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白濱雅也の大作

白濱雅也大作.jpg

《想像界》の眼で《1流》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《1流》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《1流》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

白濱雅也さんとは、
いろいろと、もみ合いながらも関係が続いている。
これはかなり驚くべき事なのだ。

普通は、多くの人は、
彦坂には、へきへきとして去っていく。

あるいは、彦坂の方が、通り過ぎることになる。

私の方は、来る者は拒まず、
去る者は追わずだが、
作品が悪過ぎると、どうしても疎遠になる。

さて、その不思議な関係の白濱雅也さんの大作が、
先日のマキイマサルの個展に出品された。

魔女狩り  アクリル、パネル  
ギャラリーNWハウス  1993 220×1320cm


作品は、本当に大きかった。
13メートル20もあるのです。

333センチが500号なので、
単純に言っても、2000号と言える。

しかもその作品のクオリティが高いので驚かされる。
これだけの作品を作ると言うのは、凄いと言える。

中央には、漫画の目玉があって、
1993年という年は、まだ村上隆はシュミレーショニズムなので、
ドブ君は始まっていないはずなのだが・・・。

奈良美智も、まだ目立っていない。
美術手帖の表紙になった快楽絵画特集が、1995年です。

そういう早さも含めて、この巨大作品は、
充分に美術史的なモニュメント性を持っていると言えます。

さて、マキイマサルでの展示は、大きすぎて、
十分な展示にはならなかった。
いつか、美術館に収蔵されて、十分に良い状態で見てみたい作品である。

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作者:ヒコ

更新日:2009年1月10日 5時6分

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トヨタ自動車の時代は終わるのか?

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トヨタ自動車の新社長:豊田章男氏(52歳)

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 皮肉な事だが、トヨタ自動車が始まったのは、1933年9月に豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)の一部門として開設された、自動車部が起源です。

 皮肉と言ったのは、1929年の世界大恐慌の中で、それを打開する新産業としてトヨタ自動車が1933年に、始まったのですが、それが100年に1度と言われる今回の世界金融危機の中で、トヨタ自動車が平成21年3月期の連結営業損益で赤字に転落する事態になったのです。

 金融危機の実体経済への影響がいかに大きいかを改めて見せつけたのでした。

 つまり、1929年の世界恐慌の中から生まれたトヨタ自動車が、同じような世界恐慌の中で、沈没への道を歩み始めたのです。

 さて、こうした激動の時代に登場するトヨタ自動車の新社長の顔を、

彦坂流の《言語判定法》で見てみたいと思う。


<トヨタ自動車>創業家出身の豊田章男副社長が社長昇格へ

1月9日11時25分配信 毎日新聞



 トヨタ自動車は9日、創業家出身の豊田章男副社長(52)が6月末に社長に昇格し、渡辺捷昭(かつあき)社長(66)が副会長に就く人事を固めた。豊田章男氏はトヨタの事実上の創業者で2代目社長の豊田喜一郎氏の孫で、豊田章一郎名誉会長(83)の長男。トヨタで創業家が社長となるのは14年ぶりとなる。張富士夫会長(71)は留任する。

 米国発金融危機後の急速な自動車販売の落ち込みと円高で、トヨタの09年3月期連結業績は事実上初となる1500億円の営業赤字に転落する見通し。トヨタは「(08年見込みの799万台より少ない)年間販売700万台で利益の出る体質」(渡辺社長)を早急に整える必要性に迫られていることから、抜本的な商品力強化とリストラを図るには、創業家社長の下でグループ全体の求心力を高める必要があると判断した。

 章男氏は、84年のトヨタ入社後、スピード出世を重ね、05年に49歳で副社長に昇格、今春にも「次期社長に就任する」と見られていた。09年3月期の急速な業績悪化とそれに伴う減産、期間従業員削減などの動きを受け、トヨタ内部では「回復までの基盤固めは渡辺現体制で」との見方もあったが、創業家社長を張富士夫会長(71)、渡辺副会長らが支える布陣で難局を乗り切ることになった。トヨタは章男氏の叔父の豊田達郎氏(79)が退任した95年以降、奥田碩相談役(76)、張会長、渡辺社長と3代にわたり、豊田家出身者以外が社長を務めてきた。

 トヨタは週明けにも渡辺社長ら首脳陣が会合を開いて内定し、6月末予定の株主総会後の取締役会で正式決定する。【鈴木泰広、中井正裕】
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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的気質の社長。

《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的気質の社長。

《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的気質の社長。

《想像界》の人格。

気体人間。

《気晴らしアート》的社長

《ローアート》的な社長

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 あくまでも彦坂尚嘉という一介のアーティストの私見に過ぎないが、

トヨタ自動車という世界的な大企業の社長としては、《超次元》でない

と勤まらないのであって、新社長は次元が足りない。


《想像界》の人格と言うのは、あまりにも不安であるのです。

ニーチェ的言説でいえば、遂にトヨタ自動車は、没落を開始したと、

私は判断せざるを得ないのです。

それは同時に日本の単純系の古い資本主義と工業革命の時代の終わりを

意味します。本格的に日本社会は、複雑系の産業を立ち上げて行かない

と、完全に沈没して行ってしまいます。

 さて、この新社長の前の、渡辺捷昭(かつあき)社長の悲鳴とも言え

る発言と、そのお顔を人相見してみよう

「市況は底なし」販売不振にトヨタ社長嘆き節

1月8日22時14分配信 産経新聞


「市況は底なし」販売不振にトヨタ社長嘆き節

トヨタ自動車の渡辺捷昭社長(写真:産経新聞)

 「年が明けても先行きが読めないんです」

 こう嘆くのは8日昼、名古屋市内のホテルで開かれた中部経済4団体の賀詞交換会に出席したトヨタ自動車の渡辺捷昭(かつあき)社長だ。昨年秋の米国発の金融危機に端を発する世界同時不況による自動車販売の不振は、米国でも日本でも深まるばかりで、「底なしです。底打ち感が出てくれば見通しが立てられるのだが、いまはまだ落ち込んでいる最中」という。

 だから雇用は「現状を維持したいが、状況によってはさらに悪くなるかもしれない」と悲観的で、このまま市況が上向かなければ、期間従業員のもう一段の削減があることを示唆。賃金のベースアップに対しても「組合と話し合っていきたい」と述べるにとどめ、春の交渉を前に慎重な見方を示した。

 苦境を脱するには「原点に返って、何ができるか全員で知恵を出し、スピーディーに実行するしかない」と口元を引き締め、「今年後半には景気が上向いてほしい」と期待を込める。

 注目を集めるトヨタの次期社長人事を聞かれると「そんな場じゃないでしょう」と語気を強めていた。(名古屋特派員 早坂礼子)

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 天下のトヨタの社長の、「年が明けても先行きが読めないんです」と

いう悲鳴はリアルで、現在の世界金融危機が、急速な実体経済の収縮を

引き起こし世界大恐慌へと悪化して行くらしいことを、

認識させてくれる。

 さて、この前社長の顔を見てみよう。

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《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》的社長

《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》的社長

《現実界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術》的社長

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス・アート》的人格

《ハイアート》的人格

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私見では、トヨタほどの世界的大企業の社長は、

《超次元》の人格を持っているべきだとは思うが、

しかし渡辺捷昭(かつあき)氏は、《第1次元》の人物としては、

最高の成熟度を示している、大変に立派な社長であったと思う。

その彼が、《第1次元》である故に、現在の金融危機を読み

切れずに、悲鳴をあげ、退陣することになった。

《超次元》、つまり《超1流》の人物が必要なのです。

出来れば《第41次元》をも併せ持つ人格が欲しいのです。

作者:ヒコ

更新日:2009年1月10日 2時38分

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《第8次元》という信仰の世界とイスラエル

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世界最強のイスラエル軍。
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 「アートの格付け」で私が最初に発見したのは《8流》という、《第8次元》領域の発見でありました。その事情を書きます。それは韓国で開催されたアートフェアに、東京画廊が出品していて、作家の弘田一成、富田瑞穂、そして私が渡韓した時でした。

 そこでの弘田一成の作品に対する韓国側の反応と、日本側の評価のズレがありました。つまり日本側は、弘田の作品を良いとして肯定的に見るのですが、韓国側には、弘田の良さが伝わらないのです。何故なのか?それを対象化しようとして、初めて「アートの格付け」を試みて、《言語判定法》を使って、その結論が《8流》というものでした。
 《8流》というのが、他にもないかと、会場を探すと、伝統的な東洋画の1枚が《8流》でした。奇異な感じがしました。弘田の作品とは、ずいぶんと違う様式の作品だったからです。

 日本に帰って、《8流》を探して行くと、武満徹の音楽が《8流》でありました。これも奇妙ではあります。なにしろ前衛音楽ですし、評価の高い、《1流》のはずの作曲家だからです。この武満徹の音楽に関しては、江戸東京博物館の学芸員の方と、アートスタディーズのメーリングリストで、かなりくわしく討論したことがあります。詳しく述べると長くなるので省略しますが、武満の音楽は、《第8次元》性が強くあると、私は今でも言えると思っています。簡単に言えば、武満徹の音楽はマイナーで、良いと思える人々の中だけで、良く聞こえる音楽なのです。

 こうして探して行くうちに、そこが、どうも信仰の世界で、良いと信じれば良いと言う風に思えるらしいところだと、分かって来ました。文化とは、そういうものだとも言えますが、その閉鎖性には、疑問を感じました。先日の糸崎公朗さんとのコメントでのやり取りで、
西尾康之の作品を巡る評価の食い違いでも、
それが糸崎公朗さんの個人的な感覚の迷信世界になっていたから、
私が議論をしたくなかったのです。日本の現代アートが迷信化していて、
西尾康之の作品を良いと信じる迷信があるのは知っていますが、
私は、その迷信の外の人間なのです。
議論をずらして、平面論に移行したのは、そういう事であって、
人類の描いて来た多数の作品の構造分析の中で、
私は西尾康之の作品をBクラス絵画がであると言っているのであって、
迷信の応酬としての議論をしたくないのです。

 糸崎公朗さんは古典的なデッサンをもはやする必要がなくなったと2度
書いていますが、これも迷信であって、人類史の中では、何も終わってい
ない事です。具象画の描写絵画を描く場合、デッサン力は、今でも重要な
習得すべき事柄なのです。そして多くの画家が、実は、まともに描けない
のです。つまり単なる技術ではなくて、外部世界を見る時の精神の問題で
あって、低い精神には、外部をきちんとは描き得ないのです。
 
 つまり私は《第8次元》の領域での論争は、無意味と思っているのです。
 それは、迷信と迷信の戦いです。宗教戦争に興味はありません。

 あくまでも全人類の美術を、具体的に見て行く事、検討して行く事、
 そしてその構造を厳密に分析して行く事に、私は興味があるのです。

 ラカンの理論を関連づけていうと、この《第8次元》というのは、
ラカンの有名な図式である《シェーマL》との対応領域である、
ということが浮かび上がって来ます。

 《シェーマL》もラカン理論として難解であるだけでなくて、ラカン理
論として解説しても、その事自体が、秘教的なものになってしまいます。

 観念的図式の解説については、ネット上にもあるので、多くの論者にお
任せしたく思います。私の興味は、現実の中で、そうした《シェーマL》
の事例を、採取し、観測する事なのです。

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 私は、いわゆる「現代美術」の作家として1969年から72年くらいに、
デビューしています。

 その時代の現代美術は、いわゆる団体展というものを否定して行ったわけです。
その時代の美術大学の教授は、団体展の作家でありました。

 なぜに、団体展は、駄目になったのか?

 このことも、だれも表現論として、きちんと論じていません。

 80年代になると、辰野登恵子さんが、団体展の作家でも、
絵が描けているといった内容の発言をするのを聞く様になります。

 しかし、現在の辰野登恵子の絵画も駄目ですが、
団体展の美術の、ほぼすべてが駄目なのです。

 それはラカン的視点を分かりやすく彦坂的に言い換えて行くと、

 人間が美術の団体展のような集団を作ると、
その中の人々は、その共同体に特有の言葉と、
内部の価値観や理論を形成して、
その中に閉じこもる様になります。

 団体の中に自閉するのです。

 閉じこもってしまうと、
その中で、果てしなく、同じ言葉と、価値観と、理論を反復して、
迷信の価値体系を作るのです。

 代表的な一例をあげると、独立美術協会ですが、
「独立の仲間ぼめ」と言うのは有名でした。

 独立の作家どおしが、お互いの作品をほめ合うのです。
こうして、お互いの作品を認め合う言葉の繰り返しの中で、
迷信的な価値世界が作られて、その中から出られなくなります。

 同じ同義反復の会話を続けることになるのです。
そこでは批評は成立しません。

 団体展の美術作品が、模倣の連鎖になり、創造性を失うということに
なるのは、この共同体固有の迷信世界の円環化を生み出すからです。

 閉じた円環の外に出られなくなるのです。

 正確には、出られないというよりも、
出る事を拒否します。

 自分が正しいと信じる世界の、
閉じた円環や球体の外を見る事を拒否します。

 たとえばパンク右翼を自認して登場した福田和也は、
この彦坂のブログでも取り上げている映画『靖国YASUKUNI』に対して、
「見ない」と言っていました。

 すべてを見る必要はないのですが、
しかし自閉した迷信円環を生きている人は、
事実を直視することを、避ける傾向を、持っています。
私はいくつも観察して来ています。

 もちろんですが、私自身の内側にも、
そういう面は、観察されます。
性欲や食欲が人間の自然性である様に、
自閉性もまた、人間の自然性なのです。
しかし性欲や食欲を抑制しなければならない様に、
自閉性もまた、抑制される必要があるのです。

 現在も団体展が継続していますが、
こうしたシステムは、実は、人間の《第8次元》という、
具体的に生活して行ときに不可欠な、
「自明性の世界」として重要なのです。

 人間は、自分がそうだと信じる多くの自明性の中に暮らしていて、
その自明性は、実は迷信でもあるのです。

 私の若い時代は、まだお酒が自由化していなかったので、
サントリー・オールドを美味しいウイスキーと信じていたのです。
サントリーは広告活動に力をいれていて、
宣伝部には、文学者の開高健山口瞳柳原良平も所属していて、
その宣伝力の強さもあって、オールドは美味しいという迷信が、
作られていたのです。

 洋酒の自由化が始まると、
オールドの迷信世界は崩壊しました。

 日本という社会は、島国ということもあって、
多くの強力な迷信が形成されていて、
その中で、さらに小さな団体があって、またそこで迷信がつくられていて、
そういう迷信の果てしない入れ子構造の中に、
私たちは生きています。

 つまり私たちの生きる世界は、
こうした閉じた球体の連鎖の入れ子構造であって、
それは石鹸を溶かして、ストローで吹いた時にできる、
泡の山のような世界なのです。

 ですから、むしろ自閉して、
迷信を積極的に形成することを目指しているとすら、
言えるのです。

 村上隆の主張は自閉であり、とじたオタクの世界にこそ、
真実と、内実があると言うものでありました。

 いわゆるB級グルメの多くは《第8次元》です。
それだけでなくて、駅売りのゆで卵の味から、
コンビニエンスストアーで売っている駄菓子類まで、
下流階級が口にする過半の日常食品は、
《8流》のものなのです。

 柿のタネは、その代表的なものです。
基本的には、どのメーカーを買っても同じ味がします。
もちろん高級な柿のタネも存在はしますが、
多くの安物の柿のタネは、同じ様な味がするのです。
これが《第8次元》領域です。
この味が、美味しいでしょうか?

 ですから、実際に、こうした自明性の泡の自閉空間の中で、
私たちは生きているのです。

 そういう疑問を持たずに食べて、無意識に美味しいと感じている、
そういうものが《8流》の世界なのです。

 彦坂流には、この《第8次元》領域にも、
デザインと、《真性の芸術》があります。
まえに書いたカッパという吉祥寺の焼き鳥屋は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が《真性の芸術》になっている、
そういう意味で《8流》芸術の焼き鳥屋さんでありました。

 それに対して、山田うどんとか、すき家 牛丼  とか、
こういうものはデザイン味です。
柿のタネも同様で、デザイン味の《8流》品なのです。

 吉野屋の牛丼のほうが、すき家の牛丼よりも美味いという反応が
ありますが、すき屋は《第8次元》ですが、吉野屋は、《第6次元》で、
次元が上なのであります。
しかし吉野屋もデザイン味であって、芸術味ではありません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 さて、こうして《第8次元》の迷信世界は、
幻想の世界なのであります。

 1970年代では、たとえば若林奮や、中西夏之といった作家が典型でしたが、
自分の神話や幻想を作ることに、積極的な作家がいました。

 それは彦坂が言うだけでなくて、故・榎倉康二さんをはじめ、
何人もの作家が、陰でですが指摘していたことです。

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 若林奮の作品は、ニューヨークでのアキライケダでの個展まで含めて、
結構な量を見ていますが《第8次元》です。
彦坂の私見では、デザインであって、《真性の芸術》ではありません。
そういう意味で、
日本の現代美術の団体展化の、代表的な作家であったと言えます。

 つまり自分の信念と言う迷信の中で、円環を描いている制作なのです。

 こうして現代美術の《第8次元》化は、
実は深刻に展開していったのです。

 つまり日本の現代美術は、
団体展の外に出る事で、しばらくは迷信世界の外に出ていたのですが、
いつの間にか、現代美術という団体展になってしまいました。

 日本の現代美術は、
強固な《8流》の迷信世界を形成するようになります。

 美術雑誌も、批評性を失って、迷信雑誌になってしまう事で、
一般性をうしなって、発行部数を落として行きます。

【続きは下記をクリックして下さい】
 迷信世界の特徴は調査をしないと言う事です。たとえば、椹木野衣が
「1945年8月15日、日本の敗戦の日、日本列島に雲一つなかった」と言う
事を、書いているのですが、同じ内容を『暮らしの手帖』の花森安治も、
そして磯崎新も書いているのです。だから、皆、この迷信を信じているの
です。
 しかし私は、気象庁に行って、この日の天気図を見て、
さらに予報官を呼んでもらって、解説をしてもらいましたが、
この日、北海道は雨が降っていたのです。

 迷信と事実の差の中で大きいのは、迷信は調査をしないと言う事ですが、
そして、事実が分かっても、それを訂正する事は出来ないのです。
私は椹木野衣さんには、『日本・現代・美術』にある事実誤認を指摘
していますが、椹木野衣さんは「彦坂さん、私が書いているのはサイエン
スフィクションみたいなものですから、読まないで下さい」と言われまし
た。彼は事実誤認の訂正はしないのです。
 訂正できれば、それは迷信ではないのです。しかし《第8次元》の世界
は閉じているので、訂正をする事ができません。事実を認めて、訂正する
という、そういう理性的活動の出来ない領域が《第8次元》の世界です。

 だから、《8流》の混迷は無限に続くのです。だそういう領域を変革す
る事はできません。団体の外に出るしかないのです。常に、外部に出て
行くしかありません。脱ー領土化が、重要な方法なのです。
その具体的例として、イスラエル社会を見てみましょう。

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 この二人の顔が、《第8次元》領域の表情なのです。

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《想像界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
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 この女性の名前はラリサ(Larisa Trembovler)。
ロシアからイスラエルに移民したユダヤ人女性です。
 夢見る瞳が、特徴的です。《第8次元》の住人の顔をしています。
つまり閉じられた信念の球体の中にいるのです。
 それは同時に、その集団の価値観に完全に同化しているが故に、
個人性は無いので、デザイン顔になっているのです。つまりある特定に
集団の迷信に同化している、信者の顔であると言えます。
 彼女は、2004年8月にイスラエルのアヴァロン刑務所で服役している
暗殺者イガール・アミルと、獄中結婚して、話題になった人です。
 さて、結婚相手の男である
イガール・アミルは、イスラエルの首相であった
イツハク・ラビンを射殺したのです

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イツハク・ラビンの顔
《想像界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
《象徴界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
《現実界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
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 イツハク・ラビンは、イスラエルの左派労働党の軍人で政治家。
1991年ソヴィエト連邦が崩壊し、ロシアからの大量のユダヤ人労働者が
流入して、支持基盤を拡大して首相の座についた人です。

 1987年から1993年の第一次パレスチナ民衆蜂起(インティファーダ)
に衝撃を受け、アラブ側との和平を進めて、
1993年にオスロ合意、1994年の平和条約に調印したのです。
 この段階で、パレスチナ問題は、大きな政治的解決をみたはずであると、
世界の人々は考えました。
 ノーベル平和賞が、ラビンと、パレスチナ解放機構(PLO)の執行委員会議長ヤセル・アラファト、そして現在の大統領であるシモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞したのです。

 しかし、そのノーベル平和賞を受賞したシモン・ペレス大統領が、裏切って、
現在のガザ進攻をしているのです。

 そして、このイスラエルを和平にリードしたイツハク・ラビンが、1995年、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに至近距離より銃撃され、死亡したのです。

 暗殺者イガール・アミルは、イエメンからの移民(イエメン・ユダヤ人)を両親として、
イスラエルのヘルツリヤに生まれました。正統派ユダヤ教徒です。