない。

 きょうだいが衣装を着せて最後の別れをしたのですが、「兄きの全身はやけどの痕だらけだった」と父が言っていました。伯父さんが戦争に行っていたのは聞いていたけど、海軍にいたとかで、乗っていた船が爆撃されて何度か沈没し、幾度も死にそうになったそうです。「もう少し生きていて欲しかった」とみんな言っていました。

 伯父たちも伯母たちも久しぶりに会ったら歳をとっていて悲しかったです。私の父も60代後半ですし、またいつこうして集まることになるのか分かりません。みんなずっと元気でいて欲しい。

 伯父さんの顔を見たら穏やかでまるで眠っているようでした。みんな涙が止まりませんでした。

*上の写真は車窓から撮影しました。(伊豆急線北川駅にて)

作者:あおいのママ

更新日:2008年11月28日 0時32分

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上を向いて歩こう

081004事件01.jpg

 あおいのママとパパは10月4日(土)に、定例のJR常磐線佐貫駅前で行われている拉致被害者早期救出のための街頭署名活動に参加したのですが、その署名活動を終えて柏駅に戻って来て偶然ある事件に遭遇しました。写真は現場となったビルです。駅前はあんな大騒ぎになったのに、千葉県警のホームページには事件として掲載されていないのが不思議なくらいです。当日の署名活動の様子はこちらをご覧になってください。
 ↓ ↓ ↓
*'08 10/4 佐貫街頭署名活動
http://akemama13.seesaa.net/article/107862415.html

 柏駅に着いた私たちは、駅前に新しくオープンしたばかりの高島屋ステーションモール新館に向かいました。外通路を歩いていると、何故か前の方に人だかりがあり、みんなが新館の屋上を見上げているのです。(上の写真の左側奥)「何かあるのかな?」と上を見あげた私はあまりの恐怖で足がすくんでしまいました。何と若い男性?が「飛び降りる」とさけんでいるようなのです。私たちの横を警察官がものすごい勢いで走って行きました。

 「えっ、ウソ・・」と絶句してしまう私。夫は「大丈夫だよ。本気で死ぬ気だったら、もうとっくに飛び降りてるよ」とわりと冷静でした。周りの人たちも「目立ちたいだけだろ」ってやじ馬に徹していました。小さな子を連れたお母さんも見物する始末で、後で思えばそうなんだろうけど、その場ではすごいショックを受けてしまいました。

 万が一あの男性が飛び降りたらどうしよう。またそれを見ちゃったらどうしよう。きっとトラウマになってこれから先、自分がどうなるか分からない・・。怖いんだけどやじ馬根性でその場を動けないでいる自分もイヤになってしまいました。落ちたら絶対助からない12階建てのビル屋上です。あそこから飛び降りたいなんてまともじゃない。どうかしてるよ。

 屋上ではしばらく男性が下にいる通路の群衆に向かって何やら言っていました。下を見下ろして本人は楽しそうにしている様子です。ホントにもう、いっちゃっている人はどうしようもないですね。注目されてうれしそうなんだもん。

 数十分そうしていたでしょうか。その男性は突然姿を見せなくなりました。たぶん警察官に取り押さえられたんだと思います。あれだけ下を向いていたんだから、背後にはあまり警戒していなかったような気がします。「ったく人騒がせな!」って後では言えるけど、本当に怖い思いをしました。あの男性が本気で飛び降りたら下は通路ですから巻き添えをくう人がいたかもしれません。それが自分だったかもしれないと思うと本当に怖いです・・。あれ以来、ビルのそばを歩く時は必ず上を見るようになりました。

081004事件02.jpg

 30分くらい経って新館の前のバスロータリーはパトカーや消防車や救急車などでいっぱいになりました。警察官やレスキュー隊の人たちが大勢到着し、物々しい様子に駅前は騒然となりました。はしご車もあって驚きました。12階まではとどかないですよねぇ。それと救急車から担架を降ろしているのを見てまた怖くなりました。万が一のこともあるってことで。あそこに運ばれるのは見たくない・・。

 駅前のデッキはものすごいやじ馬となりました。あんなに人が集まるのは夏の柏まつり以来では?と思えるほどでした。「何があったんですか?」と何人かの女の子たちに聞かれました。事情を話すと「ええっー!まったく迷惑ですよね。救急車必要な人がいたかもしれないのに」と言っていましたが本当です。急を要する方にとっては命取りです。

081004事件03.jpg

 しばらくして警察の方が「無事確保しました」とマイクで知らせてくれて、少しずつ人は減っていきました。ああ、良かったと思うのと同時に、お騒がせなその男性に非常に腹が立ちました。まったく~。ある人が「上から落ちてくるのは札束ぐらいにしてもらいたいですね」とおっしゃっていましたが、本当にそうですよね。それとオープンしたばかりの新館ビルの管理は?って思いました。そんな簡単に関係者以外の人が屋上に入れるものなんでしょうか?まさか関係者ではないと思いますけど・・。

 それにしても年がら年中は無理ですが、皆さんも災難に遭わないように常日頃からしっかり上を見て歩くようにしましょうね!そして飛び降りようとしたあなたへ。「下ばっかり見てないで上を向いて歩こう!!」この言葉をおくります。

081004事件05.jpg
*事件が終わった後に現場の真下の通路に立って見上げてみました・・。

作者:あおいのママ

更新日:2008年11月20日 9時3分

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'08 11/17 テレビ朝日「ワイド!スクランブル」帰り待ち30年・・市川修一さんの母死去

*11/17のお昼に放送された「ワイド!スクランブル」の一部を文字化テキストにしました。(約17分間)拉致被害者 市川修一さんのお母さんの特集番組で、特定失踪者問題調査会の北朝鮮向け短波ラジオ放送“しおかぜ”に収録したメッセージも紹介していました。よろしかったらご覧になってください。聞き取りに間違いの可能性もあります。どうぞご了承ください。お母さんの市川トミさんは11月15日に91歳で永眠されました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

【司会・大下容子さん】(スタジオにて)
 「続きましては北朝鮮に拉致された市川修一さんのお母さん、市川トミさんが一昨日(15日)亡くなりました。91歳でした。30年間待ち続けた息子との再会はかないませんでした。番組の過去の取材映像を交えて振り返ります。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】VTR
 「会いたいです。早く会いたいです・・。」

拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)死去 30年待った母の無念の死 母の言葉は今も流れ続ける(テロップ)

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「体を大切に元気でいてください。必ず会える日がきますよ。」

会いたい・・拉致から30年 市川修一さんの母死去

【ナレーター】
 30年前、北朝鮮に拉致された市川修一さん。その母・市川トミさんが一昨日くも膜下出血のためこの世を去った。91歳だった。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「あの、どういうかたちでもいいから生きて修一を迎えてほしいなぁと思っておりましたけども、その願いもむなしく・・。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】VTR
 「会いたいです。早く会いたいです・・。一日も早く帰るようにしてほしいです。もう私たちも歳とっていますからね、切実にそう考えます・・。」(2003年10月)

【ナレーター】
 母の唯一の願い、その思いがかなうことなく―。

【拉致被害者 増元るみ子さんの弟・照明さん(53)】
 「力不足でね、僕たちが。結局再会を果たすことなく逝かれたことに対しては『申し訳ない』という、その謝罪の言葉しかなかったですね・・。」(16日 鹿児島・鹿屋市)

【拉致被害者 市川修一さんの義姉・龍子さん】
 「(涙ながらに)母に修一を抱かせてやることが使命だったんです・・。もう口惜しいですよ・・。」

【ナレーター】
 同じ境遇である横田さん夫妻はトミさんの死を前に、無情な時の流れをこう口にした―。

【拉致被害者 横田めぐみさんの母・早紀江さん(72)】(16日 新潟市)
 「明るいお母さんでね。『いやー、良かった。修ちゃんのこと、生きているって教えてくれてありがとうね』って言ってね、本当に喜んでいらした姿をもう私は忘れられませんね。(親の世代には)確実に死はきますから、そのこと分かっているんですから、もう何とかして早く解決してほしいと思います・・。」

【ナレーター】
1978年8月 市川修一さん失踪

 30年前の8月12日、市川修一さんは恋人の増元るみ子さんと共に鹿児島県の海岸「吹上浜に行く」そう言い残し行方を絶った。そして「修一さんを北朝鮮で見かけた」そんな一筋の光となる情報がもたらされたのは失踪から17年後のことだった。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん】(2005年3月)
 「『お母さん、修一は北朝鮮で生きているよ』と言ったとたん、見る見る大粒の涙を流し『もうどこへね、おってもいい、元気でいてくれればそれでいい』本当にね、もう私もビックリするくらいの大きな声を、大声で泣いておりました。」

【ナレーター】
 生存の情報に流されたトミさんの涙。しかし次にもたらされたのは最悪の調査結果であった。

【テレビのニュース】(2002年9月)
 「市川修一さん、それから増元るみ子さん、この二人も死亡が確認されています。」

【ナレーター】
 2002年、北朝鮮は修一さんの拉致は認めたものの「死亡した」と発表。それでもむろんトミさんの闘いに幕が下ろされることはなかった。

【テレビのニュース】(2002年10月)
 「今、実に24年ぶりに祖国日本に帰って来ました。」

【ナレーター】
 北朝鮮から一部の拉致被害者が帰国する一方、その後日朝間の協議は膠着状態に。しかしどんなに月日が流れようともトミさんは息子の帰りを信じ続けた。今から4年前、我々の取材にトミさんはその思いをこう語っていた。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(2004年1月)
 「どうしているかなぁ、もう26年も会わないから。どんなになっているんだろうかなぁってね、いつも思うんですよ。修一がいなくなって、もう生きていたってもうしょうがない、何度かね、自殺しようかなぁって思った時もあるんですよ。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん】
 「両親がねぇ、もうすぐ90なんですよ。ねっ、本当に時間がないんですよ。何とかね、(両親が)健在なうちに会わせてあげたいって・・。」

【ナレーター】
 今年8月12日、修一さんと増元るみ子さんが拉致されてから30年の月日が経過。修一さんの自宅には今なお愛用の品々がそのままの状態に。そしてトミさんは30年目の決意をこう口にしていた。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】(今年8月)
 「『100歳まで生きたら修一に会えるよ』っておっしゃってくださるから、そのつもりで頑張っておりますけど・・。」

【記者】
 「120歳も130歳も生きなきゃあかん。こうここまできたら。もうほんまに・・。」

 (涙を流すトミさん)

【ナレーター】
 先月(10月)、アメリカが北朝鮮のテロ支援国家指定を解除。さらに北朝鮮はいったんは合意していた拉致被害者の再調査を延期。「トミさんはそんな膠着状態を自らの死をもって変えたかったのでは」そう拉致被害者家族会の事務局長である増元照明さんは語る。

【拉致被害者 増元るみ子さんの弟・照明さん(53)】(電話取材)
 「結局、この間もまた(拉致問題は)放置されているような状況ですからね。ご自分の死で『早く解決しなければこんなことになるのよ』という、国民の皆さん、それから政府の皆さんに示していかれたんではないでしょうか。」

息子に届けたかった声・・

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「修ちゃん、るみ子さん、お変わりないですか?一日も早く会いたいと祈っております。」

【ナレーター】
 実はトミさんの声は今もなお北朝鮮に向け発し続けられている。そのメッセージには母としてのやり切れぬ思いが込められていた。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「お母さんには23歳の修ちゃんの顔しかない。どんなに苦労しているだろうかと思うと、涙が滝のように吹き出てきます。」(涙ながらのメッセージです)

(CM)

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「体を大切に元気でいてください。必ず会える日がきますよ。」

【ナレーター】
 息子を待ち続けた30年、それは再会の日を信じ続けるものであった。

(CM)

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「『修ちゃん、修ちゃん』と名を呼び続けて、お父さんお母さんももう年寄りになって、おじいちゃんおばあちゃんとなってしまいました。月日が長いもんねぇ。」

【ナレーター】
 今もなお北朝鮮へ向け発し続けられている市川修一さんの母・トミさんの声。そこには戦い続けた母の願い、そして再会を夢見る思いが―。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん】(北朝鮮向け短波放送“しおかぜ”収録メッセージ)
 「修ちゃん一家に会えるまで絶対元気で、とはりきっております。修一が帰って来た時のお部屋を決めて、修ちゃんの好きな本を大切な本をいっぱい詰めて待っています。必ず会える日がきますよう、それまではとにかく体に気をつけてくださいね。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】(16日 鹿児島・鹿屋市)
 「お袋が穏やかに息を引き取っていって、顔を撫でながら『お母さん、頑張ったねぇ』って『頑張ったよねぇ』って。『後はね、お母さん、何としても修一を取り戻すからね。安心しなさい』って『安らかに眠ってください』ということをね、言いました。」

会いたい・・悲願果たされず

【司会・大和田獏さん】(スタジオにて)
 「必ず息子・修一さんは帰ると信じ、そして願っていたんですけども、その願いかなわず市川トミさん、亡くなられました。どんなに無念な思いを抱いて逝かれたのかと思うとね、荒木さん、つらくなりますけど・・。」

【レポーター・荒木茂彦さん】
 「そうですね。毎日家族のご飯を作って、いつもと変わらぬようにずーっと過ごしてきた、健康にはね、非常に気を使っていた、修一さんが帰って来た時には元気な姿を見せたいとずっと思っていました。しかし今月10日『頭が痛い』と訴えて自宅で倒れ入院しました。そして15日の午後、くも膜下出血が原因で亡くなりました。91歳でした。

市川トミさん 30年の闘い

1978年 息子・修一さんが恋人の増元るみ子さんと行方不明に
1995年 元北朝鮮工作員から、北朝鮮で修一さんの目撃情報がもたらされる
2002年 日朝首脳会談 北朝鮮から“修一さんは死亡”と一方的に通告
2004年 元朝鮮人民軍大尉が修一さんの生存情報 ワイドスクランブルで取材
2008年 自宅を新築 修一さんの部屋や道具もそのまま

 修一さんが拉致されてからトミさんの30年間の闘いです。まず1978年、修一さんが恋人の増元るみ子さんと行方不明になりました。その17年後、95年に元北朝鮮工作員から『北朝鮮で修一さんを目撃した』という情報がもたらされました。この時に初めて北朝鮮による拉致だということが分かったんですね。でも『元気でいてくれるなら』と号泣したといいます。そして2002年、日朝首脳会談で北朝鮮から『修一さんは死亡した』と一方的に通告をされました。

 しかし2004年、元朝鮮人民軍大尉が修一さんの生存を伝えました。その時我々は同行したんですけれども、ずっとトミさんはですね、こう話を聞く時、前のめりになって一生懸命聞いていました。その情報をもたらした時間っていうのは3時間以上なんですけれども、時々こう笑顔になるんですね。その笑顔になるのは、あっ、生きているだけでもうれしいんだっていうのがこう伝わってくるんですよね。目に涙をためるでもなく『えっ、そうなの』っていうふうにニコッと笑うんですよね。本当にその情報がうれしかったんだと思います。

 そして家の中なんですが、その時見てビックリしたのは“かえる”の置物がたくさんあったんです。これは修一さんが帰って来るように『修一“かえる”』という願かけで置物がたくさんありました。今年その家も新築されたんです。しかし“かえる”の置物はそのままですし、修一さんの部屋もそのままにしてあります。修一さんの部屋、道具はそのままにしてあって、本・コーヒーカップ・使っていたレコードやスーツなどはそのままにしてあって、修一さんがいつ帰って来てもいいようにしてあるといいます。

 昨日の夜(16日)は通夜でした。そして今現在は告別式が行われています。家族会は飯塚会長が行っています。そして増元事務局長も参列しています。増元さんの父親・正一さんは6年前に亡くなっています。このことについて増元さんは『とにかく時間がない。被害者・親が亡くなる前に取り戻してほしい。今回のことは非常に残念だ』と涙ながらに訴えていました。」

【司会・大和田獏さん】
 「中西さん、改めてその北朝鮮による拉致の非情さと言うか罪を思いますが。このトミさんの願いをかなえてあげられなかった、助け出せなかったこの日本という国もね・・。」

【ゲスト・中西さん】
 「本当に残念ですね。それであの、自分の国の問題をね、まぁ6か国協議と称して他所の国に委託してしまったみたいなところでずいぶんこの問題が遅れたと思いますね。そして今現在何を進行しているのか分かりませんけど、でも今日のような時はやっぱり麻生総理ね、『こんな思いはもう二度とさせないから』と『我々は今日から真剣になって取り組むんだ』っていうことをね、宣言すべきですよ。そのくらいやってくれないと拉致被害者の方々もたまりませんし、我々も国家に政府に対して、もう少し自分の国の同胞が拉致されたことにこの程度の反応で、またそれを延々とこうやって続けている国っていうのは一体何なのか?という疑問を抱いてしまいますからね。」

【司会・大和田獏さん】
 「川村さん、今の麻生政権はどういうふうに対応しているんですかね?この国については。」

【コメンテーター・川村晃司さん】
 「まぁ前の福田内閣の時にかなり水面下で動いていて、そのルート・パイプが今もあるんだ、というふうに外交当局の中で言う人もいますけれども、じゃあきちんと国のトップのリーダーがそれに対してどういうメッセージを出すか?と。まぁ定額給付金2兆円というふうに言われていますけど、その内の半分の1兆円でもこの日朝の問題できちんと有効に使えばですね、もっと解決が早くなるかもしれないし、2兆円を本当にこの拉致問題で取り返すんだっていうぐらいの意気込みでやればですね、私はかなり動くんだと思うんですけど。麻生さんにその決断・覚悟があるのか?ちょっと疑問符付きますね。」

【司会・大和田獏さん】
 「そうですね、はい。」

終わり

*しおかぜ通信
http://www.senryaku-jouhou.jp/shiotsuu.html
*市川トミさんから修一さんへ “しおかぜ”に乗せる想い
http://akemama13.seesaa.net/article/109731485.html
*'08 11/15 NHK「ドキュメント 日本の現場」
 ただいまを待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~

http://aoinomama13.seesaa.net/article/109755909.html

作者:あおいのママ

更新日:2008年11月19日 9時31分

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'08 11/15 NHK「ドキュメント 日本の現場」ただいまを待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~

*11/15の夜に放送された「ドキュメント 日本の現場」を文字化テキストにしました。(約30分間)拉致被害者 市川修一さんのご家族を取材した番組でした。よろしかったらご覧になってください。聞き取りに間違いの可能性もあります。どうぞご了承ください。お母さんの市川トミさんは放送当日の11月15日に91歳で永眠されました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

昭和53年北朝鮮に拉致された市川修一さん。母親のトミさんは91歳になった。拉致問題が膠着するなか家族はどのような思いで待ち続けているのか。その日々を見つめた。

【ナレーター】
 この夏、新築された家にある7畳の洋室。「部屋の主はきっと帰る、帰って来る」そんな願いを込めて家族が造りました。(“かえる”のぬいぐるみ等が多く飾られた部屋)拉致被害者 市川修一さんです。修一さんは昭和53年8月、恋人の増元るみ子さんと夕日を見に出かけた浜辺で北朝鮮に拉致されました。

 息子の帰りを30年間待ち続けてきた母親のトミさん。91歳になりました。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「どうしてるかなぁ、早く帰って来て、ってね・・。元気でいるかなぁ・・。」

【ナレーター】
 理由もなく突然奪われた肉親。拉致問題が揺れ動いたこの秋、家族の日々を見つめました。

「ただいま」を待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~

【ナレーター】
 8月下旬、北朝鮮は拉致被害者の安否について4年ぶりに調査を行う動きを見せていました。市川修一さんと増元るみ子さん。北朝鮮は「すでに死亡した」としていますが、説明には矛盾が多く、家族は生存を信じて活動を続けています。(映像は8月28日 鹿児島県鹿屋市にて行われた署名活動の様子)修一さんの兄・健一さんと妻の龍子さんです。「再調査で手がかりが見つかるのではないか」と家族は一縷の望みを託していました。

 市川さん一家が暮らす鹿児島県鹿屋市です。市川家の朝は健一さんの新聞配達で始まります。一家は去年、長く営んできたスーパーをたたみ、今は新聞配達や年金などで暮らしています。帰宅した健一さんが必ずすることがあります。両親の寝室をのぞいて元気で起きているか確かめます。

 市川さん一家は4人暮らし。父親の平さんです。今年93歳になりました。平さん、そしてトミさん、90歳を越えた二人は拉致被害者家族の中で最も高齢です。修一さんはトミさんが37歳の時に生まれました。3人きょうだいの末っ子。おとなしく手のかからない子どもでした。就職して家を離れてからも母親を気づかい、度々実家に帰っていました。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ああ、優しい子でしたよ。映画に連れて行ってくれたり・・。そうしてくれたことがね、やっぱり思い出になってますよね・・。」

【ナレーター】
 修一さんに会うまで元気でいたい。トミさんは毎日30分の散歩を欠かしません。毎朝、家族の食事も作ります。出来ることは何でも自分でしています。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「そうねえ、やっぱり90代になると、もう一つ元気でいなければって腹を決めないとね、弱くなりますよね。修一が帰るまではね、元気で迎えるんだっていう心を新たにせんとね、なかなかね、あの、80歳代と90歳代とは大変な違いですよね、ねっ。」

【ナレーター】
 父親の平さん。4年前から自分で入浴できなくなりました。週に2回、ディサービスに通っています。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ちょっとねぇ、咳が出るんですよ。風邪かなぁと思っているんだけどね。」

【ディサービスの人】
 「咳が出る?」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「はい、咳が出るの。」

【ディサービスの人】
 「ちょっと様子見てきましょうかね。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「お風呂はどうかなぁ。」

【ディサービスの人】
 「お風呂は熱がなければ入れます。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ああ、そうですか。お世話になりますけど、よろしくお願いします。」

【ディサービスの人】
 「はい、では行ってきます。」(手を振る平さん)

【ナレーター】
 トミさんも持病のリュウマチが悪化し、この秋からは薬に頼るようになりました。

 今年7月、一家は自宅を新築しました。健一さんは修一さんの部屋も造りました。「両親が元気なうちに弟に帰って来てほしい」そんな願いが込められています。部屋にあるのは修一さんが大切にしていた物ばかりです。繰り返し聴いていたレコード。毎朝使っていたコーヒーカップ。棚の中は修一さんがいた当時のままにしてあります。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「修一が帰って来たら、あのねぇ自分の部屋がないと悲しむんじゃないかって。ゆっくりする部屋を造ってやりたい。その話をしたら両親がすごく『ありがとう』と喜んでくれてね・・。」

【ナレーター】
 健一さんの心遣いを喜んだトミさん。しかし部屋には一度入っただけです。一人窓辺で過ごす時間が多くなりました。(青空を見つめるトミさん)

 9月5日、拉致問題に動きがありました。

【高村外相】VTR
 「少しでも帰国につながるということを期待していたわけでありますが、そういう連絡があったのは残念・・。」

【ナレーター】
 北朝鮮が福田総理大臣の辞任を理由に「拉致被害者の再調査を先送りする」と伝えてきたのです。進展するかにみえた拉致問題。先行きが分からなくなってきました。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「もう歯がゆい・・。おふくろにはね、話したくないよ。もう常にその時になってきたら約束事も反故にしちゃうでしょう。だからもう一喜一憂になっちゃうからね、もう全然私は話さないの。」

【ナレーター】
 その日の午後、健一さんに一本の電話がありました。「ああ、どうもお久しぶり。」(健一さん)拉致被害者家族の支援団体からです。「北朝鮮向けのラジオ放送で流す修一さんへのメッセージを収録したい」という依頼でした。「しおかぜの収録ですね。はい、はい。」(健一さん)

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「しおかぜの収録に来るって。修一に呼びかける・・。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「うん、うん・・。」

【ナレーター】
 早速トミさんに伝えます。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「あれをね、収録に来るから。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「18日に?」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「18日。だからその前に修一に呼びかける文章書いておかなきゃいかん。だからそうね、あのこの前書いたの、ほらっ、1枚だったかな?あれぐらいで2分から3分じゃないかな。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ああ、そう。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「うん。だから修一に一生懸命呼びかけてみて。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「はい。えへへ・・。聴こえてくれたらいいがな・・。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「聴こえるん、聴こえる。聴いておってくれるという一念で呼びかけなければ・・。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ああ、そう。はい。聴いてくれればいいがな・・。」

【ナレーター】
 弱気な言葉を繰り返すトミさん。

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「元気でいればね・・。」(「くすん」と鼻をならす)

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「今言った言葉をもう忘れて。同じことを・・。」

【ナレーター】
 わずかな望みを託した再調査。しかしそれも延期され、健一さんは苛立ちを隠せません。(立ち上がって部屋に戻るトミさん)

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「歳をとって子どもから言われると堪えるんだよね。それは分かっているんだけども、それを抑えきれない時もあるんだよね。ほんの、他人から見りゃ些細なことなのに『えー?何でそこまで怒るの?』と思われるかもしれんけども、どうしてもね、そういう時もあるよ・・。後で謝っとく、うふふ、『ごめん』って言って・・。」

【ナレーター】
 「再調査延期」のニュースが流れた10日後。東京に健一さんの姿がありました。家族会が開く緊急の集会に出席するためです。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】(9月15日緊急国民集会にて)
 「拉致問題は一刻も早く解決しなけりゃならない深刻な人権問題です。」

【ナレーター】
 90歳を越えた両親に残された時間は決して多くはない。気持ちを奮い立たせながら、各地で家族の願いを訴えます。

 鹿児島では北朝鮮向けラジオ放送の収録が近づいていました。トミさんは修一さんへのメッセージを書き始めていました。(とてもきれいな字です)

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさんのメッセージ】(収録当日 9月18日)
 「修ちゃん、るみ子さん、家族、みんなお変わりないですか?一日も早く会いたいと祈っております。お父さんもお母さんも90歳をいくつも越えました。修ちゃん一家に会えるまで絶対元気で、と張り切っております。修ちゃん一家もお父さんお母さんに負けないよう元気で一日も早く帰って来てくださいね。みんな元気で会える日を楽しみに待っています・・。」(涙声で呼びかけていました)

*しおかぜ通信
http://www.senryaku-jouhou.jp/shiotsuu.html

【ナレーター】
 10月初め、私たちが朝訪ねるとトミさんの姿が見えませんでした。午後になってトミさんは病院の車で帰って来ました。「リュウマチで身体のあちこちが痛み、診察を受けに行った」といいます。これまではほとんどなかったことでした。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「おかえり」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「ただいま。えへへ・・。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「遅かったなぁ。どうだったんだよ。」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「はあ・・。身体が痛いんだよ。」

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「痛い・・?」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「うん・・。」

【ナレーター】
 トミさんは夜よく眠れない日が続いていました。(心配そうにお母さんを見つめる健一さん)健一さんに身体のことを多くは語らず、トミさんは自分の部屋に入ったままでした。

 10月11日、拉致問題に大きな影響を与える動きがありました。アメリカが北朝鮮に対するテロ支援国家の指定を解除したのです。

【アメリカ国務省・マコーマック報道官】VTR
 「ライス国務長官は北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除の文書に署名した。」

【ナレーター】
 これまでアメリカは「拉致はテロ行為だ」として被害者家族に理解を示してきました。健一さんもアメリカの支援を強く期待していました。

【テレビのニュース】
 「アメリカが北朝鮮に対するテロ支援国家の指定を解除したことについて、河村官房長官は『これによって拉致問題が置き去りになってはならず、引き続き解決に向けて強い決意で臨む』姿勢を示しました。『日本にとりましては拉致問題・・問題を抱えておりますし、これも同時に進んでいかなきゃならない。政府としてもですね、この問題が置き去りにならないように拉致問題に対する政策はこの解除によって今後後退することはないと、強い決意のもとで進んでまいりたい・・。』」(テレビを見つめる健一さんと龍子さん。そしてその後ろからそっと見つめるトミさん)

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「・・もうイヤだ・・。今までこんなことはなかったんだけど、今日は何かすごく、すごくショックを受けてる・・。」

【ナレーター】
 トミさんはいつものように家族の食事を作り始めました。この日は健一さんの好きな卵焼きでした。

 10月20日、修一さんの誕生日です。拉致されて30年、修一さんは54歳になりました。(修一さんの部屋を掃除する健一さん)拉致問題をめぐって揺れ動く家族の思い。この秋も何の進展もないまま時間だけが過ぎて行きました。

【拉致被害者 市川修一さんの兄・健一さん(63)】
 「・・修一が帰国して『お父さんお母さん、ただいま』って言った時に、両親がいなければ・・どんなに悲しむか・・。90過ぎた両親が、本当にね、10年でも20年でも長く生きてくれたらね、ありがたいんですよ。でもね、人間の生命って限界があるわけでしょう。この10年先にまで健在でいるかちゅうことは分からないわけでしょう?」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「(窓からずっと空を見つめて)修一たちはどうしているでしょうねぇ・・。」

【記者】
 「空を見るとやっぱり考えますか?」

【拉致被害者 市川修一さんの母・トミさん(91)】
 「そうねぇ、やっぱり、どうしているかなぁ?思ってね。元気でいるかなぁ・・。(涙をぬぐう)いつもねぇ、頭から離れないですよね。やっぱりね、寝ても覚めても、やっぱりどうしているかなぁ?早く帰って来てーってね。元気でいるかなぁ・・。(空を見つめて泣くトミさん)あの子も祈ってね、早く帰って来てくれればいいけど。」(青い空)

市川トミさんは今月10日、くも膜下出血で倒れ、きょう息を引き取りました。心よりご冥福をお祈りします。(テロップ)

終わり

*修一さんのお母さんのトミさんが初めて短波放送“しおかぜ”に乗せるメッセージの原稿をお書きになったということで、2006年10月7日の第15回藤沢市民集会(救う会神奈川主催)で修一さんの義姉の龍子さんが代読されました。よろしかったらご覧になってみてください。
 ↓ ↓ ↓
*市川トミさんから修一さんへ “しおかぜ”に乗せる想い
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*カテゴリ「拉致被害者 市川修一さん」
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作者:あおいのママ

更新日:2008年11月16日 18時1分

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'08 8/17 第10回茨城県民大集会 横田滋さん(拉致被害者 横田めぐみさんの父)

0808茨城県民大集会08.jpg

*あおいのママとパパは8月17日(日)に茨城県水戸市で開催された「第10回茨城県民大集会」(主催:救う会いばらき、茨城県地方議員連絡会他)にボランティア参加をしました。当日、会場の水戸市民会館では約700人参加の大盛会となりました。会の撮影ビデオより登壇されました皆さんのお話の要旨レポートをご紹介しております。滋さんの講演は約14分間です。聞き取りに間違いのある可能性もあります。どうぞご了承ください。会場の写真はすべてあおいのパパの撮影です。(主催者よりレポートの掲載許可をいただいております)

【拉致被害者 横田めぐみさんの父・滋さん】
 水戸の皆さま、今日はお休みの日にも関わらず大勢来てくださいまして、皆さま方が如何にこの問題に関心が深いかということを肌に感じてありがたく思っております。

 皆さま方が映画「めぐみ ―引き裂かれた家族の30年―」というのをご覧になったかと思いますが、あれを見てみますと、例えば署名活動をやってもほとんどの人はもう素通りです。中には持っているカバンをたたき落とそうとする人なんかもいました。

とくダネ08.jpg
*'06 10/16 フジテレビ「とくダネ!」
日本人が描けなかった拉致問題 横田夫妻30年の闘い

http://aoinomama13.seesaa.net/article/26554346.html

 それからめぐみのことが明らかになって、ちょっと世論が盛り上がった時代でも、例えば外務省のアジア局長が「たった10人くらいの拉致のことで騒いで日朝国交正常化交渉が進展しなければ国益に反する」なんていう発言をして顰蹙を買いました。それは日本国民の中からいえば「たった10人」ということになるかもしれませんけど、よく石原都知事は「アメリカだったら一人の人が拉致されたら戦争をしてでも取り返す」っていうことをおっしゃいます。「10人の人を救うよりも国交正常化を優先する」ということがずっと続いたわけです。

 それが安倍内閣の頃からは政府に拉致対策本部を作って、その事務局の方に情報収集とか色んな下部組織を作ったり、それから拉致の担当大臣を最初は塩崎官房長官が兼任されたわけですが、しかしその後町村官房長官、それから今は拉致担当大臣として中山前首相補佐官が任命されると、昔だったら考えられないほどに政府が力を入れるようになったのはやはり皆さま方のこういった支援と言いますか世論の力のおかげだと感謝しております。

 拉致問題もちょっとしばらくの間まったくテレビや新聞に報道されることがありませんでした。例えば昨年ですと1年間に2回だけ日朝の接触がありました。しかし北朝鮮側は「もう拉致問題は生きている人はすべて帰した。後の人は死亡または未入境」と「もう拉致問題は解決済みだ」ということをずっと言い続けておりました。これは小泉総理が二度目の平成16年5月に訪朝した際、蓮池さん・地村さんの子どもを連れて帰ったわけなんですが、その時に北朝鮮側は今と同じように「拉致問題はもう解決済みだ」と言ったわけですが、小泉総理は「それでは日本国民が納得しないから再調査を」ということで約束を取り付けました。

 しかしこの時は期限も何もつけなかったので、8月頃になって第1回の日朝実務者協議で調査委員会を作ったということが分かり、それから2回目の9月の実務者協議で、蓮池さんや地村さんは子どもさんが帰ったので帰国した時とちょっと発言を変えて「めぐみさんは93年3月死亡」と言っていたのを「いや、94年まで一緒にいた」と話したもんですから、北朝鮮側は「勘違いだった」ということで「94年4月死亡」っていう訂正したぐらいで、それ以上の情報は入っていません。

 そして第3回目の実務者協議が11月15日、ちょうどめぐみがいなくなった時の日にあたりますけど、北朝鮮側はめぐみの夫という人が遺骨を持ってきたわけです。この時は今は公開されていますけど、ヘギョンさんの1歳の時の誕生日の写真や結婚直後のめぐみが長いスカートをはいて凱旋門みたいな所に立ってる写真を持って来たらしいんですが、しかし夫という人はサングラスをかけていたということ、部屋が暗いので本人かどうかは分からないけどおそらく本人だろう、という人から遺骨を受け取ってきたわけです。

 それで夫が「規則に反して遺体を病院の共同墓地から掘り返して持って帰った。それを火葬にして大事に事務所に保管していた。本当は自分が直接両親に返したいんだけど・・」しかし(当時のアジア大洋州局長)薮中さんが「いや、私は両親から委任を受けています」と言ったので受け取って帰って来たわけなんです。

 その時に一番心配したのは、警察庁の方が「非常に細かく砕いている」だとか「色が白い」っていうことを検分しておりますので、これはおそらく誰の骨か分からないように砕いて、そしてかつ高温で焼いてDNA鑑定ができないようにしたわけなんですが、しかし日本の帝京大学の技術の優秀さでそれはめぐみの骨のDNAは全然出てこないで、それ以外の2人のDNAが出てきて「別人の骨」と判明したわけなんです。

 「再調査」って言うとどうしてもそんなようなイメージが強かったんです。それでずっと昨年は交渉がなかったんですけど今年の6月に非公式の会合があって、そして「再調査をする」と合意したわけなんです。「いつから」とか「どんな方法で」とかは決まらなかったんですけど「再調査をする」ということであったわけです。そして今月の8月11日と12日に瀋陽でそれが開かれたんです。

 6月に再調査が決まった時に家族会にも説明がありましたが、一部の家族からは「再調査をすると自分のきょうだいが殺されてしまうから止めてほしい」というような話が出たんですけど、しかし斎木さんは「再調査をしなくていいんですか?再調査をしなかったら要するに解決しないんですよ」というお話をされたわけなんですけど、それで中山恭子さんが「再調査って言うとどうしてもイメージが家族にとっては悪いから、何か別の言葉はないだろうか?」っておっしゃっていましたが、今回政府の説明の時には「拉致問題の調査のやり直し」という言葉を使って、そういうところも少し家族に対して配慮したのかもしれませんけど、そういうかたちをしております。

 そしてこの時は具体的なことが決まりまして、第1は“目的として生存者を発見して帰国させるための調査をする”ということ、それから2点目の“どんな人を対象とするか?”というのは『認定者とその他の行方不明者等』と書いてあるわけですけど「“等”というのは何か?」と聞きましたら、その他行方不明者っていうのは特定失踪者の方を指すんだそうですが、それ以外にも「曽我ひとみさんのように届け出もしてないような日本人がいるはずだから、そんな人も含めてすべての被害者を対象とする」ということでした。

 3番目には“誰がやるのか?”。前はよく「日米の合同調査団を作ろう」という話もあったんですが、今回はこれははっきり『権限を与えられた北朝鮮の調査委員会によって行う』ということで、そして『できる限り秋までに終了する』ということなんですけど、これは「いつまでも先送りしないように、そこで歯止めをかけるために秋までに、という文言が入った」ということでした。

 そして『分かったところから日本に随時連絡をして、日本がそれを検証できるようなかたちにする』ということ